第4話 波紋(前編)
教育座の一室には、やわらかな日差しが差し込んでいた。
厚い石壁が光を淡く返し、格子窓から吹き込む乾いた風が
棚に積まれた粘土板をかすかに揺らす。
油皿の香りが薄く漂い、室内には静かな緊張が満ちていた。
壁際には木の机が並べられ、若い侍女たちがずらりと腰掛けている。
手元には木札と簡素な帳面。
粘土板に刻む前の“練習”としての木札は、侍女たちにとってはまだ親しい道具だった。
「ここの数は“十と二”ね。……はい、一度読んでみて」
セレナが指先で木札を軽く叩くと、向かいの侍女が緊張した面持ちで身を乗り出す。
「あ、あの……“じゅう、と、ふたつ”……」
「惜しい。“二つ”ではなく、“二”。
数える時と帳簿に記す時とは言い方が違うの。
でも、よく読めました。前よりずっと滑らかよ」
セレナがやわらかく笑むと、侍女の頬がぱっと明るくなった。
「は、はいっ……!」
別の侍女が恐る恐る木札を掲げる。
「姫様、この印は……“百”でよろしいのでしょうか?」
「ええ、正解。
“百”が分かれば、“百と三十”も、“百と三と十”も怖くないわ。
粘土板に刻むときも同じ。刻み目の読み違いがなくなるよう、今のうちに慣れておきましょうね」
教える声は穏やかで、どこか楽しげだった。
前世で学んだ教室の空気が、少しだけ蘇る。
(まさか私が教える側になるなんてね)
侍女たちの指先はぎこちないが、
書き損じを自分から直そうとする姿がひたむきで――
セレナには、それが愛おしくさえ思えた。
「――今日はここまでにしましょうか。少し休憩を取ってから、また続けましょう」
そう告げると、侍女たちはほっとしたように息を漏らした。
水差しから杯に水が注がれ、石床に広がる緊張がすうっとほどけていく。
休憩に入ると、侍女たちの雑談があちこちで飛び交い、
油皿の灯りの揺らめきとともに、室内は一気に明るさを取り戻した。
「……はぁ。わたくしの姉なんて、字もろくに読めないのに、もう縁談の話ばかりですよ」
一人の侍女が水を飲み干し、机に頬杖をついた。
「“条件のいい相手だからありがたく思え”なんて言われて……。
どんな方かも知らないのに、ありがたくもなにも……ですよね?」
隣の侍女が小さく笑う。
「いいじゃない。条件がいいなら、まだましよ。
私なんて、“家に迷惑をかけないならそれでいい”って言われて育ったんだから」
別の侍女が照れくさそうに笑う。
「……わ、わたし、実は実家の村に幼馴染がいて。
荷車を引く力自慢な人なんですけど……小さい頃から、重い荷を代わりに持ってくれて……」
「まあ、なにそれ。ちゃんと話を聞かせなさいよ」
「い、言うほどじゃ……!」
頬を染め、両手で顔を覆う侍女。
周囲から「いいわねぇ」「羨ましい」と笑い声が上がる。
セレナは少し離れた机の端に座り、その様子を眺めていた。
厚い石壁に反響する笑い声が、どこか昔の記憶をくすぐる。
(……前世の学校を思い出すなぁ。友達同士で恋愛の話、よく盛り上がっていたっけ)
(懐かしいなぁ……そういえばあの時、先生は女子に慰められてたような――)
ふっと目を伏せた瞬間――
教室の窓から射す、西日の色がよみがえった。
◆
「はー、またダメだった」
肩を落として教卓に突っ伏す女教師。その周りでクラスメイトの女子たちが笑いながら声を掛けていた。
「先生また合コンですか?」
「紹介って、やっぱり当たり外れあるんだなぁ」
「大丈夫ですよ、先生可愛いんだから!」
教室は放課後の光に満ち、どこか牧歌的な空気に包まれていた。
窓際からその光景を見ていたのは、セレナが思い起こす“当時の自分”――前世の記憶だ。
(先生、大変そうだな……)
そのときの彼女には彼氏がいて順風満帆、だから他人事のようにしか思えなかった。
(ああ…いまなら先生の気持ちがよくわかります……)
誰かに選ばれたい、愛し合いたい――
ふと、彼女が口にしていた愚痴が蘇る。
「合コン」「紹介」「条件のいい人を勧められるけど……」
その言葉たちが、鮮やかに記憶をかすめた。
(……そういえば先生、いろいろ言ってたな……合コンとか……)
その瞬間、胸の奥でなにかが弾けた。
(……!そうだ……!)
◆
翌日の午後、再び開かれた茶会。
柔らかな日差しに庭の花々が映え、甘い菓子と果実の香りが漂う。
後宮の妃や側室たちは、色とりどりの衣を揺らしながら小さな卓を囲み、穏やかな笑い声を交わしていた。
その輪の中に腰を下ろしたセレナは、茶器を指先で転がしながらふと問いかけた。
「――もし、若き男女を集めて良縁を結ばせる宴があったなら……皆様は、足を運ばれますか?」
(先生がよく参加していた“婚活パーティー”。今の私に必要なのは、きっとこういう場……!
“誰かに選ばれたい”って望んでいるのは、きっと私だけじゃないはず……!)
場の空気がわずかにどよめく。
「まあ、そんな催しがあるのかしら?」
レイラが首をかしげ、扇で頬をあおぎながら微笑んだ。
「殿下のおそばに仕えるわたくしたちには、あまり縁がないようにも思えますけれど」
「でも、ちょっと楽しそうですわ!」
アシェラは瞳を輝かせ、菓子をつまんで口元を覆った。
「恋物語みたいで、胸が高鳴ります」
「もし運命の方に出会えたら……なんて、素敵ですわ」
「制度として整えば無駄が減る。出自も吟味した上で集めれば、混乱は避けられるでしょう」
アナヒータは落ち着いた声音で言い、卓上の果実酒の器を指で軽く叩いた。
「まあまあ、夢のようなお話ね」
妃候補のひとりがくすりと笑い、隣同士で囁き合う。
茶会は甘やかなさざめきと共に、思わぬ議題で熱を帯びていった。
(否定も肯定も半々ってところかしら……ならば)
セレナは胸の奥で鼓動を感じながら、思い切って言葉を重ねた。
「わたくしは――もしそのような宴があるのでしたら、ぜひ参加したいと思っています」
「まあ……」
レイラが目を細め、扇で口元を隠す。
「そんな率直におっしゃるなんて、さすがはルナワの姫君ですわ」
「わたくしも……実は興味がございます」
アシェラは頬を紅潮させ、目を伏せながら小声で続ける。
「もし自由に選べる場があるなら、とても素敵だと思います」
「制度化すれば、むしろ理に適う」
アナヒータは冷静に言葉を添えた。
「誰を娶るかに秩序を与えれば、争いも減るでしょう」
妃候補たちの間にもさざ波のような囁きが広がる。
「面白いわね……」「でも、実際に叶うのかしら」
庭の風が囁きをさらい、茶会は一層熱を帯びた。
セレナの胸は早鐘のように鳴り響いていた。
(……やっぱり反発もある。でも……心に刺さった人もいる。これなら……!)
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
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