最終話 月光(後編)
執務室に夜の静けさと重苦しい空気が漂っていた。
長卓の上には帳簿と問題の小瓶が置かれ、燭火だけが頼りの光となって印影を照らしている。
ナヴァリスが姿勢を正し、口を開いた。
「……まずご報告申し上げます。件の小瓶は後宮搬入の帳簿に記録があり、女官長の印が押されておりました。ただし本人は“手違いで押印した可能性がある”と主張しており、関与を断定できません」
アルシオンの眉が険しく寄る。
「……手違いで毒物を通した、だと」
「はい、殿下。管理責任は重大ですが、この段階で黒幕と断ずるのは尚早かと」
ナヴァリスの声は淡々としていたが、その底には冷ややかな鋭さが潜んでいた。
そこで宰相ラシードが筆を置き、視線を上げる。
「しかし、サーヒ様本人については別筋でございますな」
ナヴァリスが深く頷いた。
「……複数の侍女が、彼女が自ら手を挙げて暴行する場面を目撃しております。後宮の規律を破った罪は、明白でございます」
ラシードは静かに言葉を継いだ。
「毒の件はまだ霧の中ですが、暴行の咎だけでも、後宮に留め置く理由はございません。秩序を守るためには、しかるべき処置が必要でしょう」
燭火の下、重苦しい沈黙が落ちる。
やがてアルシオンは視線を上げ、低く言い放った。
「――サーヒは追放だ」
静かに告げられたその一言に、部屋の空気が揺らいだ。
燭火の揺らめきすら重たく映り、誰もすぐには口を開けなかった。
ナヴァリスは声を落とし、黒い瞳を細めた。
「ただし殿下。サーヒ様は“王妃派”に名を連ねる正妃候補。その処分は一族だけでなく、王妃様ご自身の立場にも響きましょう」
短い沈黙が落ちたのち、ナヴァリスは言葉を継ぐ。
「ゆえに即刻の放逐ではなく、“謹慎ののちに実家へ還す”という形が妥当かと。外聞を保ちつつ、秩序を守る道でございます」
ラシードが腕を組み、静かに添える。
「処遇の理は二つ。ひとつは“殿下の御心を害した罪”として厳罰を与える道。もうひとつは“後宮の秩序を乱した”ことを理由に、外聞を保ったまま送り返す道。どちらを選ばれても、王子としての威信に関わりましょう」
アルシオンの青い瞳が鋭く光る。
「ならば――後者だ。謹慎を命じ、然るのち実家へ還せ。二度と後宮へ戻すな」
ナヴァリスが深く頭を垂れた。
「御意」
ラシードは灰色の瞳を細め、燭火に揺れる影を見つめながら葦筆を走らせた。
乾いた音が、決定の重さを刻むように室内に響く。
やがて帳簿を閉じ、低く息を吐いた。
「……これで、サーヒ殿の処罰は避けられますまい。あとはセレナ様へ経緯を――」
脇で控えていたナヴァリスが一歩進み出る。
「では私が責を負い、後宮の内規としてセレナ様に申し上げましょうか」
そのとき、アルシオンの瞳が鋭く動いた。
「いや……俺が行く」
二人がわずかに目を見張った。
「殿下自ら、ですか?」
ラシードの声が静かに揺れる。
アルシオンは頷き、椅子から立ち上がった。
「セレナは己が侍女を守った。その働きを、後宮監の口から伝えるのでは違う。
語るなら――俺の言葉でなければならない」
決然とした声音に、室内の空気が張り詰めた。
ナヴァリスが深く頭を垂れる。
「……承知いたしました」
アルシオンは外套を羽織り、振り返らぬまま部屋を後にした。
◆
回廊を進むアルシオンの足取りは迷いなく、ただセレナのもとへ向かっていた。
灯火の影が石畳に揺れ、重く静かな夜気が彼を包んでいた。
(……サーヒの件は、俺の言葉で伝えねばならない)
胸に刻みつけ、アルシオンは静かに息をついた。
そのとき、前方から軽やかな足音。
「……殿下?」
黒髪を揺らして現れたのはサフィアだった。訓練帰りの気配を残し、剣を背に負っている。
「サフィアか」
低い声が返る。
「どちらへ……」
「セレナのもとへ行く。サーヒの件を伝える」
一瞬、サフィアの瞳が揺れ、すぐに決意を宿した。
「でしたら、私もご一緒に――」
「いや」
アルシオンは静かに首を振る。
「これは俺の責だ。俺の言葉で伝える。お前には……お前の役目がある」
短い沈黙ののち、サフィアは唇を噛み、従うように深く頭を垂れた。
◆
薄暗い小部屋に、香草茶のかすかな匂いが漂っていた。
毛布をかけられた侍女はまだ怯えの色を残したまま、セレナの手をぎゅっと握っている。
その細い手を包み込みながら、セレナは静かに微笑んだ。
「眠れないなら……お話ししようか?」
小さな頷きを受け、セレナは視線を遠くへ投げ、言葉をゆっくり紡ぎ始める。
「昔、とても小さな国に、継母と姉たちに仕えて暮らす姫がいたそうです。
灰にまみれて働いていたけれど――ただひとつ、心を偽らなければ、いつか光が降りてくると信じていました」
声は夜明け前の冷たい空気に溶けていく。
「やがて姫は舞踏会で王子に出会い、見つけてもらったのです。灰に隠れていた自分を、ひとりの人として」
そこで言葉を切り、セレナはふっと微笑んだ。
(私はお姫様じゃなかった……でも、夢を見るくらいなら許されるよね…)
眠りに落ちた侍女の寝顔を確かめ、そっと毛布を直した。
◆
アルシオンは扉の陰に身を潜め、灯火に照らされたセレナの横顔を見つめていた。
眠る侍女の髪を直し、静かに寄り添う姿――そこには華やぎも誇示もなく、ただ必死に誰かを支えようとする温もりがあった。
(……なぜ、これほど心を乱される)
胸の奥がざわつき、思わず拳を握る。
彼女はただ侍女を慰めているだけ。だが、その一途さが胸を刺し、視線を逸らすことができなかった。
(サフィアには剣がある。だが、この娘には……)
そこまで思い至り、言葉が途切れる。
――何を感じているのか、自分でもうまく掴めない。
それが戸惑いとなって、アルシオンの胸に重く沈んでいった。
扉の外で立ち尽くしながら、彼は初めてセレナという存在を、ただの「正妃候補」ではなく――己の心を揺らす得体の知れぬ相手として意識していた。
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