第5話 噂
後宮の回廊。午後の陽を受けた石畳を、侍女たちの笑い声が行き交っていた。
「聞いた? ルナワの姫様が“良縁の宴”を殿下に進言なさるとか」
「まぁ……ほんとに? 」
水桶を抱えた侍女が囁けば、隣で衣を畳む少女が目を丸くする。
「もし本当にあれば……わたしたちでも縁談の話に近づけるかも」
噂は、桶の水が受け渡されるより早く回廊を巡った。
侍女から妃候補へ、妃候補からまた侍女へ。
扇の陰で形を変えながら、それでも同じ言葉だけは残る。
「良縁の宴」――いつしかそれは、後宮全体をざわつかせる符丁になっていた。
そのざわめきはやがて、王宮の最奥――政務の中枢にまで届く。
窓外に夕陽が差し込む中、アルシオンは書状に目を走らせていた。
「殿下」
入室したラシードが軽く一礼し、言葉を置く。
「内廷より報が上がりました。……例のルナワの姫君が“良縁の宴”なるものを発案した由」
手を止めたアルシオンが眉をひそめる。
「良縁の宴……?」
「外交の大宴を、妃候補の“出口”と兼ねる。各国にとっても悪い話ではなく、
後宮縮小の口実にもなる――今や後宮では、その話で持ち切りでございます」
ラシードの灰色の瞳が愉快そうに細められる。
「お戯れと思いきや、意外と理に適っている。殿下に伝える価値はあると考えました」
アルシオンは書状を伏せ、わずかに息を吐いた。
「……なるほど」
(セレナが……“良縁の宴”を……)
報告の文面の向こうに、あの落ち着いた声と、迷いを隠さない眼差しがよみがえる。
――人を動かし、流れを変える。
彼女は、そういう種類の危うさを持っている。
ラシードは肩をすくめ、唇の端をゆるめた。
「……もっとも、姫様ご自身は後宮を出る気満々のようでしたがな」
その一言で、アルシオンの表情がぴたりと止まった。
「……」
視線を窓から戻し、冷えた眼差しでラシードを射る。
「軽口が過ぎるぞ」
「はは、失礼」
ラシードはわざとらしく両手を広げ、灰の瞳を細めて笑った。
「ですが殿下――この話が、後宮の空気を変えつつあるのは事実にございます」
アルシオンは答えず、再び窓の外へと視線を逸らした。
胸裏に去来するのは、サフィアの真っ直ぐな瞳。
そしてもうひとつ――“出ていく”という言葉が、妙に現実味を帯びて響く感触だった。
◆
(……私の提案が、こんなに皆の興味を引くとは思わなかった)
外交の宴を“良縁の場”に――そう口にしたときは、軽く流されると思っていた。
けれど今、廊下を歩けば侍女も女官もひそひそと囁き合い、妃候補の部屋からは小さな笑い声まで洩れてくる。
(……皆、本当は望んでいたのね。後宮に縛られるより、自分の未来を選びたいって……)
その空気を肌で感じるだけでも驚きだったが、さらに思いがけない声を耳にした。
「……で、カリム様も出ないのでしょうか?」
「近衛副隊長殿なら、きっと注目の的ですよ」
セレナは思わず立ち止まった。
(……え? か、カリム様……?)
気づかなかった。
寡黙で実務に徹する近衛副隊長、殿下直属の忠臣。
侍女や女官の間では、実はひそかに人気があったというのだ。
(……確かに、条件だけ見れば申し分ないわね。
頼りがいもあるし……顔はいかついけど)
意外な名前に、胸の奥で小さな笑いがこみあげる。
そして同時に、企てた宴が、自分の想像以上の速さで広がっていることを、ひしひしと実感していた。
◆
夕刻の訓練場。木剣を収めながら、サフィアがふいに口を開いた。
「そういえば……聞いたぞ。宴の噂に、カリムの名前まで出ているらしいな」
カリムは眉をひそめる。
「俺の、名前?」
「ええ。“近衛副隊長殿も参加されるのかしら”って。女官たちが目を輝かせていたぞ」
カリムは短く息を吐き、顔を背けた。
「……勝手に言わせておけ。俺には関わりのない話だ」
サフィアは片眉を上げ、唇の端を吊り上げる。
「ふふっ……無骨で融通の利かない副隊長が、まさかの人気者。信じられないな」
「……からかうな」
不機嫌そうに返しながらも、耳は赤い。
サフィアは肩を揺らし、なお笑みを抑えられなかった。
「でも……真面目で誠実なところ、皆が惹かれるのかも」
その一言に、カリムの胸がわずかに軋む。
(……おまえにそう言われると、余計に堪えるんだ)
◆
日が沈み、空が紫に染まる。訓練場を後にしたサフィアは、鎧の金具を押さえながら回廊へ出た。
夕陽が石畳を朱に染め、肌の熱をゆるやかに冷ます。
