第2話 流儀(前編)
「これは…誰がこんなことを!」
リサが息を呑み、セレナの前に躍り出る。
帳をくぐった途端、湿った匂いが鼻を刺した。
羊毛のキリムは一角がぐっしょり沈み、
脇には彩陶の壺が無惨に割れ、
花びらと水が床に散っていた。
陶片が夕光を反射し、薄い刃のように光る。
正妃候補は妃候補と違い、王の正妻となる資格を持つ。
だからこそ恨みを買いやすいと、
頭では分かっていたのに──
(まだ来て間もないのに、もう…?)
目の前の絨毯を見て、セレナは思わず肩を落とした。
部屋の隅では、
数人の侍女が視線を逸らしながら
そそくさと立ち去ろうとしていた。
その中の一人の口角が、ほんのわずかに上がる。
(侍女を使っての嫌がらせ…それができるのは、
きっと私と同じ正妃候補…。酷い…)
「…リサ、足元に気をつけて。破片は鋭いから」
裾を押さえてゆっくり膝をつく。
陶片をひとつずつ拾い上げるたび、
冷たい雫が掌に落ちては消えていく。
リサが慌てて亜麻布を取りに走る。
(わざわざこんなことまで…いや、
これも彼女たちにとっては“仕事”の
一環なのかもしれない)
視線の先の織り敷物を見やる。
(わかっているのかしら…
この羊毛や染料の手間だけでも、
どれほどの価値があるか)
「リサ。──今のは侍女たちの仕業で、
間違いないわね?」
短い躊躇いののち、リサは頷いた。
「はい…正妃候補には、
こうした嫌がらせが少なくないと聞きます」
水の染みがじわじわと広がっていく。
セレナは微笑を保ったまま
「それで十分」とだけ言い、
裾を払って立ち上がった。
「それより…そろそろ食事の時間よね。行こうか」
◆
中庭の木陰を抜ける風が、枝葉をさわりと鳴らした。
長椅子に腰掛けたセレナとリサの前には、
香草を練り込んだパンと豆と肉の煮込みが
並んでいる。
「やっぱり中庭の風は気持ちいいですね、姫様」
リサが微笑んだ、そのとき――
配膳室から薄桃色の衣の女が現れた。
陽光を受けた黒髪が艶めき、
手の銀盆には湯気の立つ器。
狭い回廊の切れ目をまっすぐ進む女は、
セレナたちの横でわずかに肩をぶつけた。
器のスープが波打ち、香ばしい匂いが立ちのぼる。
「っ…!」
思わず息を呑むセレナをよそに、
女は一度も振り返らず裾を翻して去っていった。
(…酷い。しかも謝りもしないなんて)
遠巻きに見ていた数人の妃候補たちは、
口元を隠して忍び笑う。
「わざとよ」
「新しい子をからかってるのね」
そんな囁きが、
風に溶けて消えた。
リサが低い声で「お怪我は…?」と寄ってくる。
セレナはゆるやかに立ち上がり、
去っていく背中を射抜くように見つめた。
(あんまりじゃない…?)
わずかに息を吸い、口元の力をそっと解く。
「…姫様。それが、あなたの国の流儀ですか?」
声は静かだが、芯の硬さが空気を震わせる。
その瞳が射抜くように細まり、
木陰の下の笑い声がぴたりと止んだ。
アシェラの肩がわずかに強張り、
その歩みが一瞬だけ乱れる。
それでも彼女は振り返らず、
陽光の中に溶けるように姿を消した。
セレナは視線を逸らさず、
最後の影が消えるまで追い続ける。
木陰の下、妃候補たちの口元の笑みは凍りつき、
扇の陰でぎょっとした瞳が揺れた。
その場の空気は、たった一言で書き換えられていた。
◆
サフィアが中庭を横切ろうとした時だった。
姫は一歩も引かず、静かな声で問いかける。
「姫様…それが、あなたの国の流儀ですか?」
背筋をまっすぐに伸ばしたその姿を、
私は少し離れた場所から眺めていた。
(…へえ。正妃候補ってのは、
やられても黙って飲み込むもんじゃないんだな)
木陰にいた妃候補たちは息を呑み、
握った扇を硬直させている。
たったひと言で場を支配した姫の姿が、
胸の奥をざわつかせた。
(…私はあの頃、
ただ黙って耐えるしかなかったのに)
その記憶が、嫌でもよみがえる。
――私が王宮に来たばかりの頃。
「愛人枠」なんて立場、
後宮では異物みたいなものだった。
廊下でわざとぶつかられ、飲み物をこぼされ、
侍女たちに背中で囁かれた。
「武官ふぜいが殿下の寵愛?」
「どれくらいもつかしらね」
あの時は、怒りよりも、
殿下に恥をかかせたくない気持ちが先に立った。
全部を笑って受け流し、
傷一つ残さなかった――少なくとも表向きは。
(あの姫は…ああやって返すんだな)
胸の奥が、ほんの少しざわつく。
◆
中庭に残ったのは、張り詰めた沈黙だけだった。
背中が完全に見えなくなったころ、
リサがそっと寄る。
「姫様…お加減は大丈夫ですか?」
濡れた肩口を見やりながら、少し眉を寄せる。
「大丈夫よ。びっくりしただけだから」
微笑みながら言葉を返す。
(…こんなしょうもない嫌がらせ、
これから受け続けるなんてごめんだわ)
視線がゆるやかに周囲を巡る――その瞬間、
空気がぴしりと軋んだ気がした。
笑みを崩さず、睨んでもいない。けれど、
目が合った瞬間、胸の奥底を掴まれるような寒気。
妃候補たちの指先が思わず扇を強く握り、
囁き声は途切れた。
リサは安堵とも緊張ともつかない息をつき、
セレナはゆるやかに立ち上がった。
濡れた裾を整えながら、柔らかく告げる。
「リサ…悪いけれど、服が汚れてしまったわ。
着替えたいの」
リサはすぐに頷き、籠を手にセレナの後ろにつく。
中庭を離れる二人の背を、
数人の妃候補たちが無言で見送っていた。
その視線には、明らかな警戒の色が滲んでいる。
先ほどまでの忍び笑いは跡形もない。
リサは歩きながら、小さく囁いた。
「…あの目を見たら、
もう表立って絡んでくる方はいないでしょうね」
セレナは笑みを浮かべたまま前を向く。
「そう?だったら、よかったわ」
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