第8話 矜持(後編)
石造りの執務室はひっそりと静まり返っていた。
長机には軍務の記録板が積まれ、
油灯の炎が青い瞳を淡く照らす。
アルシオンは報告文に目を走らせていたが、
控えめなノックに視線を上げた。
「…入れ」
アルシオンの眉がわずかに動き、
机上の手が拳を握りしめる。
沈黙の中で、拳の音だけが鋭く響いた。
「…で、処理は」
「侍女は保護し別棟に隔離。
サーヒ様は戒告、一定期間の行事制限。
女官長は監督不行き届きとして注意。
妥当な処分でしょうな」
「妥当、だと?」
アルシオンの声が低く落ちる。
だが宰相は怯まず、皮肉げに肩をすくめた。
「派閥の均衡を崩さず、体裁を整えた――
その意味では」
「…王妃の庇護下であれば、
暴力も見逃されると?」
「見逃されたのは暴力ではなく――
その背後の地位でございます」
重い沈黙。
やがてアルシオンは息を吐き、拳をほどいた。
「…セレナは、どう動いた?」
「直訴の場に同席し、退きませんでした。
“侍女を守ることこそ秩序”と言い切った姿は、
後宮の女たちに鮮烈に映ったはず」
宰相は口角だけを上げ、
灰色の瞳は冷たさを保っていた。
「皮肉なものです。
何も持たず後宮へ入りながら、
今や最も確かな『評判』を手にしつつある」
アルシオンの青い瞳が細まり、
机の縁を静かに叩く。
言葉はなく、ただ冷え切った空気が
室内を支配していった。
◆
執務室に残された静けさの中、
書簡を手に取っても視界に定まらない。
ラシードの報告は、鋭く胸を突き刺したままだ。
(セレナは…あの後宮で、妙な存在感を放った)
弱き者を守り、秩序を問いただす。
普通なら誰も踏み込まぬ領域に、
迷いなく足を入れていた。
軽率なのか、
それとも確固とした意志によるのか―― 判じかねる。
ただ、その一挙一動が、
空洞と化した後宮にざわめきを呼び戻していた。
眉をひそめる。
だが胸の奥で疼くのは、別の想い。
(…俺が隣に望むのは、サフィアだ)
たとえ後宮が荒れ果てても、
彼女が傍にあればそれでよかった。
血と汗を共にし、戦場で支え合った彼女にだけは、
決して嘘をつけない。
その確信があるからこそ、
ザリーナの政略を突っぱねてきたのだ。
――なのに。
ふと脳裏に浮かんでしまうのは、
退かぬ眼差しを見せたセレナの横顔。
その光景が、しつこく思い返される。
(なぜ俺は、あの時の彼女を忘れられない…?)
サフィアは誠実で、己のために身を投げ出す。
その眼差しはただ俺一人に注がれ、
揺るぎない支えとなる。
それ以上を望む理由など、
本来どこにもないはずだった。
それでも。
理性の奥に、セレナの影が消えずに残る。
振り払おうとしても、なお離れなかった。
◆
夕刻、軍営の裏庭。
木槍を磨いていた手を止め、
気配に振り向けば――青い瞳の人が立っていた。
「…殿下」
思わず背筋が伸びる。
だが彼は堅苦しい空気を振り払うように、
ふっと口元をゆるめた。
「お前に会いたかった」
唐突に投げられたその一言だけで、
胸が跳ね上がる。
(ずるい…そういうこと言うの)
「私も…ですけど」
耳まで赤くなりながら視線を逸らす。
それでも手首を取られ、
あっさりと距離を詰められた。
「槍より俺を見ろ」
「な、なんですかそれ!」
つい噴き出してしまう。
笑い声が混じると、肩の力も抜けていく。
アルシオンはそんな彼女の頬に手を添えた。
「正妃のこと…考えてくれているか」
真剣な問い。だがサフィアはもう、迷わなかった。
「はい。学ぶことも、身につけることも、
まだまだたくさんあります。
でも…私は殿下の隣に立ちたい」
言いながら、自分でも驚くほど素直だった。
「武官としてじゃなく、一人の女として。
ずっと一緒に」
青い瞳がわずかに潤み、
彼は強く抱き寄せる。
「…ありがとう。俺には、お前だけだ」
息苦しいほどの抱擁なのに、不思議と心地いい。
頬が彼の胸板に押しつけられて、声がくぐもる。
「ちょ、苦しいです…」
「我慢しろ」
「バカ殿下!」
堪えきれず二人して笑う。
さっきまでの重さなんて、
どこかへ吹き飛んでしまったみたいに。
「殿下、槍と私、どっちが大事です?」
わざと拗ねて聞いてみる。
彼は一瞬真剣に考え込んでから、にやりと答えた。
「…お前が槍を振るう姿が一番大事だな」
「なっ…!」
真っ赤になって拳で軽く彼の胸を叩く。
その仕草さえ愛おしそうに受け止められて、
さらに顔が熱くなる。
(…ずるい人。本当に)
夕暮れの光が二人を包み、
声にならない幸福が胸に溢れていた。
◆
灯火の影が長机に揺れる。
硯を片付けたばかりのナヴァリスの前に、
ラシードが入ってきた。
「随分と賑やかだったようですな、
今日の執務室は」
「姫様が直訴においでになった。侍女の件で」
「承知しています。殿下にもすでに報告しました」
宰相は机の前に立ち、くす、と笑む。
「驚きましたよ。あの年若い娘が、
あれほどの胆力を見せるとは」
「胆力、というより愚直さです。
秩序より情を優先すれば、後宮の均衡を乱す」
「ですが“秩序”とは何でしょう。
侍女を見捨てる秩序に、誰が従います?」
ナヴァリスは淡々と答える。
「見捨ててはおりません。保護し、
加害者を処分しました。
ただ、派閥を壊すわけにはいかない」
宰相は頬杖をつき、声を低める。
「皮肉なものですな。
処分の重さより“誰が守ったか”が広まる。
侍女たちの心に残るのは姫様の姿です」
沈黙。ナヴァリスの瞳がかすかに揺れる。
「評判は武器にも足枷にもなる」
「無論。しかし一歩踏み出した火は消せません。
殿下もそれを“利”と見ていますよ」
「…あなたは彼女を推すと?」
「推す? 私は流れを読むだけです。
沈む舟は放っておいても沈む」
ナヴァリスは吐息を落とす。
「あなたは本当に厄介だ」
「お褒めにあずかり光栄です」
宰相は立ち上がり、去り際に囁いた。
「忘れぬことですな。姫様は愚直に見えて、
己を嫌わぬ選択を必ずする。
ああいう者こそ、予想外の場で均衡を破る」
灯火が揺れる。
残されたナヴァリスは眉間に手を当て、
沈静を旨とする胸奥に、
消えぬざわめきを覚えていた。
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