第7話 揺
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『シウアルマ』
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後宮の一隅、陽の入る広間。
花模様の絨毯に小卓が並べられ、果実を練り込んだ甘い焼き菓子と、香草の茶が柔らかく湯気を立てていた。
妃候補たちは彩りの衣を揺らしながら席に集い、宴の余韻を口々に咲かせていた。
「まあ、あの宴……本当に素敵でしたわ」
「ええ。わたくし、砂漠の交易都市から来た使節と香の話をしたんですの。あちらの香料は、まるで太陽の粒を閉じ込めたみたいで」
「私は北方の商家の若君と贈り物のお話を。見せてくださった絹の染め模様が、本当に美しくて……」
声は甘やかに弾み、頬には昨夜の熱がほんのりと残っていた。
アシェラが盃を置き、手にした扇をひらりと揺らす。
「ほらね、やって正解だったでしょ。あんなに皆が笑う宴なんて、めったにないわ」
その言葉に、周囲の女たちが一斉にうなずく。
「本当に。セレナ様のおかげで、素晴らしい夜になりましたわ」
「ええ、ええ。あの仕掛け、次もぜひ!」
一通り称賛の声が重なったあと、ふいに誰かが茶碗を傾けながら首をかしげた。
「……でも、姫様ご自身は?」
「あら、確かに。どなたかとお話しされてました?」
「果実を薦めてくださったり、私たちを輪に入れてくださったけれど……」
「結局、ご自分は……?」
空気がふわりと一点に寄る。
セレナは菓子を摘んだ指を止めた。
「え、えっと……皆さまが楽しんでくださったなら、それで……」
「セレナ様は仲介人でしたっけ?」
いたずらっぽい声が重なり、くすくすと笑いが広がる。
アシェラが扇で口元を隠しながら、俯きがちなセレナに目をやった。
「まあ、かわいらしい顔をして。次は姫様の番ですよ」
他の候補たちも「そうですわ」「今度は譲りませんからね」と声を弾ませ、茶会はますます華やいでいった。
うう……今なら先生の気持ち、痛いほどわかる……。
◆
茶会の余韻がまだ後宮にぬくもりを残す頃。
二人の歩幅が静かに重なっていた。
「……愉快な宴でしたな」
ラシードが口端を上げる。
ナヴァリスは淡々と返した。
「姫様の仕掛けはよく働いておりました。妃候補たちも、久方ぶりに声が明るい」
「ええ、まるで采配でも取ったかのように場が動いていた。
……内の記録も、人の流れも、静かに整っているのでしょう?」
「ええ……放っておいても乱れぬようになりました」
ラシードの目が愉快げに細まる。
「なるほど。あなたにしては随分な言いようだ」
「事実でございます。
後宮というものは、数字より“癖”のほうが重い。
それを読み取り、形にしておられる……
芽は、想定より早い速度で伸びております」
「摘むには?」
「……もう遅うございます」
短い沈黙が落ちる。
「宴も、内の整えも――
姫様はご自身が盤面に触れていることに、
まだお気づきでないようですが」
ナヴァリスは歩を緩めず、声だけをわずかに低めた。
「放せば勝手に広がり、我らの意図を越える。
ゆえに――こちらで舵を握る他ございません」
「飽きませぬな」
ラシードのひと言が陽光に溶けていった。
◆
庭に面した回廊では、
侍女たちが水瓶を運びながら、声を弾ませている。
頬には、まだ昨夜の熱が残っていた。
「本当に素敵な夜でしたわ……」
「姫様が輪に入れてくださって……あの笑顔、忘れられません」
その声音に、サフィアの歩みが止まる。
……また、その名だ。
剣帯がかすかに鳴り、彼女は足早に回廊を離れた。
訓練場でサフィアは剣を構え、一息に振り抜く。
鋼が空を裂き、乾いた音が地に吸い込まれた。
……皆、あの女に浮かされて。
