97. 名家と私と柊太朗
「ん……」
彼の熱い吐息が、私の首筋をくすぐる。指が絡み合い、シーツの中で肌が触れ合うたびに、ゾクゾクと甘い痺れが走る。もう一歩、あと一歩で、私たちは溶け合ってしまう。その予感に、私の心臓は高鳴り、呼吸は浅くなる。彼の腕が私を強く抱きしめ、耳元で甘く囁く。「愛してるよ、志摩子。ずっと……」
「ブーブー! ブーブー!」
……は? ブーブー?
夢だった。いや、夢とわかっていても、あの甘い余韻が全身に残っていて、私はしばらく呆然と天井を見上げていた。枕元でけたたましく鳴り響くのは、目覚まし時計代わりのスマホのアラーム。しかも、設定した覚えのない豚の鳴き声。誰よ、こんなイタズラしたの! って、私しかいないんだけど!
半年。夫が病気で亡くなって、あっという間に半年が過ぎた。あの衝撃的な日から、私の時間は止まったままだった。朝起きても、ご飯を食べても、仕事に行っても、何をしていても夫の影がちらつく。彼のいない世界は、色褪せて、音のないモノクロ映画のようだった。
夫は、去年の春に突然、進行性の難病が見つかったのだ。最初はただの風邪だと思っていたのだが、検査を重ねるうちに、「特発性肺線維症」という、肺が硬くなって呼吸ができなくなる病気と診断された。しかも、進行が早く、治療法も確立されていない稀なケースだと。
それから、夫の闘病生活が始まった。日に日に呼吸は苦しそうになって、酸素吸入器が手放せないようになった。食欲も落ちて、大好物だったラーメンも、一口食べるのがやっとだった。夜は、咳き込む声が聞こえてきて、私も眠れなかった。
「志摩子、ごめんな……」
病室で、酸素マスクをつけた夫が、掠れた声で謝った。何で謝るのよ、あなたは何も悪くない。私は夫の手を握りしめて、ただ泣くことしかできなかった。
それでも、夫はいつも笑顔だった。
「志摩子、今日のお昼ご飯、美味しいなぁ」 「志摩子、このテレビ番組、おもしれぇなぁ」
無理して笑う夫を見るたびに、私の胸は張り裂けそうになった。何とかしてあげたい、何でもしてあげたい。そう思っても、私には何もできなかった。ただ、夫の傍にいて、手を握ってあげることしか。
最期の日は、突然やってきた。その日の朝、夫はいつもより穏やかな顔で眠っていた。私は夫の頬を撫でて、「おはよう」と囁いた。夫は、ゆっくりと目を開けて、私の顔を見た。そして、かすかに微笑んだ。
「志摩子……愛してる。お前は、俺の分も…」
それが、夫の最期の言葉だった。夫は、私の手を握ったまま、静かに息を引き取った。その手は、まだ温かくて、私はいつまでも夫の手を握りしめていた。
夫が亡くなって、私の心にはぽっかりと穴が開いたようだった。ご飯も喉を通らず、仕事も何も手につかない。ただ、ぼーっと過ごす毎日だった。
そんなある日、一本の電話が鳴った。画面に表示されたのは、夫の母、つまり義母の名前。ああ、心臓が跳ね上がる。元々、強気で苦手だった義母からの電話は、いつも私を緊張させた。
「もしもし……」 「もしもしじゃねぇわよ! いつまでそんな腑抜け面しとるんじゃ! 年末年始は、はよーこっちにけぇってきなさい!」
