第一話: 梅雨明けとともに
愛想のないインターホンの音が部屋に鳴り響く。
目覚まし時計に起こされるより腹立たしいものではあったが、結局は目を開ける事にした。
部屋のフローリングに脛のものか腕のものか見分けのつかない体毛が、細々と抜け落ちている。
ウチの猫が季節の変わり目だから、たくさん毛が抜け落ちるのよと、ため息を漏らしながら主婦の群れが道端会議を開催していたのを思い出す。
周りの主婦は、それはとても深刻そうにうんうんと頷いていたのだが、議長の風格がある大柄の主婦だけは解決策を導き出そうと顎を手で擦っていた。
白い買い物袋から飛び出している長ネギは、場に静粛を促す木槌のような役割を果たすものかなと考えていたが、叩いて音が鳴るとは到底思えないし、何より途中からどうでも良くなってきて考えるのを止めた。昨日の大学の授業の帰りであったと思う。
どうでも良すぎてあんまり覚えていない。
もう一度、愛想のないインターホンの音が鳴る。
「大宮さん、起きていますかい。大宮さん」
「今日も暑いですなぁ。昔の六月というのはこうも暑くはなかった。地球温暖化というものですかねぇ。とか言っても去年の冬は寒かったよねぇ。よくわからんもんですなぁ。で、大宮さん、一晩考えた答えは如何な程に?」
「あのぉ、どちら様でしょうか?」
「もう忘れたのですかい?いやだなぁ、天使ですよ、昨日会ったじゃないですか。あぁ、人間は生きていく為に都合の悪い事を忘れるってのは本当だったのですねぇ。」
玄関に立っていたのは、まったく身に覚えのない老婆だった。
杖がなければ、顎から落ちるのでないかと思うぐらい腰はひん曲がり、黒い花柄のワンピースを身につけ、赤いサンダルを履いている。
ワンピースからひょろりと出る手や足には血管が浮き上がり、色白な分、余計に目立っていた。
肌に弛みはないものの、しわやシミはしっかり存在感を出している。
しかし、艶やかさを補った愛くるしさがあった。
目鼻立ちは決して整っているとは言い難いものの、白髪のゆるいパーマを当て、満面の笑みを浮かべながら、紫陽花がプリントされた団扇をパタパタとさせている姿を見て、純粋無垢という言葉は、この老婆に為にあると思った程だった。
昔は「綺麗」より「可愛い」を武器にして、男性を落としてきたのだなと思った。
ただ、この老婆に全く身に覚えがなく、連日続く暑い日々に頭をやられたに違いないと断定した。
至極一般的な老婆が、私は天使ですときて、誰がはいそうですかとくるのだろうか。
全く、面倒な事に巻き込まれたものだな。
「で、答えは如何な程に?大宮さん」
「ちょっと待ってください。答えって何ですか?いや、それよりどちら様何ですか?」
「何度も言っている通り、天使ですって。あなた、もしかしてモテないでしょう?しつこいですもの。」
年寄りを敬め、という教えに背いた事は今までにないつもりだ。
些細な事ではあるが、電車内でも席を譲るし、毎年の墓参りにもちゃんと付き添っている。
ただ、現状を把握できないのと、今までの恋愛事情に図星をつかれたのと合い重なって、我慢できず教えに背いてしまった。
「あんた、馬鹿なんじゃないですか?」
まぁ、よくもこんなに口を膨らませるものだな、と感心すると同時に怒りの表現の仕方がやはり古いなとも思った。
「本当にすいません。何が何だか分からなくて。謝ります。謝りますから、僕にも理解できるようにお話して頂けませんか?お願いします」
依然、怒っている様子ではあったが、老婆の口風船は次第にしぼんでいった。
「仏の顔は三度までって言うしねぇ。それよか、お腹が空いた。どこぞのカフェでランチでもしながら話をしますかねぇ。立ち話も何だし」
