第3話 虚飾(前編)
朝の陽は城塞宮殿の厚い石壁を越え、
格子窓から斜めに差し込んでいた。
「え?今日一日、謁見や供奉の予定はないの?」
窓辺で髪を結い終えたセレナは、
衣紋を整えたまま控えるリサに問いかけた。
リサは小さく首を横に振り、慌てて答える。
「はい、姫様。
後宮では神殿祭儀や王族の宴の召しがない限り、
皆それぞれお好きに過ごされます」
(おかしいわね…正妃候補なら、
日々の務めや学びで忙しいはずなのに)
セレナの眉間に影が寄る。
外の回廊からは、
側室たちの笑い声や軽い足音が響いてきた。
「……リサ。他の側室は普段どう過ごしているの?」
「化粧や衣装合わせ、
東屋でのお茶会がほとんどです」
少し間を置き、声を落とした。
「陛下は後宮をお好みにならず、
先の御婚姻以来、正妃候補とも
ほとんどお会いになられておりません。皆、
時を持て余しておられます」
(やっぱり、あの女武官に夢中なのね……)
(私、友達もいないし、
化粧や衣装なんて興味ないし)
髪の先を指に絡め、小さく息を吐く。
「
…よし、書庫に行くわ」
「しょ、書庫ですか?」
リサは驚いたように瞬きし、
小走りで外套と帯飾りを整えた。
セレナは立ち上がり、ふと侍女を横目に見た。
私にお付きになったリサは、
まだ十七、八の娘だった。
栗色の三つ編み、小麦色の肌、
素朴な顔立ちにえくぼが浮かぶ。
礼法は叩き込まれているが、
文字はほとんど読めない。
(真面目で働き者だけど…
読み書きができないのはきっと不便よね)
◆
(しかし…書庫に来てみたものの、
本当に入れるかしら)
王宮の書庫は文官の管理下にある。
侍女や側室が勝手に出入りできる場所ではない。
胸の奥に小さな不安を抱えながら、
セレナは扉を押し開けた。
中では老書官が机に腰掛け、葦筆を置いて
こちらをじろりと見上げた。
「どなた様で?」
セレナは裾を持ち上げ、一礼する。
「セレナと申します。本を拝見したくて参りました」
老書官は鼻を鳴らし、肩をすくめた。
「…承知しました。――宰相様、
正妃候補のセレナ様がお見えです」
通路の奥から、長身の影が現れる。
銀糸を帯びた髪を光に揺らし、ラシードが歩み出た。
「――姫様、ここでお会いするとは」
セレナは微笑を返す。
「今日は一日予定もなくて……
本でも読もうかと思い、こちらに」
「それは結構なこと。お入りなさい」
◆
老書官が扉を押し開けると、
冷えた空気と乾いた粘土と羊皮紙の混じった匂いが
流れ込んだ。
高い棚には巻物や羊皮紙が並び、
奥には粘土板の棚もある。
光を受けた楔形文字が淡く浮かび、
異世界の気配が満ちていた。
リサは一歩踏み入れ、目を丸くして
セレナの袖をつまんだ。
「……なんだか、息が詰まりそうなところですね」
声には居心地の悪さがにじむ。
「ここは後宮でも限られた者しか
足を踏み入れられぬ場所。緊張も無理はない」
ラシードが穏やかに言い添える。
セレナは
「そうですか」
と微笑み、棚に視線を滑らせた。
――前世でも、こうして静かな棚の間に立っていた。
悪魔祓いの影響で人が寄りつかず、
厳しい両親の監視から逃れて通った図書館。
現実を忘れたくて小説や史書を手当たり次第に開き、
王子と姫の物語に胸をときめかせた。
(…だから、縁談の話が来たとき、
あんなに浮かれてしまったのよね)
その表情を、ラシードは静かに横目で観察していた。
「…あの、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」
セレナが顔を上げ、丁寧な声で尋ねる。
「私は正妃候補として参りましたのに…
この後宮で、何の務めも与えられていないのです。
――それは、なぜなのでしょう?」
ラシードは軽く顎を傾け、顎鬚が光を受けた。
「――務め、ですか。
往昔なら祭儀も帳簿も子女教育も
候補者の役目でしたが、
殿下の御代ではすべて絶えております」
指先で羊皮紙を軽く叩き、淡く笑う。
「理由はひとつ。
殿下が後宮を不要とお考えだからです。
御心は政務と軍務、
そして…ひとりの女武官だけに向けられている」
その言葉に、隣で小さな声が漏れた。
「…サフィア様」
リサは慌てて口を押さえたが、もう遅かった。
ラシードの視線が一瞬だけ彼女をかすめ、
また棚に戻る。
「――ゆえに姫様。ここで何かを求めても、
返ってくるのは沈黙と退屈にございます」
セレナの頬がわずかに引きつったがけれど
口元には苦笑を浮かべ、声を落とす。
「…ですが、それも一時的なことでしょう?
