道連れ
「別れよう」
話があると言われて待ち合わせをしていた駅前で、私よりも先に来て待っていた良平はなんの前触れもなく、あっけなく私に言い放つ。一方で私はただただ答えの出ない問いかけを自分自身に課すだけ。私が彼に不快な気分をさせてしまったのか。だとしたらなにが悪かったのか。
「どうしてまた突然そんなことを?」
「好きな人ができた。……ごめんな」
謝罪の言葉は私の脳に情報として受け止められることすらなく、空気中を漂う。口先だけの『ごめん』なんて聞きたくない。
そういえば、さっきから目障りな『物体』が私だけの彼に腕を絡めているのが視界に入ってきて、なんだか邪魔くさいと思っていたのだ。
この泥棒猫が。今すぐ腹を裂いて内臓を引きずりだし、この炎天下に晒してやりたい。かの有名な殺人鬼、切り裂きジャックがしたように。
この時点で私の腑は煮えくりかえっていたが、ここで取り乱しても良い結果を生み出さないことはわかっている。しかし私の中で、今まで大切に守ってきたなにかが壊れ始めたのを感じた。
「そっかそっか、あはは。うん、貴女の方が彼にはお似合いだよ! 良かったじゃない。あーあ、良平のこと、本気で大好きだったんだけどな。あはははは」
私が負けを認めたのだと信じたのか、けばけばしい『物体』はグロスをたっぷりと塗った気持ちの悪い唇から言葉を紡ぐことすらなく、満足気ににんまりと嗤った。
本当に嫌な女だ。こんなのに大好きな彼を取られるなんて悔しくて苦しくてたまらない。私はこいつよりも劣っているというのか。いや、そんなことがあってはいけない。猫かぶって良平を惑わせているだけに違いない。
「悪いとは思っている。本当にごめんな」
嘘嘘嘘。本当は嬉しいんでしょう。私なんかと離れることができて。こいつとの恋が実って。こいつもこいつで、良平の浮気相手から恋人に成り上がることができて嬉しくてしかたがないのでしょうね。
「もういいの。……二人とも、私が死んでも仲良くするんだよ? じゃあさようなら」
人生で一番ではないかと思われる満面の笑みを顔に貼り付けると、間髪入れずに駆け出した。
「もういいじゃあん、ほっとこうよう。どうせ死なないよお」
馬鹿みたいな喋り方。キンキンとした耳障りな甲高い声がうるさい。今に見てろよ。私はお前が幸せになることなんて絶対に許さないから。
駅ビルの屋上で吹き上げる向かい風を身体に感じている私は、白い雲がポツポツと浮かぶ青空を仰ぎ見る。
私の性格をよく知っていて、とても優しい良平はきっと追いかけてくるのだろう。
しかし一番の理由は、自分が殺人鬼だと思われたくないから。罪の十字架を背負って生きていく自信が無いから。私はどうせすぐに死ぬのだから、彼がこの先どうなろうと知ったことではないが。
懐からバタフライナイフを取り出して自分の腹に突き刺そうとする。早くしないと彼が追いついてしまう。彼は私を思いとどまらせてしまうから早く、早く。
手短に済ましてしまえば良かったものを、あと一歩のところで躊躇してしまった。私は背後で重たいドアが思い切り開け放たれる音と、彼特有の低い声を聞いた。不意に頭のどこかで「期待してたんでしょ」という声がよぎる。
「おい! 早まるな!」
「自分が言ったことに責任持って。私がこういう女だということはわかっていたでしょ? もう良平の気持ちはわかったから」
こちらに走り寄ろうとする彼にナイフの刃先を向けるとそれを見て驚いた顔になり、足を止める。
「今まで本当に楽しかった。良平がいつも傍に居てくれたから。貴重な時間も過ごせたしね。ありがとう。バイバイ」
私は彼に背を向け、今度こそバタフライナイフを自分の腹に突き立て――。私は腹を切り裂いて。……あれ。
ナイフは良平の大きい手に叩き落とされ、乾いたアスファルトに衝突して乾いた音をたてる。そして後ろから強く抱きしめられた。
「ごめんな。本当にごめんな。お前がそこまで俺のことを想ってくれているなんて気づけなかった。ごめんな」
どうせ誠意なんてこれっぽっちもこもっていない。だって彼は。
「何回謝っても無駄だよ? 私はもう死ぬから。これはもう私が決めたこと。良平がいない世界なんていらない」
だって彼は。
「そうだ。そんなに私が死んでほしくないなら……良平が罪悪感を抱えて生きていく強さを持っていないなら、私の出す問題に正解してみて」
だって彼は私の。
「問題……?」
「うん。じゃあ、いくよ」
だって彼は私の名前を。
優しく問いかけると、彼の顔はみるみるうちに青ざめていった。
「…………あ、ああああああ、あ、の」
彼は恐怖からくるものらしき涙をにじませ、急いで私から腕を放す。後ずさるような姿勢を見せた彼の腕を、すかさず強く掴んで逃げないようにする。力はもちろん良平には勝てないが、心を縛りつけるための鎖としての役割はきちんと果たしてくれているだろう。だからもう、逃げることはできない。
「時間切れ。わからなかったんだね。いいよ、いいよ。答えられないとは思っていたから……。ここ何年か、ちゃんと名前を呼んでくれることなんてなかったものね」
「ご、めごめんな、あ、おれは」
謝らないでと呟き、力を若干緩める。
私には醜い言い訳なんていらない。嘘だと知っていることにすがるのは馬鹿らしいから。
「もういいの」
「許してくれる……のか?」
一気に緊張をほどいた様子の彼に、ゆっくりと近づいていく。
「もちろんだよ。だって私は今でも良平のことが大好きだから」
偽りの無い本当の言葉。届いてほしかった想い。
「ありがとう、やっぱりお前は…………え?」
困惑を目に浮かべる良平。その網膜に映るのは、この私。念のためにと持ち出した二本目の包丁が役に立つとは、さすがに思わなかった。
「約束は約束だからね。許すのとコレとは、別だよ?」
固い肉の壁を貫く感触。生暖かい流血に濡れていく手。急速に体温を奪われ、虚ろな瞳になっていく彼。
呻きながら涙と血を流す彼が愛おしい。ナイフを腹から抜き、それに付着した血液をナイフごと舐める。鉄の甘美にも思える香りが、私の鼻腔や喉を突く。
私を抱き締めていた彼は目を閉じるとやがて、砂のお城のようにあっけなく地面に崩れ落ちた。
彼が完全に動かなくなるのを見届けると、私も今度こそは自身の腹に包丁を突き立てる。鋭い痛みが走り、意識が流れていく。もう立てないわけではないが、消えそうになる命の灯火の中で彼に折り重なる様にして、膝から前のめりに倒れこむ。
人は死に際に走馬灯を見るという。私の頭にも、それが浮かんでは消えていく。
この駅ビルで、笑顔の店員に勧められるままにペアリングを買った日のこと。大喧嘩をした翌日の早朝には、評判になっているケーキ屋のショートケーキを持って家まで来て、泣きながら謝ってくれた時のこと。でも全てが偽りだったんだね。せめて思い出だけは綺麗でいてほしかったのに。あれもこれも全部、本物の愛じゃなかったんだね。
「私の名前は――」
意味さえ考えずに唇に乗せた自分の名は、青空の中へと溶けていった。