第5話 鏡(前編)
広間には薄い絹幕越しの光が差し込み、
磨かれた大理石の床に淡い模様を描いていた。
今日は礼儀作法の研修の一幕。
正妃候補として必ず身につけねばならぬ
所作を学ぶ時間だった。
セレナはその光の中で、
わずかに手のひらが汗ばむのを感じながら、
銀杯の扱いを繰り返していた。
(うう…難しい…これは優雅に出来ているの?)
彼女の一挙一動を、
少し離れた位置からアナヒータが眺めていた。
流行の華やぎからは距離を置いた衣装。
首元の飾りも控えめだが、
鋭い眼差しは所作ひとつすら逃さない。
銀杯を置く位置がわずかにずれるたび、
セレナは眉ひとつ動かさずにやり直した。
(この所作が私の未来を変える!
後宮で学べることは、すべて身に着けないと…!)
アナヒータは腕を組んだまま、
彼女の姿をじっと見つめる。
(――必死ね。ずいぶん真剣じゃない)
その瞬間、列の端から小さなくすくす笑いが漏れた。
笑いの中心にいたのは、
藍色の衣を纏った正妃候補の一団。
中央の女は視線すら寄越さず、
背後の濃紺衣の女がわずかに唇を歪めた。
「まぁ…姫様のその手、荒れておいでですこと。
焚き火でも弄ってらしたのかしら?」
囁きはわざと周囲に届く声量で、
同調するように小さな笑いが連なった。
だがセレナは嘲りの声など耳に届かぬ様子。
姿勢や盃の角度に心を砕き、
凛とした表情で動作を繰り返している。
(…しかし珍しいわね。
まだ目に力が残っている。この場所で
それを保てる女は、ほとんどいないのに)
崩れた後宮で、ああいう顔は長くはもたない。
けれど、しばらく見ておく価値はあるかもしれない。
やがて侍女の声で研修は終わった。
候補者たちが退出する中、
アナヒータは声をかけることなく回廊を抜けた。
◆
中庭では、色とりどりの衣をまとった
妃候補たちが香炉を囲み、香草茶を楽しんでいた。
その輪の端――柳の木陰で、
数人の女たちが声を潜め、
視線の先にいる者を見下ろすように言葉を投げる。
そこに立っていたのは、
兵の鎧下を思わせる質素な衣をまとったサフィア。
アシェラは白い扇をひらひらと動かし、
涼しげに笑った。
「まぁ…兵士みたいな格好で後宮を歩くなんて。
武官の真似ごとでもしてるつもりかしら?」
レイラが杯を転がしながら、
わざとらしくため息を吐く。
「ほんとうに…立場をわきまえない方ね。
ここは戦場ではなく御殿。粗野な格好で
うろつかれては品位まで疑われてしまうわ」
アシェラは唇をゆがめ、声を張る。
「ねえレイラ様、彼女は舞踏もできないのでしょう?
お披露目の夜会に出て誰にも誘われなかったら?
…まさか香草茶を運んで回るの?」
取り巻きが口元を押さえて笑い、
空気に小さな波紋が広がった。
サフィアは黙ったまま、
琥珀の瞳で二人を見据える。
返せば同じ土俵に落ちるだけ。
拳が衣の中で固く握られ、
爪が掌に食い込んだ。
「…私は、飾りのためにここへ来たのではありません」
短く返した声は震えていた。
アシェラの目が細く光り、挑発を楽しむように笑う。
「まぁ、強気ね。けれど飾りにもなれない方は…
もっと困るのではなくて?」
レイラは宝飾を揺らし、緩慢に首を傾げた。
「兵士の真似より、まずは鏡の前で笑う練習でも。
殿下の隣に立つ方が眉をひそめていては…無様ですわ」
取り巻きの笑い声が高くなる。
サフィアの唇が震えた。
だが言葉は出ない。
胸の奥が焼けるように熱く、息苦しさだけが募る。
(…言われた通りかもしれない。
私には地位も華やかさもない…それはわかってる…)
女たちの笑い声に混じり、別の妃候補たちが囁く。
「見た? やっぱり優雅さがないわ」
「ええ、殿下の寵を受けていても華やかさに欠ける」
「武官上がりなんて所詮粗野よ。長くは持たないわね」
囁きは細い刃のようにサフィアの心を突き刺す。
その場から少し離れた回廊の陰。
アナヒータが紅の裾を揺らし、
帳の隙間から様子を覗いていた。
(…あの女、相変わらず後宮の流儀には
染まっていないのね。いい加減学べばいいものを)
冷ややかな視線を落とすと、影へ身を戻した。
――その時。
彩りの衣の輪をすり抜け、
セレナが静かに歩み出る。
仕草は穏やかなのに、
纏う空気は凛として冷ややかだった。
「――彼女は私たちを守る武官です」
柔らかな声が石床に響き、
女たちの笑みが止まった。
視線が一斉にセレナへ集まる。
「上に立つ者として、
敬意を払うべきではありませんか?」
空気が一瞬で冷えた。
アシェラは艶やかな笑みを引きつらせる。
「…まぁ、ご立派なお言葉。
ルナワの姫君はずいぶん真面目でいらっしゃるのね」
レイラは鼻で笑い、宝飾を揺らした。
「敬意? 私たちは女として、
あの方の粗野さを“気づかせて差し上げている”だけ」
強がりの棘が混じる声に、
周囲の妃候補たちが思わず息を呑んだ。
(…言った…! あの姫様が…!)
サフィアは黙ったまま、セレナの横顔を見た。
瞳に驚きと感謝が揺れる。
アナヒータは扇で口元を隠し、
ちらりと光景を覗く。
(…ふふ。やはり、この娘…
ただのお飾りではないわね)
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