殿下はいまだ王太子でいらっしゃる。
いずれ玉座に就かれれば…」
ラシードは首を振った。
「例外が続けば、それが規範となる。
宮廷とはそういう場です。殿下は先の婚姻に倦み、
次こそは心からの結びつきを、と。
ゆえに務めではなく
――ただひとりに心を注がれている」
灰色の瞳がセレナを射抜く。
「務めをお求めなら、
ご自身で見つけるしかありますまい」
セレナは唇から色を失い、裾を握る手に力を込めた。
(宰相が…そんなことを言うの?
それほど殿下の心はサフィアに向いてるの?)
「…では、なぜ私は呼ばれたのですか」
長い沈黙ののち、ラシードは静かに言った。
「理由は二つ。ひとつは“形式”。
属国から姫を招かず正妃を立てれば、
諸侯や周辺国の面目が立たぬ。
候補を集めること自体が外交なのです。
もうひとつは“保険”。人の心は移ろうもの。
殿下の情が揺らぎ、愛しい者が立場を保てぬ時、
ただちに埋められる座が必要になる」
「――呼ばれた理由と、望まれた理由は、
必ずしも同じではありません」
セレナの胸に冷たいものが広がり、
袖を握る指が震えた。
(そんな理由で私は呼ばれたの?)
血の気が引いていくのが自分でもわかる。
「…後宮の方々は、
この現状を受け入れておられるのですか」
「ええ。“受け入れるしかない”のです。
飾り物として日を潰すか、体裁だけを演じ続けるか。
皆承知している
――正妃の座はすでに埋まっていると」
セレナの背筋にざらついた熱が広がった。
(後宮で殿下を取り合う争いは、
覚悟していた…。けれど――
そもそも舞台はもう終わっていたの?)
喉が詰まって、思わず拳を握りしめた。
(私は…後宮に閉じ込められ、
誰にも愛されずに一生を終えるしかないの?)
胃の奥から焦げるような痛みがせり上がり、
視界の端が滲んだ。
(そんなの…絶対に嫌――!)
吐息を殺し、唇を強く結ぶ。
全身をえぐられたような衝撃に、
しばし言葉が出なかった。
やっとの思いで喉を震わせ、
かすれた声が零れる。
「…よくそんな状態で、後宮と呼べますね」
「成り立っているかどうかは疑問ですな。
候補者は己の誇りに縋り、着飾って日を過ごす。
それで“後宮”の体裁は保たれる。
けれど誰もが知っている――殿下の目は
ただ一人に向いていると」
言葉の刃が心臓を抉り、血が引いていく。
セレナの肩から力が抜け、膝がわずかに震えた。
宰相の視線を正面から受け止めきれず、
瞳から光がゆっくりと落ちていく。
(ああ…恋物語なんて、幻だったのね)
声が出るたびに喉が裂けるようで、唇を噛む。
それでも立場を崩すわけにはいかず、
微笑を張り付けて頭を下げる。
喉を震わせ、かろうじて礼の言葉を絞り出した。
「…お教えくださり…ありがとうございます」
宰相は黙して頷いた。
ただそれだけで、
冷たい現実が完全に突きつけられた。
セレナは一礼の姿勢のまま、
心の奥で何かが音を立てて崩れていくのを、
どうすることもできなかった。
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