正妃の座は揺らがない、なのに。
刃を握る手に力がこもった瞬間、背後から声が落ちた。
「相変わらずだな」
振り返ると、腕を組んだカリムが立っていた。
険しい顔つきのまま、こちらをじっと見ている。
「昨日の宴、見事だったな。
姫様のおかげで女たちも使節も笑っていた」
サフィアの眉がわずかに動く。
「……浮かれているようだな、カリム」
「浮かれてはいない。事実を言っただけだ」
その声音が、余計に癇に障った。
サフィアは目を逸らし、再び剣を振り下ろす。
刃を止めた瞬間、カリムが近づき、低く言った。
「……お前はお前らしくでいい。
殿下の隣で盾を構えられるのは、お前だけだ」
その一言が、冷えた内側に静かに落ちていく。
苛立ちは薄れたが、奥に熱い火種が残る。
そうだ、私は殿下の剣。その座は揺るがない。
目が逸れたところで――いずれ戻る。積み上げた年月は、そう簡単に崩れない。
決意を刻むように、サフィアは剣を握り直した。
鋼の音が熱気を切り裂き、訓練場の空へ澄んで響いた。
◆
油皿の火が小さくはぜ、香炉の煙が部屋に夜の静けさを落としていた。
机には開きかけの薄板が積まれたまま。
セレナは机の前で、そっと肩を落とす。
「……そんなつもりじゃなかったのに」
ぽつりとこぼれる声。
「セレナ様……」
リサが湯を運んでくる。
小さな卓に置き、心配そうに膝を折った。
セレナは両手で湯呑を包み、わずかに口元をゆるめた。
「……なかなか良縁を得るのは難しいわね」
リサは湯気の向こうから主を見つめた。
「……セレナ様は皆のためにお力を尽くされました。それは決して無駄ではございません」
言葉を選ぶように間を置き、声を落とす。
「ですが――どうか、ご自身のお幸せも忘れないでくださいませ」
リサの瞳はまっすぐで揺らぎない。が、どこか切なげに光っていた。
幸せを探していたはずなのに……いつの間にか黒子に徹していた。
セレナは湯呑を見つめながら、小さく苦笑した。
「……ありがとう、リサ」
国の為にも、良縁は欲しかったな……。
湯気がゆらりと立ちのぼり、香の香りが淡く混じる。
セレナは目を伏せ、内側の痛みをそっと抱きしめた。
◆
夜気に混じって、薄板を擦る乾いた音だけが執務室に残る。
アルシオンは筆を走らせ、積まれた書簡へ黙々と印を押し続けていた。
「……お疲れのご様子ですな、殿下」
軽やかな声とともにラシードが入室した。
手にしているのは、薬草を溶かした温い茶の杯。
「例の宴――盛況であったようで。妃候補も使節も、皆ご機嫌だったとか」
アルシオンは書板から目を上げない。
ラシードは杯を卓の上に置く。
「ただ……姫様ご自身は良縁を得られず、少々肩を落としていたそうで。
場を整えておきながら、自分は一歩も動かぬとは……ふむ、実に興味深い」
筆先がわずかに止まる。
油皿の火がぱちりと音を立て、沈黙が落ちた。
「……そのような話をわざわざ持ち込む必要があるか」
低く押し殺した声。
ラシードはわざとらしく眉を上げる。
「いえ、ただ……殿下が珍しく“気に留められた”ように見えましたのでな」
その直後、筆先が紙を裂く音がした。
墨が滲み、白が黒に染まる。
「……失礼。図星でしたかな」
「――黙れ」
短い一言が油皿の火を震わせた。
くだらぬ。
アルシオンは破れた書板を脇へ寄せ、深く肩を落とす。
だが内側には、拭い切れぬざらつきが残っている。
――あの娘の、まっすぐすぎる願いの響き。
軽口でも義務でもなく、自分の“生”を見つめる言葉。
……なぜ、あの時の声だけが残る。
次の瞬間、扉が荒々しく開いた。
「殿下! ルナワの使者が参っております!」
旅塵をまとった使者が駆け込み、深々と頭を垂れる。
「ルナワ公王陛下が……ご倒れに!」
空気が一転して凍りついた。
