転生姫はお飾り正妃候補？愛されないので自力で幸せ掴みます

一章

最終話 月光（中編②）

午後の風がゆるむ訓練場。

砂を敷き詰めた地面は陽に熱され、乾いた匂いが漂っていた。

木剣を振るい終えたアルシオンが額の汗を拭い、軽く息を整える。

「……ふぅ、やっぱりお前を相手にすると気が抜けないな」

笑いながら視線を向ければ、対面のサフィアも木剣を支え、肩で息をしていた。

「殿下こそ……本気を隠すの、ずるいです」

乱れた黒髪をかき上げると、琥珀色の瞳が悔しさと嬉しさを同時に宿している。

アルシオンは剣を地に突き立て、そのままサフィアの額に手を伸ばして汗を拭った。

「無茶をするな。顔が真っ赤じゃないか」

「れ、練習ですから……！」

慌てて身を引こうとしたが、手首を取られて一瞬で引き寄せられる。

「練習も大事だが――」

低く囁き、至近距離で瞳を覗き込む。

「……こうしてると、戦うよりずっと楽しい」

「な、なにを……昼間ですよ！」

真っ赤になって抗議するが、声は弱く、笑いが混じっていた。

「昼間だろうが夜だろうが、関係ない」

アルシオンが苦笑しながら離すと、サフィアは剣を抱えてごまかすように視線を逸らす。

遠くで兵士たちの掛け声が響き、陽光の下で二人の影は重なり合って揺れていた。

そのとき、土を蹴る急ぎ足が訓練場へと駆け込む。

若い武官が膝をつき、胸に手を当てて声を張る。

「殿下！　後宮にて急を要する事態が――！」

「何事だ？」

アルシオンの青い瞳が鋭く光り、声が場を裂いた。

武官は顔を上げ、言葉を絞る。

「……正妃候補のサーヒ様の周りで、侍女を巡る騒ぎが起きているとの報が……！

　同じく正妃候補のセレナ様も、その場におられます！」

一瞬、空気が止んだ。

アルシオンの表情から笑みが消え、眉が険しく寄せられる。

「なんだと……！？」

サフィアは即座に腰の剣を持ち直し、足を踏み出していた。

「殿下、すぐに！」

砂の上に二人の影が伸び、訓練場の喧噪すら呑み込むほどの緊張が走った。

◆

侍女たちが顔を見合わせ、震える声を漏らした。

「姫様、どうか……お下がりください！」

セレナはそれでも足を止めなかった。

裾を揺らして進むその先、回廊の角を曲がったとき――。

「姫様！」

鋭い声が呼び止めた。振り返ると、黒衣をまとったサフィアが、剣を片手に駆けてきていた。

「あなたは……」セレナが小さく息を呑む。

サフィアはすぐにセレナの前に立ち、鋭い視線で周囲を払った。

「報告を聞きました。――ここからは私が共に参ります。

　殿下の名誉を、決して汚させはいたしません」

短く言い切るその声音には、逆らえぬ強さがあった。

セレナはわずかに目を見開き、しかしすぐに頷いた。

「……お願いします」

二人は並んで駆け出した。

人々のざわめきが近づくにつれ、緊張の気配が肌を刺す。

やがて人だかりの先から、侍女の悲鳴がかすかに届いた。

サフィアが剣を握り直し、セレナは胸に扇を抱きしめる。

その足取りは、迷いなく騒ぎの渦へと踏み込んでいった。

◆

角を曲がった先、開け放たれた部屋の前に人垣ができていた。

ざわめきと悲鳴が漏れ、侍女たちが顔を強ばらせて中をのぞき込んでいる。

その視線の先――床に押し倒された侍女の上に、サーヒが馬乗りになっていた。

「告げ口をする下衆が――後宮に要るものですか！」

紅の衣をはためかせ、鞭を振り上げると、侍女の頬を容赦なく打った。

ぱしん、と鋭い音が空気を裂き、女の悲鳴が響き渡る。

取り巻きの侍女たちは顔を青ざめさせながらも、誰ひとり止められずに立ち尽くす。

「サーヒ様……どうか……！」

弱々しい声は、逆に彼女の怒りを煽るだけだった。

「黙れ！　裏切り者は誰でも同じ！　叩き出す前に思い知らせてやる！」

再び鞭を振り上げ、打ち据えようとするその瞬間――。

「――やめなさい！」

セレナの声が、怒声にも似て鋭く部屋に響いた。

その一喝に、空気がぴんと張り詰める。

振り下ろされかけたサーヒの手が宙で止まり、周囲の侍女たちが一斉に息を呑んだ。

ゆっくりと振り返ったサーヒの双眸が、驚きと憤怒に大きく揺れる。

「……何ですって？」

押さえつけられた侍女の肩を乱暴に突き放し、サーヒは立ち上がる。

足元に膝をついた若い侍女が震えていた。

それでもセレナを仰ぎ見る瞳には、かすかな希望の光が宿っていた。

「ルナワの姫風情が、この後宮の秩序に口を挟むと？」

唇を吊り上げ、顎を反らして冷笑を浮かべる。

だがセレナの声に一瞬ひるんだ空気は、取り巻きの侍女たちの間に確かな動揺を走らせていた。

