第3話 虚飾(後編)
お飾りの正妃候補――そう告げられたセレナ。
心を凍らせる現実を前に、彼女はこれからどう動くのか。
「礼を言われるほどのことではありません。事実を述べただけです」
ラシードは観察者の目で彼女を見つめ、静かに返した。
書庫に、乾いた音が響いた。
「事実にどう意味を与えるかは…姫様ご自身のこと」
セレナは返す言葉を失い、視線を落としたまましばし動けなかった。
胸の奥では冷たい針がなおもじくじくと刺さり続け、吐き出した息さえ重い。
(ああ…ここでは誰も助けてくれないのね…)
沈黙が続いたのち、ようやく顔を上げる。
震えを押し隠し、棚に歩み寄った。
軍事、貿易、祭儀、医薬──次々に書を手に取りながら、瞳の奥にゆっくりと決意が芽吹いていく。
(変な期待を抱く前に、早めに知れてよかった…!)
(どう役立つかわからないけど…後宮で得られるものは──全部、私のものにしてやる!)
ラシードはその背を見やり、淡く笑う。
「…巻物に手を伸ばされるとは。他の候補者にはない姿勢ですな」
そして指で背表紙を示す。
「ただし──知を“読む”ことと“使う”ことは別の話。どう越えるか…見守らせていただきましょう」
セレナはまだ胸の奥に暗い影を抱えながらも、顔を伏せずに姿勢を正した。
宰相がどこか楽しげにしているのを訝しく思いながらも、姫としての礼を崩さぬよう、静かに言葉を返す。
「…ご助言、ありがとうございます…」
その横で、リサは小さく唇を噛んだ。
(姫様…やっぱり強い方なんだ…)
胸の奥に熱いものがせり上がり、気づけば自分の背もわずかに伸びていた。
◆
文庫を後にして回廊を進む。
吹き抜けから差す光の下、革靴と甲冑の音が近づく。
(お…噂をすれば)
現れたのは、琥珀の瞳を持つ女武官──サフィア。
陽光に焼けた小麦色の肌、無駄のない長身に革鎧がよく馴染んでいる。
束ねた黒髪が肩で揺れ、鋭さと気高さを併せ持つ面差しに、侍女たちは自然と道を譲った。その隣には厚い肩幅の武官が歩をそろえていた。
セレナは裾を正し、軽く会釈だけして通り過ぎる。声も視線も交わさずに。
リサも慌てて頭を垂れ、すれ違いざまに横目でその姿を盗み見る。
(…殿下が見てるのは…あの方なのね)
胸の奥がざわつき、唇を噛む。
石床に交差した足音が遠ざかり、残ったのは冷えた風と胸のざらめきだけだった。
◆
石床を踏みしめ、武官仲間と回廊を進んでいた時だった。向こうから歩いてきたのは、後宮に入ったばかりの異国の姫。
──セレナ。
一瞬だけ交差した視線は、澄んだ水の底を覗き込んだようで、意志の強さと儚さが同居していた。
ダークブラウンの長い髪と白い肌に、金糸の刺繍を控えめに散らした衣。歩き方はしとやかだが、胸を張る姿勢に芯の強さを感じさせる。
ただ物静かに会釈して通り過ぎただけなのに、その立ち姿が妙に印象に残った。
(…目立とうなんて気配はなかったのに、逆に目を引く。殿下の心を乱す火種にならなければいいが)
隣で歩くカリムが、ちらりと横目を寄越した。
「…今のが、ルナワの姫か」
「そうだ。正妃候補の」
「…ずいぶんと大人しいじゃないか。もっと媚びるような仕草でもするのかと思ったが」
カリムはわざと肩をすくめ、からかうように吐き捨てる。だが、その声音の奥には探るような真剣さもあった。
「お前はどう見る、サフィア」
琥珀の瞳を細め、サフィアは答えを探すように空気を切った。
「…よくわからない。ただ…あの目は、ただの飾り物で終わる気はしていない目だった」
「ほぉ…それは殿下にとって良いことか、悪いことか」
「…さあな」
カリムはわずかに息を吐き、遠くを歩く姫の背を見送った。
その横顔は、苦い安堵と寂しさが入り混じったような陰影を宿していた。
