教訓1:異世界では音を上げない。
国境の長いトンネルを抜けると草原でした。
とは行きませんが、何故かまあ生きています。茫然自失に、喪服姿の生きた私はつっ立っています。手にはトランクの取っ手を引っさげて。
なんででしょうか、さっぱり分かりません。
さっぱり分からないと言えば、ここはどこなのでしょうか。突き抜けるような晴天の空に、瞼を閉じても突き刺さるような、昼気の強い日差し。
身体に心地よく当たる緩やかな風は、同じようにそこら一面中の短長様々な雑草を揺らしています。それらが根付く土は、踏みしめる私の足をやけにふかふかに包み込んでくれて。
はるか向こうの羊のような雲と、時々ぽつぽつと生えている丸っこい木々が、単調な景色にアクセントを差し込んで、個人的にはとても好みの風景です。
でも、私の街には、こんな場所はありません。
それに、さっきから言いようのない、とてつもない違和感が私を襲っています。まるで、ここが現実ではないような。
なんなのでしょうか、理由が分かりません。
とにかく、詰まったら寝るより食い扶持稼げ、というおばあちゃんの言葉を伝に、一歩踏み出そうとすると、そういえば足はぐっちゃぐっちゃになってしまっていた気がしてなりません。ふと見てみることにしましょう。足よりも先に、何故か折れているはずの靴の高いヒールも元通りになっていることが目につきます。ただ、土の中に深々と埋まってしまっていて、これでは動けないです。あ、足も方々飛散していたり機能破綻しているなんて壮絶悲惨な状況にはなっていません。きっちり、ストッキングに包まれた太ももの付け根から膝関節、腱よりつま先にかけて動くかどうかを順々に確認します。
うん、大丈夫。喪服に黒ストのガニ股で、くねくねと足を踊らせる私です。こういう挙動も「ダメ」なんでしょうか。
そんな感じで、全身の検査をする私ですが、特に異常が見当たりませんでしたので以下省略して、今に至ります。
隣にある、私の背丈の三分の二ほどの大きさのトランクは、ここ二年のところの私の相棒です。中身は、いわゆる「普通の小物」と、私の大好きな「普通じゃない小物」、それと「普通じゃない大物」の3種類が雑多に詰め込まれています。一個一個、確認していきます。
カラオケマイク、大量のコンビニ袋、スピーカー、金魚すくい網、インド映画のパンフレット、アミノ酸錠剤、箱ティッシュ、虫かご、綿棒、タンブラー、充電池、デジタル腕時計、ユリの花の自作香水、ドライヤー、A4クリアファイル、サメの頭の模型、ギターの張替え弦、ビー玉、漫画原稿用紙、三年前のファッション雑誌、手鏡、糸ノコ、教科書一式、ルーズリーフ、筆箱、小さいビート板、紙粘土で作ったサボテンオブジェ、メイクボックス、杉の棍棒、うさぎのお人形、メイドカチューシャ、鎖、お気に入りの服上下問わず十数点。
どうやら私が轢かれる寸前に持っていたそれと寸分違わないようです。
はぁ、長かった。
トランクに荷物を押し込めて、一番近くの木になんとなく目を流します。焼き付く青を背景に、何か鳥のような生き物が、木の枝の間に築きあげられていた巣へと今この瞬間に舞い戻っています。その様に、だんだんと目を奪われていく私もいます。荷物確認のためにしゃがみこんでいた体勢のまま、右手の人差し指をハイヒールのかかとに突っ込んで靴べら代わりに。ちょっと指の腹が痛いけど、右足は無事に抜けてくれます。ぼふっと、バランスを崩し掛けた身体を支えるように、つま先が土の上に立つ感覚。もう片方も、同じように。すっと外れて、ぼふっ。そのまま、よたよたと、木の幹の下へとおぼつかなく歩いていこうとします。
小さな岩で中指を強打しました、痛い。
地面が近づく感覚……転びます。痛い。
……あれ。
強まる、違和感。なんなのでしょう。
瞬間、気づいてしまいました、私。
転んだ音がしてません。
そういえば、風の音も、草木が揺れる音も、足音も、鳥が羽ばたく音もしませんでした。すっ、とか。ぼふっ、とか。感覚を表した擬音だけが、虚しく私の心の中に響きわたっています。
私の。
私の耳は、おかしくなってしまったのでしょうか。
高まる焦燥感に、声を出してみろと迫られます。
顔を上げて起き上がり、座り込む形にになります。耳を押さえた指が、震えます。
私の耳が、おかしいのでしょうか。
それとも、世界がおかしいのでしょうか。
声を出せ、私。
「あ」
「あー」
「あーあー」
「あー!!」
聞こえた。
と思ったのもつかの間、さっきまで巣でぬくぬくとしていたはずの青い鳥が、羽ばたく音もなく飛び立ちます。ふいをつかれるように、「ケー」と鳴かれました。私の頭上高くを一周旋回する、二匹。さっきのと、もう一匹は多分、巣に残っていたメスでしょう。鳴くなら最初から鳴いて欲しいものです。
とにかく、聴力が失われたわけではないと知って安堵する私は、しかしどうしてこう効果音が鳴り響かないのか疑問に思います。ぽふぽふ、と心の中で音を鳴らしながら地面を叩く私に対して、現実は厳しく、何も音を発してはくれませんでした。
ああ、この世界は私の世界じゃない。
はっきり認識できました、今の私には。
で、どこでしょう、ここ。
根本的な解決になっていません。
「……どこだ、ここー!!」
叫びます。なんとなく、周りに環境音がないせいか、よく響いている気がします。
本当によく響いたのでしょうか。
何かが帰ってきました。
『――ヴァアアァアアアアアアアアッ!』
耳に届く、その声は何でしょう。まだ分かりません。なんなんでしょうか。
地が揺れ始めます、地響きの音は、しません。静かに、激しく揺れています。
あの声が何だったのか、まだ分かりません。なんなんでしょうか。
草木が不規則に乱れます。風を感じられません。あの声が何だったのか、未だに分かってくれません。なんだったのでしょうか。そして今起きている事は、何かの前ぶれなんでしょうか。
私はきっとそうだと思います。
『ヴァアアアアアアァアアアアア!!』
やっぱり、そうでした。
息を尽くす暇もなく、それは眼の前に現れます。
私の知る言葉の限りで言い尽くすならば、赤くて、普通の人間の二倍くらいの大きさで、コウモリみたいな翼と、大きな角、やたら長い首、短腕短足、しっぽ付き。何より前述の翼で飛んでいます。こっちに向かってきています。一言で形容するならそう、ドラゴンです。
ただし、顔は人間……というか、石像、みたいな形状で。
石像の顔が、私を睨んでいる気がします。
そういえば私、転んだ後、立ち上がっていません。
多分これ、格好の獲物って奴です。
もう、絶体絶命です。
……アレを、もう一度やっていいですか。
何か回避できる気がするので。
えっと。
私の名前は新田ハヤと言います。
そのまんま、ハヤと呼んで下さい。
もう呼ばれる機会もないかとは、思いま――。
「うおぉおおおおっ!」
どこかで聞いた声が閉じられた眼前で響いた気もしますけど、地の文阻まれた私にはもう、瞼を開ける余力もないのです。
あ、でもこれ多分、助かってるでしょうね。
全身から力が抜けます、体が崩れ落ちます。
今度は、はっきりと、目の前が真っ暗になる瞬間が、分かります。
なんだか、面倒くさい文体だなあ。