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第8話 矜持(中編)


後宮の奥、人気のない洗濯場。

水桶に布を沈めていた侍女が、物音に気づき

肩を跳ねさせた。


セレナはゆっくりと歩み寄り、その前に立つ。

「こんにちは。昼間、あなたに会ったわよね」


侍女は視線を泳がせ、

「は、はい」と小さく返す。


「腕のあざ――あれ、仕事中にぶつけたのよね?

なのに、まだ働いているの?休まないと」


侍女は慌てて水面に視線を落とし、

布をすすいだ。濡れた袖口から、紫の痕がのぞく。

唇が引き結ばれ、袖の奥で指先がぎゅっと握られた。


横で様子を見ていた侍女リサが、眉をひそめる。

「セレナ様、この色…転んだだけには見えません」


セレナはうなずき、声を落とした。

「勤務中の怪我なのに働かせるなんて…

後宮にとって由々しきことだわ」


そっと手を差し伸べる。

「さあ、一緒にいらっしゃい。

後宮監に話を通して休ませてもらわないと」


侍女は一瞬だけその手を見たが、首を振った。

「…お気持ちは嬉しいのですが、

本当に…大丈夫ですから」


リサがすかさず一歩踏み出す。

「無理をすれば、もっと悪くなります。

私も同行しますから」


その言葉に侍女はわずかに視線を揺らし、

袖口を握りしめた。


セレナの胸の奥で、鋭いざわめきが広がる。

(…やはり何かを隠している)


「助けたいだけなの。さっき、

ふらついていたでしょう?―― 見過ごせないのよ」


侍女は短く息を呑み、視線を落とす。

「…本当に、助けてくださるんですか」


「誓うわ――あなたに悲しい思いはさせない」


セレナの言葉に、侍女の肩がわずかに震えた。

リサがそっとその背に手を添える。


警戒を抱えたまま、セレナは腕を支え歩き出す。

回廊を進みながら問いかけた。

「…その腕の傷、どうやってできたの?」


「…本当に、転んだだけです」


セレナは歩みを緩め、侍女の前に立って

そっと顔を覗き込んだ。


(…嘘ね。目がそう言っている)


「もし本当に転んだだけなら、

一時的な保護で終わるわ…それでもいい?」


「でも――違うのなら、私は必ずあなたを守る。

だから、ちゃんと教えて」


沈黙。石床に靴音だけが響いた。

リサの視線が、促すように侍女へと注がれる。


やがて、押し殺した声がこぼれた。

「…サーヒ様に…」


セレナの胸を、鋭い氷刃のような感覚が走った。

(サーヒ…正妃候補の一人…!)


「…話してくれて、ありがとう」


その瞬間、決意が音を立てて固まった。

「心配しないで。私が必ず守るから」


三人は息を合わせるように回廊へ踏み出した。

足音が石床に響き、後宮監の執務棟へ――

その歩みは真実を暴く決意を刻んでいた。



セレナは侍女を伴い、

後宮監の執務室の前に立った。

扉を叩くと、低く落ち着いた声が返る。

「入りなさい」


書き物机の奥にナヴァリス・エフェンディがいた。

端整な顔に浅い笑みを湛えた瞳が、

ゆっくりとこちらを向く。


「姫様…お忙しい身で、

わざわざ私のところへとは」


「後宮監。お忙しいところ申し訳ありません。

ですが――緊急事態です」


セレナは一歩踏み出し、隣の侍女を軽く促した。

袖が上がり、紫色の痣が油灯の下に浮かび上がる。


「こちらの侍女が、正妃候補サーヒ様から

暴行を受けたと証言しました。

直ちに保護し、サーヒ様への処置をお求めします」


ナヴァリスは短く息を吐き、

机上の文書を軽く叩いた。

「姫様…後宮の秩序は繊細です。

事実確認をせずに動けば、波紋が――」


セレナは切り込むように視線を投げた。

「そもそも秩序とは何ですか?

