第2話 流儀(後編)
側室の嫌がらせを軽やかに回避したセレナ。
次は侍女からの嫌がらせにどう向き合う?
部屋に戻ると、リサがすぐに衣装棚を開け、替えの服を取り出した。
濡れた肩口と裾が外気に触れ、ひやりとした感触が肌を這う。
視線の端、織り敷物の縁にまだ残る水の染みが、じわりと広がっていく。
(そうそう、こっちも何とかしないとね)
セレナは帯を解きながら、ふとリサに目を向けた。
「このあと、女官長に会いに行こうと思うの。バタバタして悪いけど、ついてきてくれるかしら?」
リサは小さく頷き、衣を差し出す。
着替えを終えたセレナは裾を整え、金糸の刺繍が淡く光を返す外套を羽織った。
◆
扉を開けると、廊下は昼より涼しく、青銅香炉の甘い香が漂ってきた。
女官長の執務室へ続く回廊では侍女や文官が行き交い、木靴の音が石畳に小刻みに響く。
金箔の扉の前で足を止めると、中から粘土板を擦る音と、葦筆の乾いた走りが漏れてきた。
リサが小声で告げる。
「女官長様、ただいまお手隙かと」
セレナは扉を押し開け、一歩踏み入った。
中央の机から顔を上げた女官長に向かい、裾を持ち上げて一礼する。
「女官長様、初めまして。ルナワ公国第一王女、セレナと申します。以後お見知り置きを」
礼を終えると、香の余韻だけが漂い、部屋は静まり返った。
机上には蝋板と茶器が整えられ、壁際に粘土板がきちんと積まれている。
奥に座すマリシェ女官長は四十前後、薄く引かれた唇と、鷹のような鋭い眼光を持っていた。
女官長が顔を上げ、低く問いかける。
「…それで、本日は何のご用でしょうか?」
セレナは唇に笑みを湛えたまま、一歩も引かぬ声で答える。
「私の部屋の織り敷物がびしょ濡れで、彩陶の器も割れておりました」
隣に立つリサへと視線を送る。
「我々が部屋に入った時点で、すでにその状態でしたよね?」
リサは小さく頷いた。
「部屋を整えた侍女の手によるものかと。侍女の失態は、女官長の責任ですよね?」
(ここで曖昧にしてはだめ。この後も同じ事が繰り返されるもの)
マリシェの眉がわずかに動き、茶器に添えていた指が静かに曲がった。
その瞳には軽んじるでも怒るでもない、測るような光が宿る。
「……心得ました。正妃候補ともあろう方が、その程度のことで直々に足を運ばれるとは――少々意外でしたが」
机脇の鐘を鳴らすと、侍女が入ってくる。
「器と織り敷物を替えなさい。それと部屋付きを呼び出しておけ」
セレナの訴えは形式どおり受け入れられた。
「ご対応、感謝いたします」
柔らかな声を残し、セレナは踵を返す。
その横でリサは胸を撫で下ろし、安堵の息をついた。
まだ緊張が残る面持ちのまま、主の後ろ姿を慌てて追った。
◆
青銅香炉の煙が揺れ、執務室にはマリシェだけが残っていた。
帳の影から、濃紺の長衣をまとった女がゆるやかに姿を現す。サーヒは羽根扇を弄びながら、薄笑いを浮かべた。
「…意外とずぶとそうね。あんな子と私が同じ正妃候補だなんて、目障りだわ」
「口の回し方は悪くない。だが、あの眼差しは…放っておけば厄介な芽になる」
「ザリーナ王妃にお伝えしますか?」
「まだ早い。正妃の座は一つ――芽は伸びきってから摘むほうが、手間がかからぬ」
短い沈黙の奥に、湿った企みが立ちのぼる。香炉の煙がそれを包み込むように揺れ、室内に重く満ちていた。
◆
執務室の扉が閉まり、回廊に静けさが戻る。
自室へ戻る途中、セレナの横で、リサはちらりとその横顔を盗み見た。
(初日なのに…女官長にまであんなに堂々と振る舞えるなんて)
「姫様」
声を落とし、探るように問う。
「…怖くないのですか?」
セレナは足を止め、わずかに目を瞬いた。
「え? 怖いわよ」
リサが眉を寄せる。
「…それなのに、どうして」
セレナは前を向き直り、歩みを再開した。
「駄目なことを、なあなあで受け入れるようになる人間になるほうが…よほど怖いから」
リサは短く息を呑み、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
回廊を抜け、部屋に戻ると、窓辺から午後の柔らかな光が差し込んでいた。
濡れていた織り敷物はすでに片付けられ、新しいものに替えられている。
彩陶壺も同じ形のものが置かれ、部屋は元どおり整っていた。
リサがそっと背後で戸を閉める。
「…お着替えはこのままでよろしいですか?」
セレナは視線を窓の外に向けた。
庭の向こうでは、夕餉に向けて侍女たちが慌ただしく行き交っている。
夕陽が石畳を赤く染め、遠くで小鳥が水場をついばんでいた。
(なかなか濃い一日だったな…王子殿下と女武官の関係、後宮の洗礼まで)
そっと息を吐き、背中の力を抜く。
(でも…せっかくの二度目の人生なんだから、楽しまないとね)
口元にごく小さな笑みを浮かべ、窓の外を眺める。
沈む陽が、石畳をやわらかに染めていた。
◆
夕陽に照らされた窓辺、顔を外に出して庭を眺めるセレナの姿があった。
回廊の影から、それを静かに見上げるラシード。
(…ふむ。初日で女官長の鼻を明かし、妃候補の当てこすりも受け流すか)
(物腰は柔らかく見せているが、あれは計算か――いや、天性か)
(もっとも、今の後宮はもう勝負の舞台じゃない。ただの茶番だ。争いも、駆け引きも、形ばかり)
(そんな舞台に、妙に芯の通った異国の姫が立てば…浮くのも当然だな)
ラシードは目を細め、肩をすくめて小さく笑うと、足音を消して回廊の奥へと消えていった。
◆
夜の執務室。
油灯の明かりが、積まれた粘土板や蝋板の端を金色に照らしている。
アルシオンは机に向かい、筆を置いてラシードに視線を向けた。
「――で、あの姫はどうだった?」
ラシードは穏やかな笑みを浮かべ、報告を始める。
「物腰は柔らかく、礼も行き届いておられます。
女官長や妃候補からのあからさまな試しにも動じず、むしろ軽く受け流す度胸がおありで」
アルシオンは興味深げに片眉を上げた。
「ほう…」
「ですが、それだけではありません。礼を崩さず、しかしはっきりと自分の意志を示される。今の後宮で、ああした気骨を見せる方はまずおりません」
「ふむ…」
アルシオンは短く考え込み、やがて口元に淡い笑みを浮かべた。
「だが、正妃はサフィアにしたい」
一瞬、油灯の火が揺らいだように見えた。
ラシードは目を細めたまま、微笑を崩さない。
「…そう仰ると思っておりました」
(やはり殿下は、あの人を手放す気がない…)
静かなやり取りの奥で、王宮の空気がわずかにきしむ。
「法に触れるわけではありませぬが、慣例には大きく背きましょう」
ラシードは湯の冷めた茶器をそっと置き、微笑のまま息を吐いた。
(結局、火消し役は私か…)
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
ブクマや感想を頂けると、とても励みになります_(._.)_
Twitter始めました!裏話とか載せる予定ですのでよければ覗いてください→@serena_narou