電話越しでもわかる、その有無を言わせぬ迫力。返事をする間もなく、電話は切れた。腑抜け面って……見えているわけではないだろう、私の顔。ため息しか出ない。でも、夫の実家は岡山県の、地元では有名な名士だ。逆らうなんて、土台無理な話。私は重い腰を上げ、帰省の準備を始めた。
新幹線を乗り継ぎ、特急に揺られ、さらにローカル線でガタゴト。ようやくたどり着いた駅は、想像以上に何もない場所だった。駅前には義母が手配してくれたハイヤーが待っていて、私はそのまま車に乗り込んだ。
「お久しぶりでございます、奥様」 「ええ、ご無沙汰しております」
運転手さんの丁寧な挨拶に、私は少しだけ背筋を伸ばす。名士の家は、こういうところから違うのだ。車窓から流れる景色は、見渡す限りの田んぼと山。都会の喧騒から離れて、心が少しだけ落ち着くような、でもやっぱり寂しいような、複雑な気持ちだった。
車は立派な門をくぐり、広い敷地の中を進んでいく。ようやくたどり着いた本家は、まるで時代劇に出てくるような、威厳のある日本家屋だった。
「よう来たのう、志摩子」
玄関で待ち構えていた義母は、相変わらずぴしっとした着物姿で、その背筋はピンと伸びている。私は深々と頭を下げた。
「ご無沙汰しております、お義母様」 「さあ、中へ。話があるんじゃ」
有無を言わさせぬ口調に、私はごくりと唾を飲み込んだ。一体、どんな話だろう。夫が亡くなってからの半年間、私は義母とほとんど連絡を取っていなかった。何か、遺産相続の話だろうか。それとも、私がこの家を出ていくことについてだろうか。
通されたのは、広々とした応接間だった。重厚な調度品に囲まれ、私は場違いな気がして、ますます体が縮こまる。義母は私の向かいに座り、お茶を淹れてくれた。
「単刀直入に言うで」
義母の言葉に、私は身構えた。
「あんたには、柊太朗と結婚してもらうで」
……は? 今、なんて言った? 私は耳を疑った。結婚? 誰と? 夫が亡くなってまだ半年しか経っていないのに? 私の頭の中は、疑問符でいっぱいになった。
「柊太朗というのは……?」 「死んだ峰太郎の従兄弟じゃ。柊太朗」
柊太朗……? 夫にそんな従兄弟がいたなんて、聞いたこともない。いや、夫は昔、親戚に一人、ちょっと変わった人がいるとは言っていたけれど……まさか。
「柊太朗にこの家を継がせることにしたんじゃ。じゃけぇ、あんたには柊太朗の妻として、この家を支えてもらいたいんじゃ」
義母の言葉は、まるで雷に打たれたかのような衝撃だった。夫が亡くなって、この名家を継ぐ者がいなくなってしまったのは理解できる。でも、何で私が、夫の従兄弟と? しかも、会ったこともない人と?
「お義母様、それは……」 「ええから。年末年始は、あんたが柊太朗のお世話をしなさい。柊太朗もこの家に来とるで」
私の反論は、義母の鋭い視線によってかき消された。私はただ、呆然と義母の顔を見つめるしかなかった。
その日の夕食時、私は柊太朗と初めて顔を合わせた。
「こっちが、あんたの妻となる、志摩子さんじゃ」
義母の紹介に、私はぎこちなく頭を下げた。そして、柊太朗を見た瞬間、私は思わず息をのんだ。
で、でかい……! いや、太い!
彼は、正直に言って、ひどい見た目だった。かなり太っていて、顔はパンパン。髪はボサボサで、着てる服もよれよれ。しかも、私の顔を見るなり、目を泳がせて俯いてしまった。これが、本当に私と結婚する人なの? 冗談でしょ?