暴行を受けた侍女を見捨てることですか」


一瞬、彼の瞳から笑みが消えた。空気が沈む。


「…承知しました。まずは事情を聞きましょう。

姫様もご同席を」


小さな鐘が鳴り、宦官や書記官が入ってくる。

「この侍女を医務室へ。治療の後、

別棟の客間に隔離せよ」


侍女は振り返りながら連れられていく。

セレナはその背を見送った。


「女官長にも処分をお願いします」

セレナは静かに言葉を継いだ。

「侍女が怪我を訴えても、

あいまいに流したのです。監督不行き届きでしょう」


机上を指先で整える音だけが響く。


「…何か、問題がおありですか?」

セレナの声は穏やかだが、奥に圧が潜んでいた。


ナヴァリスは沈黙し、細い瞳で彼女を測る。

「姫様…あなたは“秩序”よりも

侍女一人をお選びになるのですね」


「…なぜ、そこまで重きを置かれるのです?」


切れ長の瞳が細められる。

「そもそも、姫様がそこまで身を削って

為される必要がございますか?」


セレナは目を閉じて胸の奥の記憶を呼び起こす。


――悪魔を通して人の悪を知った。

――悪魔祓いで人の意地汚さを知った。

――人を憎み、軽蔑もした。

――それでも神父たちは、黙って信念に従い

人を守り続けた。


胸の奥で小さな鐘が鳴る。長く浅い息が漏れる。


――鏡に映る自分を、軽蔑するのは…嫌だ。


ゆっくりと目を開き、まっすぐ答える。

「自分に…幻滅したくないからです」


数拍の沈黙。

ナヴァリスの唇がわずかに弧を描き、

笑みとも呼べぬ冷えた余韻だけを残す。


「…なるほど」


低く落ちる声には、同意でも否定でもなく、

ただ観察者の響きがあった。


「…承知しました。侍女は直ちに保護させましょう」


セレナはわずかに肩の力を抜き、息を吐いた。

「感謝いたします、ナヴァリス・エフェンディ様」


ナヴァリスは文書を滑らかに整えながら告げた。

「侍女は直轄下に置き、サーヒ様から遠ざけます。

サーヒ様には戒告、女官長には注意処分を」


セレナは胸の強張りが少し緩むのを感じた。

(…よかった、これで彼女の安全は確保される…)


だが同時に、冷たい小石が心の奥に沈んでいく。

(…これで、終わり?)


暴力をふるった者も、見て見ぬふりをした者も、

地位はそのまま。

(これが罰と呼べるの…?)


「処置は以上です。異動手続きは本日中に行います」


ナヴァリスは完璧な所作で文書を差し出す。

セレナは受け取り、静かに頷いた。

「…承知しました。ありがとうございます」


けれど、その瞳には曇りが差していた。

(これではまた同じことが繰り返されるのでは…?)


ナヴァリスは文書を閉じ、顔を上げた。

「…本来なら、

もっと厳しい処分も検討すべきですが、

サーヒ様はザリーナ王妃の庇護下にある方。

派閥間の均衡を崩すわけにはいきません」


(――やっぱり。マリシェが庇った理由、これね)


理解はできる。けれど納得はできない。


セレナは一度黙し、静かに告げた。

「後宮には、勤務中の怪我や病に対する

明確な救済制度はあるのですか?」


短い沈黙。

「…規定はございますが、

必ずしも徹底されてはおりません」


セレナは揺るがぬ眼差しで告げる。

「では、徹底してください。

後宮に仕える者が、怪我を恐れず働けるように」


沈黙ののち、低い声が落ちた。

「…承知しました」


セレナは深く一礼し、今度こそ部屋を後にした。

背後で、控えていた侍女たちの間に

微かなさざ波が広がるのを、

リサは聞き逃さなかった。



回廊に出た瞬間、リサが勢いよく身を寄せた。

「セレナ様!

今の、ほんっとうにかっこよかったです!」


声を抑えているつもりでも、

抑えきれない熱が弾けている。


「皆、見てましたよ!

セレナ様が侍女を守ってくれたって、

きっと後宮中に広まります!」


セレナは思わず足を止め、まばたきを二度三度。

「…そうなの?」


頬を引きつらせた苦笑を浮かべながら

歩みを再開する。

回廊の光がやけに眩しく見えた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます!

ブクマや感想を頂けると、とても励みになります_(._.)_


Twitter始めました!

裏話とか載せる予定ですのでよければ覗いてください

→@serena_narou

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― 新着の感想 ―
ルールはあるけど従いませーん!とか すでに秩序崩壊してるじゃん プライドと見栄ばっかり一丁前で中身が腐ってる
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