角を曲がった先で、ひとり歩くセレナと鉢合わせた。
白い衣が風に揺れ、ダークブラウンの髪が陽光にほのかな金を宿す。
「……セレナ殿下」
サフィアは立ち止まり、一礼した。
セレナは柔らかく微笑む。
「いつもご苦労さまです」
サフィアは軽く息を整え、言葉を続けた。
「この時間にお一人とは、珍しいですね」
「知ってる? “良縁の宴”。みんなの反応を見て回っていたの」
サフィアはわずかに眉を動かす。
「……そのような催しを、本気で?」
「ええ。皆が参加したがっていたら、殿下に進言しようと思うの。――その方が、あなたたちにも都合がいいでしょ?」
一瞬、風が止む。
サフィアの琥珀の瞳がわずかに揺れた。
「……セレナ殿下は、我らの都合までお考えになるのですね」
淡々とした声の奥に、かすかな棘が混じる。
「ご心配なく。殿下のお心を煩わせることなど、ございません」
セレナが何か言いかける前に、サフィアは一礼して踵を返した。
夕陽の中、背に長い影を引いたまま歩き去る。
セレナはその背を見送り、静かに息を吐いた。
(武官達の負担も減る……だから殿下に後押ししては、流石に厚かましすぎたかしら……)
◆
甲冑を外し、髪をほどいたサフィアは、窓辺に腰を下ろして夜気を吸い込んだ。
(……後宮が縮む、か)
それはアルシオンの負担を減らし、同時に――あのルナワの姫に、外へ向かう理由を与える。
胸の奥に、静かな安堵が広がった。
(ならば……アルシオンの隣に残るのは、私ひとり)
唇が、自然にほころぶ。
まるで勝利のような錯覚が、甘く胸を満たしていく。
(剣で支え、盾となり、命を懸けて守ってきた。
……ようやく、報われるのかもしれない)
夜風が髪を揺らし、頬をなでる。
サフィアはそのまま瞼を閉じ、
――その思いが錯覚であることも知らぬまま、微笑んでいた。
◆
寝所の帳の奥、灯火の柔らかな明かりが、肌と髪を淡く照らしていた。
サフィアが身を寄せ、彼の胸に頬をすり寄せる。指先が古い傷跡をなぞり、細く息を漏らす。
「アルシオン……」
呼ぶ声は甘く、安堵と渇きが混じっている。
アルシオンはその声に応えるように腕を回し、髪を撫でた。
体温が交わり、心臓の鼓動が一つに重なっていく。
(……俺は、これを望んでいたはずだ)
唇を落としながらも、胸の奥に小さな影が残る。
“自分こそが選ばれた女”という安堵と誇り――
それを壊す理由も、今はない。
(おまえのまっすぐさに救われた夜もあった。だが……)
指を絡めてきた手に、サフィアはわずかに力を込めた。
その温もりを抱き返しながら、ふと脳裏をかすめたのは、噂話の向こうにいる別の姿。
――「私は、一度きりの人生なので……誰かに愛されたい」
ラシードから聞いた“あの言葉”が、なぜか耳の奥に貼り付いたまま離れない。
まるで、自分自身がその場で聞いた声のように。
ただの夢想でも、戯れでもない。
胸の奥底から放たれた声だった。
(……なぜ、あの娘の言葉などに心を動かされる)
驚きではない。戸惑いでもない。
ただ、忘れられない。
義務でも体裁でもなく、“生”を選ぼうとするあの意志――
それが、どうしようもなく胸を刺した。
(……あの言葉ひとつで、後宮全体が揺れた)
侍女が囁き、妃候補たちがざわめく。
波紋のように広がるその余韻が、まだ胸の底で疼いている。
サフィアがさらに身を寄せ、「ずっと……そばにいさせて」と囁く。
その声音に、現実へと引き戻される。
アルシオンは小さく息を吐き、彼女の背を撫でた。
細くしなやかな髪が指に絡み、灯火が二人の影をひとつに溶かしていく。
だが、心の奥は別の場所にあった。
――触れているのに、遠い。
その距離を、彼自身まだ言葉にできずにいた。
◆
セレナは、妃候補たちに個別に意見を伺って回った。
レイラは「殿下のおそばに仕える身として」と、きっぱり否定した。
けれど、その横顔には、ほんの僅かな揺らぎが滲んでいたように見える。
他の者たちも「必要ございません」と口では言いながら、視線を逸らし、扇の陰で笑みを隠した。
まるで本心を覆い隠しているかのようだった。
(……口ではああ言っても、実はみんな興味あるみたいね)
もちろん、アシェラのように率直に「ぜひ!」と応じた者もいる。
表立って賛同するのは少数でも、意外なほど希望者は多い。
(これだけあれば十分よね……殿下に進言してみよう!)