アルシオンは立ち上がり、ラシードの笑みも消える。
「……セレナに伝えろ。直ちに」
その声が夜の静寂を裂いた。
◆
深夜、後宮の回廊。
香炉の匂いも薄れた静けさの中、慌ただしい足音が響いた。
「――ルナワの使者だ!」
侍女が戸口へ駆け寄り、短く合図を送る。
許しを得た使者が、旅塵をまとったまま、頭を垂れて入室した。
「姫殿下……! 大変にございます。ルナワ公王陛下が……ご倒れになられました」
部屋の空気が凍りついた。
「……お、お父様が……?」
使者は頷き、さらに言葉を続ける。
「国中が騒然としております。姫殿下には直ちに御帰国を――と、宰相よりの命にございます」
リサが言葉を飲み、机に置かれた茶器がかすかに震えた。
セレナは鼓動だけが耳の奥で強く鳴り、声が出ない。
衝撃の下で、別の思考が容赦なく顔を出す。
泣いている暇はない……帰らなきゃ。
お父様、どうか無事でいて……。
リサが潤んだ瞳で見つめてくる。
セレナは小さくうなずき、声を整えた。
「支度を整えて。……殿下にお伝えしに行かなくては」
慌ただしく衣を整え、肩に羽織を掛ける。
使者が先に立ち、リサと侍女が左右に寄り添う。
夜更けの回廊に足音が響いた。
セレナの足取りは重い。
侍女たちと積み上げた日々も、「座」の務めも、まだ途中だったのに。
……まさか、こんな形で後宮を去ることになるなんて。
月明かりが石床に淡く伸び、影は揺れながら執務棟へと続いていく。
歩を進めるごとに、喉の奥が締まりそうになる。
帰国をすれば……。
もう二度と、この宮には戻れない。
冷たい夜気が頬を撫でた。
やがて重い扉の前に辿り着き、使者が低く告げる。
「殿下……ルナワの姫殿下を」
扉が静かに開かれる。
蝋燭の明かりが流れ込み、執務机の前に立つアルシオンの姿が現れた。
すでに報せを受けていたのか、青い目は静かに据わっていた。
セレナは深く一礼し、唇を震わせながら声を絞り出した。
「……殿下。ルナワより急報が届きました。父王が……倒れられたのです」
アルシオンは机に置いた手を動かし、目を伏せる。
「……聞き及んでいる」
淡々とした声。
それだけで、指先に力が入る。
アルシオンは顔を上げ、まっすぐに言った。
「帰国の命が下ったのだろう」
セレナは強く唇を噛み、うなずく。
「……はい。宰相からの命にございます。直ちに帰国を、とのことでした」
膝を正したまま、もう一度うなずいた。
「後宮を去ることになりますが……どうか、お許しくださいませ」
震えを押し込めるように、言葉を選ぶ。
そしてふと気づく。
そっか……この人と会うのもこれで最後――
アルシオンの指先が机を静かに叩く。
一度、二度。蝋燭の炎がそのたびに揺れた。
「……勝手に去ることなど、許される立場ではないはずだ」
低い声が空気を裂いた。
セレナははっとして目を上げる。
「殿下……?」
アルシオンはしばし黙し、やがて小さく間を置いた。
指先が机を叩き、低く口を開く。
「……帰国は認める」
セレナの瞳が大きく揺れる。
「ただし籍は残す。お前が正妃候補であることに変わりはない」
「……!」
思わず上げた目を、青い瞳が射抜いた。
「国の務めを果たせ。
……だが忘れるな。まだ、お前はここに属している」
突き放すようでいて、縛るような声音。
セレナは熱と重みを同時に抱え、静かに頭を垂れた。
てっきり正妃候補は剥奪だと思っていたのに……。
「……畏まりました、殿下」
アルシオンは机上の巻物に目を落とした。
「……それから」
セレナが目を上げる。
「帰国には侍女を同行させろ。念には念を入れる」
「侍女を……?」
「道中も国許でも、女一人では不都合が多かろう」
「……殿下……お気遣い、痛み入ります」
セレナは内側に残った温もりを抱えたまま、深く一礼した。