食卓は、重苦しい沈黙に包まれた。柊太朗は、私に目を合わせようともせず、ひたすら目の前の料理を黙々と口に運んでいる。その食べる速度が尋常じゃない。まるで、何日もご飯を食べてないかのように、すごい勢いで平らげていく。
「柊太朗、少しは志摩子さんと話しなさい」
義母の言葉に、柊太朗の体がビクッと震えた。彼はゆっくりと顔を上げ、私を一瞥すると、またすぐに俯いてしまった。その様子は、まるで怯えた小動物のようだった。
その夜、私は自室で一人、ため息をついた。こんな人と結婚するなんて、冗談にもほどがある。夫への裏切りだ。でも、義母の命令には逆らえない。どうすればいいんだろう。
翌日から、私の柊太朗への「お世話」生活が始まった。
「柊太朗さん、朝ごはんにしましょう」
私が声をかけると、彼はビクッと肩を震わせた。まるで、私が幽霊でもあるかのような反応だ。
「あ、あの……はい」
蚊の鳴くような声で返事をして、彼はのろのろと食卓に向かった。朝食中も、彼はほとんど私と目を合わせようとしない。私は、どうにかして彼とコミュニケーションを取ろうと、色々と話しかけてみた。
「あの、柊太朗さんは普段、何をされているんですか?」 「……えっと、その、本を……読んどります」
声が小さすぎて、ほとんど聞き取れない。私は耳を澄ませて、やっと彼の言葉を理解した。本? 意外だ。
「どんな本を?」 「……歴史とか、哲学とか……」
意外すぎる! 私は思わず二度見してしまった。まさか、こんなに太っていて、コミュニケーションが苦手そうな人が、歴史や哲学の本を読むなんて。ギャップがすごい。
「そうなんですね。私も歴史は好きです。特に幕末の志士たちが……」
私が話すと、柊太朗は少しだけ顔を上げた。そして、恐る恐る私を見た。
「え、そうなんですか? あの、坂本龍馬とか……」 「そうそう! 龍馬のあの行動力と、先見の明は本当に素晴らしいですよね!」
私が身を乗り出して話すと、柊太朗の目が少しだけ輝いたように見えた。彼は、少しずつ口を開き始めた。最初はどもりがちだったけれど、歴史の話になると、彼の言葉は少しずつ滑らかになっていく。
「あの、実は、僕、歴史の論文とか、書いたりしとるんじゃけど……」 「ええっ! そうなんですか!?」
私は驚きを隠せない。こんなにすごい才能を持っていたなんて。
その日を境に、私と柊太朗の関係は少しずつ変わっていった。彼は、私が話しかけると、以前のように怯えることはなくなった。食事中も、少しずつ会話をするようになった。
ある日の午後、私は庭で柊太朗を見かけた。彼は、庭の片隅で、小さな花壇の手入れをしていた。その手つきは、驚くほど丁寧で、繊細だった。
花壇には、季節外れのパンジーがいくつか、寒さに負けじと小さな花を咲かせていた。その周りには、青々とした苔が絨毯のように広がり、冬枯れの枝を伸ばした紫陽花の株が、春を待つように佇んでいる。柊太朗は、しゃがみこんで、枯れた葉っぱを一枚一枚、丁寧に摘み取っていた。その指先は、太くてごつごつしているのに、まるで宝石を扱うかのように優しくて、私は思わず見入ってしまった。時折、小さな雑草を見つけると、根っこからそっと引き抜き、土をならしている。その集中した横顔は、普段のオドオドした彼とは全く違う、真剣な表情だった。
「柊太朗さん、お花がお好きなんですか?」
私が声をかけると、彼は振り返った。その顔には、少しだけ照れくさそうな笑顔が浮かんでいた。
「はい。あの、昔から、植物を育てるのが好きで……」
彼の言葉に、私は胸が温かくなった。この人、本当に優しい人なんだ。見た目だけで判断してはいけないと、改めて自分に言い聞かせた。
年末、本家に親戚たちが集まってきた。
「柊太朗ちゃん、また太うなったんじゃねぇか?」 「いつになったらまともな仕事に就くんじゃ?」
親戚たちは、柊太朗に散々言いたい放題だった。彼は、そのたびに肩をすくめて、小さくなっていた。
「柊太朗さん、大丈夫ですか?」
私が心配して声をかけると、彼は力なく笑った。
「大丈夫じゃ。昔から、こんな感じじゃけぇ」
その言葉に、私は胸が締め付けられた。彼は、この名家の中で、ずっとつまはじきにされてきたのだ。夫が亡くなったことで、急遽本家に呼ばれ、こんなことになったというのも、納得がいく。
ある夜、私は柊太朗と一緒に、縁側で月を見ていた。空には満月が輝き、庭の木々は静かに揺れている。
