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夏の終わり

作者: 須藤彦壱

 

 

 

「へぇ、意外と涼しいのね」


 妻が言った。彼女は薄手のカーディガンの襟元をかき寄せた。


「もう夏も終わりだからね。――あれっ?」


 私は息子の姿を探した。さっきまで、私の脚にまとわりついていたのに。

 妻の細い指がすっと海のほうを指した。


「あっちよ。ジッとしてられないんだから。貴方と一緒」


 息子はいつのまにか、波打ち際まで走って行っていた。濡れた白砂の上に小さな足跡を残し、遠い水平線に立ち向かうように小石だか貝殻だかを投げていた。


 彼女の言う通り、二歳になる息子はいわゆる”腕白坊主”で、いつも託児所の先生たちを悩ませている。仕事帰りに迎えに来た私が文句を言われているときにも、私の横に立ったままで得意そうな笑みを浮かべているのだ。

 それでも久しぶりに三人で過ごした今日一日のはしゃぎ様は、いつもとはまるで比べ物にはならなかった。


 私は息子と同じように水平線を見やった。

 薄い霞の向こうには海原へと伸びてゆく岬が見える。規則的に打ち寄せる白い波頭に、オレンジ色の光線が踊っている。夕陽のオレンジだけが持っている切ない色合い。


「――どうするつもりなの?」


 妻は近くにあった小さな岩場に腰を下ろしていた。人工のビーチの白い砂が、サンダルを履いた彼女の素足に砂糖をまぶしたように貼り付いていた。


「どうするって、なにが?」

「お金のことよ。あたしだってバカじゃないわ。自分の手術にとんでもないお金がかかることくらい、気付いているのよ」

「病人が余計なことを心配するなよ」


 改めて間近で見る妻の横顔は美しかったが、やはり、その半年に及ぶ闘病生活で蓄積した疲労は隠せなかった。

 手に持っていた緑茶のペットボトルを、妻にそっと差しだした。妻はキャップを外して、口に運んだ。

 彼女の青白い喉の動きを見ていて、そのはかなさに私は慄然とした。


 私は妻の隣に坐った。


「君のご両親も出来るだけの事はしてくれるそうだし、俺の実家はまぁ、知ってのとおりのサラリーマン家庭で大した貯えもないけど、子供を預かったりしてバックアップをしてくれる。車も手放す準備が出来たし、幸いと言っていいか分からないけど、大して払いものがあるわけでもない。保険だってあるんだし、何とかなるよ」


 私は努めて明るい口調で言った。他に、私に出来ることなど何もないのだ。


「――ごめんなさい」


 俯いた妻の声は震えていた。


 もう何度も聞いた謝罪の言葉。

 急に倒れて病院に担ぎ込まれ、駆けつけた私の顔を見たとき。

 息子が熱を出し、私が小児科の救急外来を捜して一晩中駆け回ったのを知ったとき。

 当初、一週間の予定だった入院がしばらく長引く事がきまったとき。

 医者の前に二人並んで本当の病名と、手術をしなければ余命幾許もないことを告げられたとき。


 それを聞かされるたびに、私は彼女を襲った運命の理不尽さに激しい怒りを覚えるのだった。

 

「謝るなよ。オレだって、いつキミに面倒見てもらわなきゃならないか、分からないんだぜ」

「だって……」

「結婚した頃に言っただろ。オレは百まで生きるつもりだから、介護する覚悟をしておいてくれって。キミはしっかり引き受けた。忘れたとは言わせないぜ」

「そうだったわね」

「そうさ」

 

 妻は小さく、弱々しく笑った。


 浜辺にいた息子が、こちらに向かって何か叫んでいた。波の音にかき消されて何と言っているかは分からなかったが、身振りから”こっちにこい”と言っているようだった。


「行こうか」

「ええ」


 私は先に立ち上がり、妻の手をとった。細い手首に触れると、脈が一定の間隔で打ち続ける鐘のように、彼女の生命のリズムを刻んでいるのが感じられた。


 私はそれが永遠に停まらないことを祈った。

 

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