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第2話 流儀(後編)

側室の嫌がらせを軽やかに回避したセレナ。

次は侍女からの嫌がらせにどう向き合う?


部屋に戻ると、リサがすぐに衣装棚を開け、替えの服を取り出した。

濡れた肩口と裾が外気に触れ、ひやりとした感触が肌を這う。


視線の端、織り敷物の縁にまだ残る水の染みが、じわりと広がっていく。


(そうそう、こっちも何とかしないとね)


セレナは帯を解きながら、ふとリサに目を向けた。

「このあと、女官長に会いに行こうと思うの。バタバタして悪いけど、ついてきてくれるかしら?」


リサは小さく頷き、衣を差し出す。


着替えを終えたセレナは裾を整え、金糸の刺繍が淡く光を返す外套を羽織った。



扉を開けると、廊下は昼より涼しく、青銅香炉の甘い香が漂ってきた。

女官長の執務室へ続く回廊では侍女や文官が行き交い、木靴の音が石畳に小刻みに響く。 


金箔の扉の前で足を止めると、中から粘土板を擦る音と、葦筆の乾いた走りが漏れてきた。


リサが小声で告げる。

「女官長様、ただいまお手隙かと」


セレナは扉を押し開け、一歩踏み入った。 


中央の机から顔を上げた女官長に向かい、裾を持ち上げて一礼する。

「女官長様、初めまして。ルナワ公国第一王女、セレナと申します。以後お見知り置きを」


礼を終えると、香の余韻だけが漂い、部屋は静まり返った。 


机上には蝋板と茶器が整えられ、壁際に粘土板がきちんと積まれている。


奥に座すマリシェ女官長は四十前後、薄く引かれた唇と、鷹のような鋭い眼光を持っていた。


女官長が顔を上げ、低く問いかける。

「…それで、本日は何のご用でしょうか?」


セレナは唇に笑みを湛えたまま、一歩も引かぬ声で答える。

「私の部屋の織り敷物がびしょ濡れで、彩陶の器も割れておりました」


隣に立つリサへと視線を送る。

「我々が部屋に入った時点で、すでにその状態でしたよね?」

リサは小さく頷いた。


「部屋を整えた侍女の手によるものかと。侍女の失態は、女官長の責任ですよね?」

(ここで曖昧にしてはだめ。この後も同じ事が繰り返されるもの)


マリシェの眉がわずかに動き、茶器に添えていた指が静かに曲がった。

その瞳には軽んじるでも怒るでもない、測るような光が宿る。


「……心得ました。正妃候補ともあろう方が、その程度のことで直々に足を運ばれるとは――少々意外でしたが」


机脇の鐘を鳴らすと、侍女が入ってくる。

「器と織り敷物を替えなさい。それと部屋付きを呼び出しておけ」


セレナの訴えは形式どおり受け入れられた。


「ご対応、感謝いたします」

柔らかな声を残し、セレナは踵を返す。


その横でリサは胸を撫で下ろし、安堵の息をついた。

まだ緊張が残る面持ちのまま、主の後ろ姿を慌てて追った。



青銅香炉の煙が揺れ、執務室にはマリシェだけが残っていた。


帳の影から、濃紺の長衣をまとった女がゆるやかに姿を現す。サーヒは羽根扇を弄びながら、薄笑いを浮かべた。


「…意外とずぶとそうね。あんな子と私が同じ正妃候補だなんて、目障りだわ」


「口の回し方は悪くない。だが、あの眼差しは…放っておけば厄介な芽になる」


「ザリーナ王妃にお伝えしますか?」


「まだ早い。正妃の座は一つ――芽は伸びきってから摘むほうが、手間がかからぬ」


短い沈黙の奥に、湿った企みが立ちのぼる。香炉の煙がそれを包み込むように揺れ、室内に重く満ちていた。



執務室の扉が閉まり、回廊に静けさが戻る。

自室へ戻る途中、セレナの横で、リサはちらりとその横顔を盗み見た。

(初日なのに…女官長にまであんなに堂々と振る舞えるなんて)


「姫様」

声を落とし、探るように問う。


「…怖くないのですか?」


セレナは足を止め、わずかに目を瞬いた。

「え? 怖いわよ」  


リサが眉を寄せる。

「…それなのに、どうして」


セレナは前を向き直り、歩みを再開した。

「駄目なことを、なあなあで受け入れるようになる人間になるほうが…よほど怖いから」


リサは短く息を呑み、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


回廊を抜け、部屋に戻ると、窓辺から午後の柔らかな光が差し込んでいた。

濡れていた織り敷物はすでに片付けられ、新しいものに替えられている。


彩陶壺も同じ形のものが置かれ、部屋は元どおり整っていた。


リサがそっと背後で戸を閉める。

「…お着替えはこのままでよろしいですか?」


セレナは視線を窓の外に向けた。


庭の向こうでは、夕餉に向けて侍女たちが慌ただしく行き交っている。

夕陽が石畳を赤く染め、遠くで小鳥が水場をついばんでいた。


(なかなか濃い一日だったな…王子殿下と女武官の関係、後宮の洗礼まで)

そっと息を吐き、背中の力を抜く。


(でも…せっかくの二度目の人生なんだから、楽しまないとね)


口元にごく小さな笑みを浮かべ、窓の外を眺める。

沈む陽が、石畳をやわらかに染めていた。



夕陽に照らされた窓辺、顔を外に出して庭を眺めるセレナの姿があった。

回廊の影から、それを静かに見上げるラシード。


(…ふむ。初日で女官長の鼻を明かし、妃候補の当てこすりも受け流すか)


(物腰は柔らかく見せているが、あれは計算か――いや、天性か)


(もっとも、今の後宮はもう勝負の舞台じゃない。ただの茶番だ。争いも、駆け引きも、形ばかり)


(そんな舞台に、妙に芯の通った異国の姫が立てば…浮くのも当然だな)


ラシードは目を細め、肩をすくめて小さく笑うと、足音を消して回廊の奥へと消えていった。



夜の執務室。

油灯の明かりが、積まれた粘土板や蝋板の端を金色に照らしている。


アルシオンは机に向かい、筆を置いてラシードに視線を向けた。

「――で、あの姫はどうだった?」


ラシードは穏やかな笑みを浮かべ、報告を始める。

「物腰は柔らかく、礼も行き届いておられます。

女官長や妃候補からのあからさまな試しにも動じず、むしろ軽く受け流す度胸がおありで」


アルシオンは興味深げに片眉を上げた。

「ほう…」


「ですが、それだけではありません。礼を崩さず、しかしはっきりと自分の意志を示される。今の後宮で、ああした気骨を見せる方はまずおりません」


「ふむ…」

アルシオンは短く考え込み、やがて口元に淡い笑みを浮かべた。


「だが、正妃はサフィアにしたい」


一瞬、油灯の火が揺らいだように見えた。


ラシードは目を細めたまま、微笑を崩さない。

「…そう仰ると思っておりました」


(やはり殿下は、あの人を手放す気がない…)


静かなやり取りの奥で、王宮の空気がわずかにきしむ。


「法に触れるわけではありませぬが、慣例には大きく背きましょう」

ラシードは湯の冷めた茶器をそっと置き、微笑のまま息を吐いた。


(結局、火消し役は私か…)


ここまで読んでくださり、ありがとうございます!

ブクマや感想を頂けると、とても励みになります_(._.)_

Twitter始めました!裏話とか載せる予定ですのでよければ覗いてください→@serena_narou

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