アルシオンは答えず、ただ蝋燭の炎を見据えていた。
揺れる光が彼の横顔を照らし、影を深く落とした。
◆
翌朝の後宮。
まだ陽も高くならぬうちから、廊下や庭にざわめきが走っていた。
「……ルナワの姫様が、一時ご帰国なさるそうよ」
「まあ、本当? 昨夜の宴の後だというのに……」
「父王が倒れられたとか。使者が慌ただしくて……宮廷中がざわめいているらしいわ」
侍女や女官たちが口々に囁き合い、慌ただしく布や荷を運ぶ姿が広がる。
衣装を畳む者、文箱をまとめる者、馬車の支度を命じる者――皆の動きが早い。
「けれど……籍は残すと殿下がおっしゃったらしいわ」
「正妃候補のまま、ということね」
「では戻っていらっしゃるのかしら……?」
「きっと。姫様なら……」
期待と不安が入り混じったささやきが後宮を満たす。
その断片を耳にした瞬間、サフィアの内側に冷たいものが走った。
「残す……?」
てっきり、これで後宮から去ると思っていた。
そうなれば余計な騒ぎも収まり、殿下の隣は自分だけになるはず――そう信じていたのに。
「きっと戻ってきてくださいますわ」
侍女の明るい声が背に刺さる。
苛立ちが指先にこもり、サフィアは無言で剣帯を締め直した。
◆
「……まさか、一時帰国を許されるなんて」
荷をまとめる手を止め、セレナは小さく呟いた。
正妃候補の籍を剥奪するのは、外交的によろしくない。
そういうお考えなのでしょうけど。
淡く苦笑を浮かべながら、包みに衣を畳み込む。
けれど、心の底には小さな引っかかりが残っていた。
でも……リサを連れて行くことを、自ら提案してくださるなんて……。
突き放すような声の端に、微かな気遣い。
セレナは唇を噛み、指先を強く握った。
……いや、王太子として当然の配慮よ。
変に深読みしない、しない。
そう言い聞かせながらも、その余韻は消えず、
内側で静かに揺れ続けていた。
衣を包む手を止めたリサが、はっと顔を上げた。
「セレナ様……」
黒い瞳に決意を宿し、両手をぎゅっと胸の前で握りしめる。
「私、しっかりお供して、姫様をお支えいたします」
声は震えていたが、その奥には強い光があった。
「道中でも、ルナワでも……セレナ様がお一人で寂しい思いをなさらぬように」
セレナは思わず微笑み、彼女の手を取った。
「……ありがとう、リサ。あなたがいてくれるなら、心強いわ」
二人の掌の温もりが重なり、静かな部屋の中で絆のように確かに繋がっていた。
ーー翌朝、後宮の中庭。
金の装飾を施した馬車が整えられ、白毛の馬が鼻息を荒くして待っていた。
候補の姫や侍女たちが並び、口々に別れの言葉をかける。
「姫様……ご無事で」
「必ずお戻りくださいませ!」
その声に涙ぐむ者もいた。
セレナは裾を整え、ひとりひとりに深く礼を返す。
「……皆さま、ありがとう。どうか後宮をよろしくお願いします」
荷を抱えたリサがそっと寄り添い、馬車の脇へと導いた。
扉に手をかけたそのとき――ふと遠くの回廊に青の影が見えた。
アルシオンが、黙ってこちらを見ていた。
わざわざ見送りに来てくれたんだ……。
セレナは小さくうなずき、その視線に静かに応えると、馬車に身を乗せた。
扉が閉まり、車輪がきしみを上げる。
白馬が一歩を踏み出し、馬車はゆっくりと門を抜けていく。
セレナは揺れる窓越しに後宮を見やり、最後にもう一度、微笑んだ。
「……ありがとう。必ず戻ってきます」
陽光の中、鈴の音だけが遠ざかり、やがてその姿は王宮の門の向こうへ消えていった。
回廊の影に立つアルシオンは、目を落とし、何も言わなかった。
ただ、内側に沈んだ何かが、言葉にならぬまま残った。
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