第9話 兆(中編①)
アルシオンの影が回廊の奥へ
消えるまで、セレナは立ち止まっていた。
(…何だったの…)
夕陽の残り香と、硬い底の履物が
石床を打つ音が遠ざかっていく。
胸の奥に微かなざわめきが残る。
セレナは裾を整え、リサを連れて歩き出す。
その時――奥の扉が静かに開き、
濃紺の礼服を纏った長身の男が現れた。
ナヴァリス・エフェンディ。
切れ長の眼差しが静かに射抜く。
低く響く声が落ちた。
「…姫様」
セレナは裾を持ち、礼をした。
「ごきげんよう、エフェンディ様」
リサも深く頭を垂れる。
ナヴァリスは視線を定めた。
「直訴の件――侍女を庇われた勇気、
後宮で噂になっております」
セレナはわずかに首を傾ける。
「…そうなのですか」
全く意に介さぬ様子に、
リサは口元をそっと緩めた。
ナヴァリスは一拍置き、呟く。
「…ご存じないと?広まっておりますのに」
(困ったわね。目立つつもりなんて…)
視線を伏せ、胸の奥で息をつく。
(皆がもっと後宮に心を向けてくれれば…)
ナヴァリスの瞳が細められる。
(評判を武器にする女かと思えば――)
淡々と声が落ちる。
「行動は評判を伴うもの。
後宮とはそういう場。
均衡を乱す一手も、時に正す力となる」
(なんだか、学校で悪ふざけして
目立った時みたいな気分…)
静寂の中、セレナは瞬きをした。
ふと顔を上げ、光が宿る。
「…ナヴァリス様」
柔らかながら、選んだ声で問う。
「今の後宮では――“務め”を
誰が担っているのですか?」
「…務め、ですか」
低い声が回廊に漂う。
「侍女は衣を整え、側室は式に出座し、
女官長は規律を唱える。
形ばかりの務めならあります。
ですが実際に機能させる者はおりません」
セレナはぱっと顔を上げた。
「――後宮の者たちで業務を
分担してみてはいかがでしょうか?
侍女も、側室も、女官も、みんなで」
(学校の委員会みたいにしたら…)
ナヴァリスは唇を結んだまま固まる。
(正妃の務めまで全員参加だと?)
リサが目を丸くして息を呑む。
「セ、セレナ様…正妃のお務めまで…?」
ナヴァリスは瞼を細めた。
「随分と斬新なお考えですな。
“全員で分担する後宮”とは」
セレナは迷わず重ねる。
「引き継ぎや指導を繰り返せば、
誰もが順に参加できます。
それなら後宮はもっと活気づきます」
「…業務を“輪”として繋ぐ、か」
ナヴァリスの声が低く零れた。
「だが人は安楽を手放さない。
側室も侍女も“格下げ”と受け取る。
必ず抵抗が生まれます」
鋭い視線が射抜く。
「姫様…それを承知でなお、提案なさるのですか?」
「はい…」
声音は静かだが、奥に熱が宿る。
(このままでは後宮はお荷物。
いずれ困るのは私達自身…)
「…強い言葉ですな」
ナヴァリスは衣の裾を叩いた。
リサは小さく目を輝かせる。
「覚悟とは、誰かに嫌われても退かぬこと。
後宮を揺さぶるなら、それを背負うことです」
セレナは小さく肩をすくめた。
「…でも、誰かが動かなければ
何も変わらないでしょう?
生憎、私は図太いので。ご心配なく」
胸奥に過去がよぎる。
――教室の隅で指をさされ、不気味と囁かれた日々。
(嫌われ役は慣れないけれど…
この案はみんなのためになるはず)
リサが不安げに見上げた。
瞳が「大丈夫ですか」と問いかける。
ナヴァリスは光を宿した瞳で呟く。
「…図太い、ですか」
低く繰り返す声に、興味が混じる。
「怯えず、嫌われることを選ぶ――
それは脆さではなく、強さでしょう」
衣の裾を軽く叩きながら告げる。
「強さを示せば示すほど、
群れの外に置かれる。
孤独に耐えられるなら、進むがいい」
口元に影のような笑みが浮かぶ。
「私は後宮監として、
その孤独がどれほどあなたを削るか…
傍らで観察させてもらいましょう」
夕陽が石壁を染め、
切れ長の瞳にセレナの姿を映す。
冷徹さの奥に、試すような愉悦が潜んでいた。
◆
訓練場脇の回廊。
石壁に背を預けたカリムが言った。
「…聞いたぞ、昨日のこと。
レイラ様に啖呵切ったそうだな」
サフィアの足が止まる。
「…侍女経由で、もう広まってるんだな」
「広まるに決まってる。
後宮は兵舎と違う、口ばっかりの戦場だ」
灰色の瞳が細められる。
「お前が“殿下の隣に立つ”なんて
言ったと噂されてる」
サフィアは唇を結び、視線を逸らす。
「私は…ただ、殿下を守りたいだけだ」
「それは俺が一番知ってる。だがな――」
カリムは一歩近づき、低く言う。
「“守る”と“妃の座を望む”は別だ。
線を踏み越えれば、殿下を困らせる」
サフィアの拳が震えた。
「…困らせるつもりなんかない」
「なら気をつけろ。
名誉を守りたいなら、お前自身が
火種になっちゃならん」
胸の奥に突き刺さる言葉。
サフィアは言い返せず、剣の柄を握る。
カリムは深く息を吐いた。
「…止めたいんじゃない。泣かせたくないだけだ」
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