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第9話 兆(後編)


王宮の政務館。宵の冷気を遮る分厚い扉の内側、燭台に照らされた地図と文書の山を前に、アルシオンは礼服のまま机に凭れていた。

軍務と政務の報告が重なり、眉間の皺は深い。


そこに、音もなくナヴァリスが進み出る。濃紺の衣を乱すことなく、深く一礼した。

「殿下――後宮に関して、一つご報告を」


青い瞳が顔を上げる。短い間を置いて、低い声が返る。

「聞こう」


ナヴァリスの声音は、いつもの柔らかさを保ちながらも無駄がない。

「本日、姫君方の集いにて。ルナワの姫、セレナ様が“座”と称する小さな集まりを提案されました。

舞を好む者、刺繍に秀でる者、薬草に明るい者…それぞれに相応しい業を担わせるという趣向にございます」


アルシオンの視線がわずかに動く。葦筆の先が止まり、眉がかすかに寄った。

「反応は?」


「――おおむね好意的にございます。従来、後宮は務めなく、ただ日を送る場となっておりましたが…」

ナヴァリスは一呼吸置き、皮肉げに唇を動かす。

「彼女の言葉により、まるで明日から後宮が生まれ変わるとでも思ったかのように。妃候補方は笑みを交わし、侍女たちは目を輝かせておりました」


燭火が揺れ、沈黙が落ちる。

アルシオンの青い瞳が文書から離れ、わずかに光を帯びる。


ナヴァリスはその変化を見逃さず、静かに目を細めて続けた。

「殿下。飾りと侮られがちな異邦の姫が、場を緩やかに動かす…これは小さきことに見えても、秩序の観点からは見過ごせぬ一歩にございます。摘まねば枝葉を伸ばしましょう」


机に肘をついたアルシオンは、静かに息を吐いた。

冷たい青がわずかに揺れる。


「…お前の目には、あの娘はどう映る」


ナヴァリスの口元に、抑えた笑みが灯る。

「使える芽、と申せましょう。国を揺るがすほどではなくとも、後宮の荒れを鎮めるだけの力は持ち得るやもしれませぬ。ただ――処置を誤れば根を張ります」


重い沈黙。

アルシオンの胸裏に、サフィアの面影と、セレナの真っ直ぐな瞳とが、鋭く並んだ。


「…報告、感謝する。――下がれ」


「御意」


一礼して下がるナヴァリスの背は、冷えた空気を割るように静かだった。

その目の奥には、計算を秘めた光がわずかにきらめいていた。


――後宮は、飾りで終わらぬ姫を抱え込んだのだ、と。

――ナヴァリスの言葉が落ちるたび、思考は二つの女の像を行き来した。


焔のように真っ直ぐで、剣を手にして並び立つサフィア。彼女には迷いがない。己を殿下に捧げると誓った夜の瞳は、揺らぎを知らぬ。そこに安堵と、焦がれるような愛情を重ねてきた。


それだけで十分なはずだった。

過去の傷――愛を持たぬ妻の冷たい背中を思い出す。形だけの婚姻、偽りの微笑。その反動で選んだサフィア。彼女なら裏切らない。彼女さえいれば、二度と過ちを繰り返すことはない。


…なのに。

異邦の姫の声が、耳の奥に残る。無理強いでも虚飾でもなく、人を和ませる響き。

瞳は弱さを隠すものではなく、弱さを抱えたまま真っ直ぐに立っていた。


(なぜ、あの娘の言葉が頭に残る…)


苛立ちが胸を焦がす。迷いなどあるはずがない。正妃はサフィア――それ以外に答えはない。

ただ、理性の奥底でほんのわずか、「面白い」と呟く声を、どうしても振り払えなかった。


拳が机を叩き、蝋燭の炎が揺れる。

(惑うな。選ぶのは一人だけだ)


青い瞳はなお、静まらない波を追っていた。

夜更け、寝所の静けさ。

アルシオンは考え込むように黙し、サフィアはそっと隣に膝を寄せた。


「…ねえ、また遠く見てる」

声は責めるのではなく、胸の奥から溢れる心配の響き。


返ってきたのは短い沈黙。

その間にサフィアの心はじわじわと不安に呑み込まれていく。


(…知らない。何を考えてるのか、全部はわからない。でも…私には隠そうとしてる。それが苦しい)


ふと、後宮の影が胸をかすめる。

交わした言葉は殆どない。けれど、ただの飾りではない、静かな瞳を思い出す。


問いかけたいのに、声に出せない。

出したら、自分の弱さが溢れてしまいそうで。


だから代わりに、彼の手を両手で包み込み、そっと額に押し当てた。

「…わからなくてもいい。全部聞けなくてもいい。ただ…私のことは忘れないで。ずっと、ここにいるから」


瞳を上げたサフィアは、無理に笑った。

泣き出したいほど不安なのに、笑顔で支えようとする。


(私じゃ足りないのかもしれない。それでも…アルシオンの力になれるように、何度でも隣に立つ。そばにいるために…)


アルシオンの腕が彼女を抱き寄せる。

重く熱い抱擁に、胸の奥の影はまだ消えない。

けれどサフィアは目を閉じ、ただ祈るようにその温もりを抱きしめ続けた。

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― 新着の感想 ―
アルシオンとサフィアでもうお腹いっぱいだわ、勝手にどうぞ!なのでセレナに関わらないでほしい。まぁ、召し上げたのはそっちだから責任とって衣食住と安全は保証してよね!て気持ちで読んでいますw 王族としての…
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