天使じゃなかったのかよ、そこは歳相応に喫茶店と言えよ、同じく昼食と言えよ、喉まで出掛っていたセリフの群れだが、せっかく老婆の怒りは何処かに飛んでいったみたいなので、ここは我慢して飲み込む事にした。
大学周辺に詳しくない老婆は、結局は僕に食事をする飲食店を決めさせた。
大学に入学して四年目になる。
つまりは四回生なのだが、一回生から大学近辺のアパートに一人暮らしをしてきた僕は、多少なりとも大学近辺の飲食店には詳しい。
やはり飲食店の経営者は恵まれた立地条件に目をつけるのか、数多くの飲食店が並ぶ。
しかし、僕が入学して今に至るまで同じ名の看板が立っている飲食店は数件しかなかった。
「速い」「安い」・「多い」を売りにする大学食堂にあえなく負けるのだ。
それこそ、インドやエスニック料理等の奇をてらったメニュー、くつろぎやゆったりを意識した緑の多い店内空間といった、それぞれの売りを全面的に押し出して経営展開する飲食店が存在したのだが、大学食堂以外で生き残ったのは床が油で滑る中華料理のチェーン店や、頭を禿げ散らかした親父が、たばこを銜えながら調理する大盛り焼肉定食が売りの飲食店であった。
同じ立地で違う飲食店ができるの繰り返しで、客の回転より飲食店の回転の方が速いのではないかと思う程だった。
天使と言い張る老婆は、カフェを希望していたので、おそらく一年後には存在していないだろうお洒落なカフェに入る事にした。
アパートから徒歩十分程の場所であったが、ゆったり歩く老婆を見て、着く頃には閉店のプレートがドアに掛けられているのではと心配した。
すっかり梅雨は明けたみたいだな。
長い桜の並木道にさしかかる。
歩道に散りばめられた木漏れ日の上を老婆と歩く。
団扇のプリントされた紫陽花が物寂しそうに老婆に風を送っている。
「えっと、何にしようかねぇ。イタリア仕立てのもっちりトマトピッツァにしようかねぇ、それとも長靴コックの海岸アサリパスタにしようかねぇ。しかし肩書きがでしゃばる商品名ばかりね。」
メニューを選ぶ老婆の姿は、大学の女友達とランチをしていると錯覚する程、はつらつとしていた。
この場面では一緒に悩む方がいいのかと一瞬考えたが、相手が天使と言い張る老婆であったので止める事にした。
「思い出した、そうですよ、事情を説明して下さいよ!天使さん」
「大宮さん、私にはね、みつという列記とした名前があるのですよ。重田みつと申します。自分で考えたんですがねぇ。」
「みつって……容姿相応にも程がある名前じゃないですか!もっと天使っぽい名前じゃないんですか?ミケランジェロとかラファイルとか」
「それの何処が天使っぽいのですかねぇ」
「なんとなくですよ。なんとなく。そんな事より、何か証拠とかないんですか!あなたが天使であるっていう証拠を。信じられるわけがありません」
老婆は近くにいたウェイターに声をかけ、天使の卵のふんわりオムライスを注文した。
いかにも満足気にこちらを見て微笑んだ。
「いやいや、ふざけるのもいい加減にして下さい。何かあるでしょう、ほら、僕の素性をよく知り尽くしているとか。映画とかによくあるやつです」
「んー名前と年齢ぐらいしか分からないわねぇ。後、昨日交通事故にあってこの世に強い未練を残して亡くなった事ぐらいかねぇ」
「ほら、全然僕の事知らないじゃないですか。天の使いが聞いて呆れますよ。だいたい亡くなったって……。えっ……最後らへん何か言いました?」
「昨日、大学の帰り道の途中、車に跳ねられて亡くなりました、と言いました。」
「はっ?」
少しの沈黙の間、万を事したかのように蝉が遠慮気味にじりじりと鳴いた。
あまりにも時期尚早な事に気づいたのか、すぐに鳴き止む事にしたみたいだった。
おいおい、蝉は七日しか生きられないのだろう。
この時、一瞬一瞬は君にとって大事な時間じゃないのか。
鳴ける時に鳴く方がいいに決まってる。