「あの……お義母様から、結婚の話、聞きました?」
私が切り出すと、柊太朗はビクッと体を震わせた。
「はい……その、僕なんかで、本当にええんじゃろか?」
彼の言葉に、私は少しだけ驚いた。てっきり、嫌がっていると思っていたからだ。
「私も、正直、驚いています。でも……」
私は言葉を詰まらせた。柊太朗は、ゆっくりと私の方を見た。彼の目は、不安と寂しさに満ちていた。
「僕、ずっと一人じゃったけぇ……。誰にも、期待されんかったし……」
彼の言葉が、私の心に深く響いた。夫を亡くして、私も一人だった。この半年間、ずっと悲しくて寂しくて、誰かに寄り添ってほしかった。
「私も、寂しかった。夫が亡くなってから、ずっと……」
私の言葉に、柊太朗の目が少しだけ潤んだように見えた。彼は、ゆっくりと私の手を握った。その手は、大きくて、暖かくて、安心できた。
「僕でよければ……僕が、あなたの寂しさを、少しでも埋めることができれば……」
彼の言葉に、私の目から涙が溢れ出した。私たちは、お互いの寂しさを、そっと支え合うように、ただ手を握りしめていた。
翌日、義母から呼び出された。
「柊太朗と、どうじゃった?」
義母の言葉に、私は正直に答えた。
「柊太朗さんは、とても優しい方です。そして、私と同じように、寂しさを抱えている方なのだと、感じました」
義母は、私の言葉に満足そうに頷いた。
「そうか。なら、ええがな」
私は、柊太朗との結婚を、前向きに考えることにした。最初は、義母の命令で仕方なく、と思ったけれど、今は違う。柊太朗は、私の心に、少しずつ大きな位置を占めるようになっていた。
ある日の午後、私は柊太朗と一緒に、近場の温泉に行った。柊太朗は、温泉に入るなり、気持ちよさそうに「ふぅ~」と声を上げた。その姿は、まるで大きなアザラシのようで、私は思わず吹き出してしまった。
「柊太朗さん、まるでアザラシみたいですね!」 「え? あ、はは……よう言われるんじゃ。マグロみたいだ、とか」
柊太朗は照れくさそうに笑った。その笑顔は、以前よりもずっと自然で、リラックスして見えた。
温泉から上がると、私たちは地元の食堂でご飯を食べた。柊太朗は、美味しそうにカツ丼を頬張っている。
「美味しいじゃね、これ!」 「ええ、本当に」
私は、柊太朗が美味しそうに食べる姿を見ていると、自然と笑顔になった。この人と一緒にいると、心が温かくなる。
夜、自室に戻った私は、スマホのアルバムを開いた。夫との思い出の写真がたくさん保存されている。夫の笑顔を見て、私は少しだけ涙ぐんだ。
「お父さん、私、大丈夫だから」
私は心の中で、夫に語りかけた。夫は、きっと私が幸せになることを願っているはず。
翌朝、私は柊太朗と一緒に、初詣に出かけた。雪がちらつく中、私たちは手をつないで参道を歩いた。柊太朗の手は、やっぱり大きくて、温かくて、私を包み込んでくれるようだった。
神社に着くと、私たちは手を合わせて、お参りをした。私は、心の中で願った。
「夫が安らかに眠れますように。そして、柊太朗さんと、幸せな家庭を築けますように」
お参りを終えると、柊太朗が私の方を見た。
「あの、志摩子さん……」 「はい?」 「僕、あなたのこと……」
柊太朗の言葉に、私の心臓がドキドキと高鳴った。まさか、告白?
「僕、あなたのこと……ぼっけぇ、もっと知りたいんじゃ!」
……知りたいんじゃ、か。告白じゃなかった。でも、彼の真っ直ぐな言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「私もですよ、柊太朗さん」
私たちは顔を見合わせて、笑った。雪が舞い落ちる中、私たちの間には、温かい空気が流れていた。
この先、どんなことが待ち受けているかなんて、まだわからない。でも、柊太朗と一緒なら、きっと乗り越えていける。そう、確信できた。夫が残してくれた、もう一つの贈り物。それは、寂しさを分かち合い、共に歩んでくれる、かけがえのない存在だった。
「ねえ、柊太朗さん」 「はい?」 「今度、一緒に歴史の博物館に行きませんか? 今、備前の名刀が展示されているんです。私、それが見てみたいなと思って…」 「え! 備前刀ですか!? 僕も見たいです! でーれー嬉しいじゃ!」
彼の顔が、パッと明るくなった。その笑顔は、私にとって、何よりも眩しい光だった。