胸の奥で小さく息を吸い、セレナはその勢いのまま机に向かった。
筆を取り、細長い書板に、思いつく限りの言葉を書き連ねていく。
(目的とメリットを、どうまとめれば殿下に伝わるだろう……)
だが、筆はほどなく止まった。
こうした“企画書”めいた文を整えた経験など、一度もない。
結局、後宮監ナヴァリスの執務室を訪ねることになった。
「……なるほど。項目立て、ですか」
ナヴァリスは眉をわずかに動かし、書板を受け取る。
「目的、利点、予想される効果……。姫様、これは……」
言葉を切り、しばし文字の並びを見つめた。
「……正妃候補が、ここまで形にして持ち込まれるとは実に珍しい。
殿下にお示しするに足る体裁でございます」
(ナヴァリスに評価されちゃった!)
その驚きの余韻を胸に、セレナは改めて筆を走らせた。
外交の宴を“良縁の場”に――
草稿は、ひとつの思いつきから、
“宮廷の制度案”へと、静かに形を変え始めていた。
◆
陽が傾き、石壁の隙間から差す光が、積まれた書板を金色に染めていた。
政務の合間、アルシオンは机上に広げた書板へ視線を落としていた。
その背後で扉が開き、ナヴァリスに伴われてルナワの姫が入室する。
両腕には、細やかな筆跡の並ぶ数枚の書板が抱えられていた。
「……ルナワの姫か」
アルシオンが顔を上げ、静かに声を落とす。
深く一礼したセレナは、両手で書板を差し出した。
「殿下。“良縁の宴”について、要点をまとめてまいりました。
どうかご一読いただければと……」
受け取った書板に視線を落とす。
簡素な筆致ながら、項目ごとに整理され、無駄がない。
まるで政務の一報告書のような体裁だった。
背後で控えるナヴァリスが、淡々と口を添える。
「前例はございませんが……正妃候補が、ここまで形にして持ち込むのは稀にて」
アルシオンは書板から視線を上げた。
セレナは裾を握りながらも、逃げない目でこちらを見ている。
(……一時の思いつきではない。
構想し、まとめ、周囲を動かした……この短期間で、ここまでか)
書板の端を親指で押さえ、息をひとつ落とす。
「……なるほど」
セレナが、わずかに身を乗り出す。
「では……ご検討くださるのですか?」
「検討に値する、とは言った」
その一言に、セレナの頬がかすかに色づく。
一礼すると、書板を胸に抱えるようにして静かに退室していった。
扉が閉まり、執務室に静寂が落ちる。
机上に残された筆跡を、アルシオンはしばし見つめた。
(あの一言から、後宮をここまで動かしたのか……)
(……与えられた役割の外へ踏み込み、形を生み出そうとしている)
背後からナヴァリスが静かに言う。
「殿下にとっても、王宮にとっても好ましい案かと。
後宮の縮小、外交儀礼の整備――理に適っております」
「……そうか」
書板を指先で押さえたまま、アルシオンは視線を逸らした。
「採用とお受け止めしてよろしいのですか?」
ナヴァリスの問いに、眉がわずかに寄る。
「……まだだ」
沈みゆく夕陽が、書板の上に長い影を落とす。
その光を見つめながら、アルシオンは静かに息を吐いた。
書かれた言葉の奥に、己の理想と響き合う何かがある。
それを認めることが――今はただ、癪に障るだけだった。
◆
執務室を辞したセレナは、胸の鼓動がまだ熱を残すまま、待っていた妃候補たちに声を弾ませた。
「殿下が……“検討に値する”と仰ってくださったのよ!」
「まあっ!」
「それはつまり、前に進んだということですわね!」
妃候補たちの表情がぱっと華やぎ、付き従っていた侍女たちまで、思わず顔を見合わせて笑みをこぼす。
その熱気は、扉をひとつくぐるたびに後宮へと流れ込んでいった。
「ルナワの姫様の宴が、本当に開かれるらしい」
「殿下直々にお認めになったとか」
「これで私たちも……」
ただの“検討”に過ぎないはずなのに、後宮はまるで決定が下ったかのように浮き足立っていた。
◆
夕刻の光が政務室の石壁に差し込み、書板の縁を淡く照らしていた。
扉が開き、王妃ザリーナが静かに歩み入る。
焔色の絹をまとい、扇を手にした姿は、場の空気を一瞬で支配した。
「“良縁の宴”の噂、聞いているわ」
ザリーナは扇を広げ、涼やかな視線をアルシオンへ向ける。
「……面白いことを思いついたのね。後宮も落ち着くし、殿下の負担も減るでしょう?」
「……王妃まで、ご存じでしたか」
「もちろんよ。後宮中がざわついているもの」
ザリーナは扇を胸に抱くようにして、柔らかく続けた。
「良いことだと思うわ。やってごらんなさい。
皆のためにも――あなた自身のためにも」
その声音は甘やかだが、王妃としての鋭い洞察を含んでいた。
アルシオンは一度だけ静かに息を吐き、短く応じる。
「……わかりました」
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
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