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第3話 虚飾(後編)

お飾りの正妃候補――そう告げられたセレナ。

心を凍らせる現実を前に、彼女はこれからどう動くのか。

「礼を言われるほどのことではありません。事実を述べただけです」

ラシードは観察者の目で彼女を見つめ、静かに返した。


書庫に、乾いた音が響いた。


「事実にどう意味を与えるかは…姫様ご自身のこと」


セレナは返す言葉を失い、視線を落としたまましばし動けなかった。

胸の奥では冷たい針がなおもじくじくと刺さり続け、吐き出した息さえ重い。

(ああ…ここでは誰も助けてくれないのね…)


沈黙が続いたのち、ようやく顔を上げる。


震えを押し隠し、棚に歩み寄った。

軍事、貿易、祭儀、医薬──次々に書を手に取りながら、瞳の奥にゆっくりと決意が芽吹いていく。

(変な期待を抱く前に、早めに知れてよかった…!)

(どう役立つかわからないけど…後宮で得られるものは──全部、私のものにしてやる!)


ラシードはその背を見やり、淡く笑う。

「…巻物に手を伸ばされるとは。他の候補者にはない姿勢ですな」

そして指で背表紙を示す。

「ただし──知を“読む”ことと“使う”ことは別の話。どう越えるか…見守らせていただきましょう」


セレナはまだ胸の奥に暗い影を抱えながらも、顔を伏せずに姿勢を正した。

宰相がどこか楽しげにしているのを訝しく思いながらも、姫としての礼を崩さぬよう、静かに言葉を返す。

「…ご助言、ありがとうございます…」


その横で、リサは小さく唇を噛んだ。

(姫様…やっぱり強い方なんだ…)

胸の奥に熱いものがせり上がり、気づけば自分の背もわずかに伸びていた。



文庫を後にして回廊を進む。

吹き抜けから差す光の下、革靴と甲冑の音が近づく。


(お…噂をすれば)


現れたのは、琥珀の瞳を持つ女武官──サフィア。

陽光に焼けた小麦色の肌、無駄のない長身に革鎧がよく馴染んでいる。

束ねた黒髪が肩で揺れ、鋭さと気高さを併せ持つ面差しに、侍女たちは自然と道を譲った。その隣には厚い肩幅の武官が歩をそろえていた。


セレナは裾を正し、軽く会釈だけして通り過ぎる。声も視線も交わさずに。


リサも慌てて頭を垂れ、すれ違いざまに横目でその姿を盗み見る。

(…殿下が見てるのは…あの方なのね)

胸の奥がざわつき、唇を噛む。

石床に交差した足音が遠ざかり、残ったのは冷えた風と胸のざらめきだけだった。



石床を踏みしめ、武官仲間と回廊を進んでいた時だった。向こうから歩いてきたのは、後宮に入ったばかりの異国の姫。

──セレナ。

一瞬だけ交差した視線は、澄んだ水の底を覗き込んだようで、意志の強さと儚さが同居していた。

ダークブラウンの長い髪と白い肌に、金糸の刺繍を控えめに散らした衣。歩き方はしとやかだが、胸を張る姿勢に芯の強さを感じさせる。


ただ物静かに会釈して通り過ぎただけなのに、その立ち姿が妙に印象に残った。


(…目立とうなんて気配はなかったのに、逆に目を引く。殿下の心を乱す火種にならなければいいが)