セレナは一歩踏み出した。

――かつて悪魔祓いで異形を退けたときと同じ気配。

凍りつくほどの殺気を、静かに纏う。

射抜くような眼差しが、暴力の場を貫いた。

一拍の沈黙。

「あなたが秩序を語るの？――恥を知りなさい」

その声音は決して大きくはなかった。

だが刃のように鋭く、場の空気を震わせた。

サーヒの手が止まる。

掴んでいた侍女の肩から力が抜け、指先がかすかに震えた。

一瞬、瞳に怯えがよぎる。

だがすぐに唇を歪め、冷笑で取り繕う。

「……言ってくれるじゃないの、異国の姫が」

嘲りを混ぜた声の底に震えが残り、周囲の侍女たちは小さく息を呑んだ。

乾いた足音が石畳を打ち、影がすっと二人の間に割って入った。

「下がれ」

サフィアだった。

剣を抜きはしなかったが、その気配は刀身のように冷たく張りつめている。

セレナとサーヒの間に立ち、片腕をわずかに広げてセレナを庇った。

「姫様に刃を向けるような真似――殿下の名誉を汚すどころか、後宮そのものを踏みにじる行いだ」

琥珀の瞳が真っ直ぐにサーヒを射抜く。

「これ以上は、私が許さない」

静かな声が落ちた瞬間、空気が凍りついた。

革の踵が石畳を打ち、ぎり、と不快な音を響かせた。

「何よあなた……！　武官風情が私に指図するつもり！？　殿下に取り入っているだけの小娘が――！」

顔を紅潮させてサフィアに食って掛かる。

袖口が乱れ、指先は怒りに震えていた。

サフィアは一歩も退かず片腕を広げて遮った。

「殿下の御名を語り、後宮を穢すのはやめろ」

低く抑えられた声の奥に、燃えるような怒りが潜む。

サーヒがなおも詰め寄ろうとした刹那、サフィアの背後からセレナがすっと歩み出た。

震える侍女の前に膝をつき、柔らかく声を落とす。

「……遅くなって、ごめんね」

細い肩を抱き寄せると、少女は堰を切ったように嗚咽を洩らし、セレナの衣にすがりついた。

「そこまでだ！」

鋭い声が石壁に響き渡った。

振り返れば、兵を従えたアルシオンが堂々と進み出てくる。

射し込む陽光を背にした姿は、怒りを帯びた覇気そのものだった。

「……殿下！」

サーヒが顔色を変え、慌てて裾を整え一歩下がる。

兵たちはすぐさま両脇に散り、場を固めた。

重い足音とともに進み出たアルシオンの視線は、まず泣きじゃくる侍女に、そしてセレナに寄り添う姿に注がれる。

次いで鋭くサーヒへと突き刺さった。

「正妃候補が侍女を鞭打ちするとは……これが後宮の品格か」

低く落ちた声は、氷刃のように冷たかった。

サーヒの喉がかすかに鳴り、言葉を失う。

セレナは膝を折り、泣きじゃくる侍女の背をそっと支えた。

「もう大丈夫だから……」

声は侍女だけに向けられ、周囲の騒ぎなど目に入っていないかのようだった。

その姿を正面から見たアルシオンの胸に、鋭い棘のような感情が走った。

（……この状況でもまず侍女を守るのか。身分の差も、場の緊張も意に介さず……）

怒りに燃えていた心に、別の熱が重なる。

セレナの細い背に縋る侍女の姿――その前に膝を折る彼女の姿は、ただの優しさに見えて、どこか抗いがたい力を帯びていた。

アルシオンの拳が自然と握られた。

（サフィアは俺のために立つ。だが、この娘は……俺の知らぬところで人を支えている）

わずかに息を吐き、青い瞳がセレナを見つめる。

その視線はサーヒに向けた怒りよりも深く、複雑に揺れていた。

「……侍女を立たせてやれ。ここからは、私が裁く」

静かに告げた声は、今やセレナにも向けられていた。

アルシオンは兵の列を率いて進み出たものの、目の端に映る光景から視線を逸らせなかった。

セレナが侍女を抱きしめる姿――泣き崩れる娘を包み込み、まるで血のつながった妹でもあるかのように必死に庇っている。

（……なぜだ。俺は彼女に忠誠を求めた覚えもない。守れとも命じていない。それなのに――）

胸の奥がざわついた。

サフィアは剣を手に俺のために立つ。その揺るぎない忠誠に、俺は救われてきた。

だが、セレナは違う。権威を笠に着ることもなく、ただ「守らねば」と思った相手に手を差し伸べている。

（……誰も見ていない場でさえ、こうして迷わずに動くのか）

それは計算でも虚飾でもない――彼女自身に根ざした強さなのだろう。

青い瞳が細められた。

怒りで硬くなっていた拳が、静かに力を緩めていく。

その熱は、もはやサーヒに向けられたものではなかった。

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