「…お前が泣かされるようなことにならなきゃいいがな」
低く呟くその声は、鎧の金具が擦れる音にかき消された。
◆
回廊を歩きながら、セレナは隣のリサに視線を向ける。
「ねえ、リサ。…読み書き、興味ない?」
問いかけは軽く、冗談めかすように微笑を添える。
リサは瞬きをひとつして、小首を傾げる。
「…覚えられるものでしょうか」
「もちろん。どうせ私も暇だし、ちょうどいい時間つぶしになるわ」
くすっと笑いながら、セレナは歩を進める。
リサはぱっと笑顔になり、「じゃあ…お願いします」と小さく頭を下げた。
◆
薄い帳が揺れ、夜の涼しい風が寝台の端を撫でた。
油灯の光が乱れた寝具を照らし、影を長く引く。
アルシオンは横になったまま、隣で髪をほどいたサフィアをじっと見つめていた。
乱れ落ちた髪に指を差し入れ、ゆっくりと梳く。その動きは何でもない仕草のはずなのに、彼の熱を帯びた視線と重なると、肌に触れているような錯覚さえ生まれる。
サフィアは肩をすくめ、わずかに頬を染める。
「そんなに見てどうすんの」
軽く流すように言いながらも、声の端は甘く緩んでいた。
「見ていたいから」
ためらいのない答え。片肘に体を預け、少し身を傾けるだけで、彼の胸板から熱が押し寄せてくる。戦場で見せる冷静さではなく、ただ彼女だけを映す男の眼差しだった。
サフィアは視線を逸らし、唇を噛む。
「…そういうの、ずるいんだよ、アルシオン」
「ずるくても構わない。俺はお前がいい」
低い声が近くで響く。囁き混じりの吐息が首筋を撫で、肌が粟立つ。
「…もう、ほんとバカ」
笑いながら胸に額を押しつけると、すぐにその腕がしっかりと抱き返してきた。逞しい腕に包まれると、全身が沈み込むように緩んでしまう。
「離れるつもりなんてない」
(ああ…この人がいれば、それでいい)
心の奥まで満たされていく感覚に、全身が緩んでしまう。
恋に恋していた頃の夢も、全部、この腕の中で完結してしまうように。
──だがふと、昼間の回廊で交差した異国の姫の姿が胸裏に甦った。
白い肌、澄んだ瞳。静かに会釈しただけなのに、妙に印象に残っている。
(…ただの飾りならいい。でも、あの目は…)
胸に差した翳りを押し殺すように、唇を噛む。アルシオンが小声で尋ねた。
「どうした?」
「今日…ルナワの姫とすれ違った」
「セレナか」
「…うん。あの人、ただの候補者では終わらない気がした」
短い沈黙ののち、アルシオンは迷いなく彼女の頬を包む。
「俺にとって正妃はお前だけだ」
その声音に、サフィアは思わず息を吐き出す。胸に広がったざわめきが、少しずつ和らいでいく。
◆
──その温もりに包まれたまま、遠い日の匂いが甦る。
砂塵。血の匂い。焼けつく陽光。
「この地点を死守せよ」──低く通る声。
振り返らない背中。矢雨を裂き、兵を背負い、盾で道を開く影。
(…この人のためなら、剣を振れる)
そう思った瞬間、胸の奥で何かが音を立てて動き出した。
戦場から戻った夜、鎧の留め具を外す彼の指先が震えていた。
その弱さを見た時、ただの敬意は確信に変わった。
(この人の隣にいたい)
◆
今、こうして彼の腕の中にいるのは、その時から続く答えだった。
もう、誰にも譲れない。
静かな寝所の空気に、油灯の炎が小さく揺れる。
アルシオンの体温と心音が、耳の奥まで染み込んでくる。
「…他に誰がいる」
ふっと息を吐き、アルシオンは迷いなく彼女の頬を包んだ。
揺らぎのない琥珀色の瞳が、真っ直ぐにサフィアを射抜く。
「正妃は──お前しかいない」
その声音は、静かな寝所に響く誓いのようだった。
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