隣で歩くカリムが、ちらりと横目を寄越した。

「…今のが、ルナワの姫か」


「そうだ。正妃候補の」


「…ずいぶんと大人しいじゃないか。もっと媚びるような仕草でもするのかと思ったが」


カリムはわざと肩をすくめ、からかうように吐き捨てる。だが、その声音の奥には探るような真剣さもあった。

「お前はどう見る、サフィア」


琥珀の瞳を細め、サフィアは答えを探すように空気を切った。


「…よくわからない。ただ…あの目は、ただの飾り物で終わる気はしていない目だった」


「ほぉ…それは殿下にとって良いことか、悪いことか」


「…さあな」


カリムはわずかに息を吐き、遠くを歩く姫の背を見送った。


その横顔は、苦い安堵と寂しさが入り混じったような陰影を宿していた。

「…お前が泣かされるようなことにならなきゃいいがな」


低く呟くその声は、鎧の金具が擦れる音にかき消された。 



回廊を歩きながら、セレナは隣のリサに視線を向ける。

「ねえ、リサ。…読み書き、興味ない?」


問いかけは軽く、冗談めかすように微笑を添える。


リサは瞬きをひとつして、小首を傾げる。

「…覚えられるものでしょうか」


「もちろん。どうせ私も暇だし、ちょうどいい時間つぶしになるわ」

くすっと笑いながら、セレナは歩を進める。


リサはぱっと笑顔になり、「じゃあ…お願いします」と小さく頭を下げた。



薄い帳が揺れ、夜の涼しい風が寝台の端を撫でた。

油灯の光が乱れた寝具を照らし、影を長く引く。


アルシオンは横になったまま、隣で髪をほどいたサフィアをじっと見つめていた。

乱れ落ちた髪に指を差し入れ、ゆっくりと梳く。その動きは何でもない仕草のはずなのに、彼の熱を帯びた視線と重なると、肌に触れているような錯覚さえ生まれる。


サフィアは肩をすくめ、わずかに頬を染める。

「そんなに見てどうすんの」


軽く流すように言いながらも、声の端は甘く緩んでいた。


「見ていたいから」


ためらいのない答え。片肘に体を預け、少し身を傾けるだけで、彼の胸板から熱が押し寄せてくる。戦場で見せる冷静さではなく、ただ彼女だけを映す男の眼差しだった。


サフィアは視線を逸らし、唇を噛む。

「…そういうの、ずるいんだよ、アルシオン」


「ずるくても構わない。俺はお前がいい」


低い声が近くで響く。囁き混じりの吐息が首筋を撫で、肌が粟立つ。


「…もう、ほんとバカ」

笑いながら胸に額を押しつけると、すぐにその腕がしっかりと抱き返してきた。逞しい腕に包まれると、全身が沈み込むように緩んでしまう。


「離れるつもりなんてない」


(ああ…この人がいれば、それでいい)


心の奥まで満たされていく感覚に、全身が緩んでしまう。

恋に恋していた頃の夢も、全部、この腕の中で完結してしまうように。


──だがふと、昼間の回廊で交差した異国の姫の姿が胸裏に甦った。


白い肌、澄んだ瞳。静かに会釈しただけなのに、妙に印象に残っている。


(…ただの飾りならいい。でも、あの目は…)

胸に差した翳りを押し殺すように、唇を噛む。アルシオンが小声で尋ねた。


「どうした?」


「今日…ルナワの姫とすれ違った」


「セレナか」


「…うん。あの人、ただの候補者では終わらない気がした」


短い沈黙ののち、アルシオンは迷いなく彼女の頬を包む。

「俺にとって正妃はお前だけだ」


その声音に、サフィアは思わず息を吐き出す。胸に広がったざわめきが、少しずつ和らいでいく。



──その温もりに包まれたまま、遠い日の匂いが甦る。

砂塵。血の匂い。焼けつく陽光。


「この地点を死守せよ」──低く通る声。


振り返らない背中。矢雨を裂き、兵を背負い、盾で道を開く影。

(…この人のためなら、剣を振れる)


そう思った瞬間、胸の奥で何かが音を立てて動き出した。


戦場から戻った夜、鎧の留め具を外す彼の指先が震えていた。

その弱さを見た時、ただの敬意は確信に変わった。

(この人の隣にいたい)



今、こうして彼の腕の中にいるのは、その時から続く答えだった。

もう、誰にも譲れない。

静かな寝所の空気に、油灯の炎が小さく揺れる。

アルシオンの体温と心音が、耳の奥まで染み込んでくる。


「…他に誰がいる」


ふっと息を吐き、アルシオンは迷いなく彼女の頬を包んだ。

揺らぎのない琥珀色の瞳が、真っ直ぐにサフィアを射抜く。


「正妃は──お前しかいない」


その声音は、静かな寝所に響く誓いのようだった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます!

ブクマや感想を頂けると、とても励みになります_(._.)_

Twitter始めました!裏話とか載せる予定ですのでよければ覗いてください→@serena_narou

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