第8話 矜持(前編)
アルシオン王太子の正妃――
それは、次期王妃を意味する。
他にも王子はいるけれど、殿下が抜きん出て
優れていることは、国王も元老院も、そして民も
知っている。
飢饉の折には倉を開き、民を救ったと聞く。
隣国の侵略では、名将を相手にしながら前線で退けた
と噂されている。
その輝かしい経歴は国を越えて轟いていて、
太陽のように人々を照らし導く人――。
そんな方の正妃候補だと告げられたとき、
私でいいのだろうかと怯みながらも、胸の奥は確かに
ときめいた。
…では、王妃にふさわしいのは、どんな人だろう。
サフィア。殿下に一途に寄り添い続けるあの人なら、
国王となった殿下にとって何よりの支えになる。
孤独な玉座にあって、純粋な愛を注ぎ続けることが
できる人――きっと彼女だ。
けれど、それだけでいいのかな。
胸の奥に小さなざわめきが残り、
問いかけが消えない。
◆
後宮に暮らし始めて、もうしばらく経つ。
ほかの側室たちと馴れ合うことはないけれど、特に
争いごともなく――比較的、穏やかに過ごせていると
思う。
(べつにいいもんね。友達がいなくても、リサが
いるし)
最近、リサは少しずつ文字を読めるようになって
きた。
山岳地帯の出身だからか、特に植物の本を好んで手にしている。
散歩の途中でも、花や草を見ると立ち止まり、名前や
効能を教えてくれる。
私が本で読んでもいまいち実感が湧かないことも、
リサから聞くと不思議と頭にすっと入ってくる。
ちらりと横に立つリサを見やり、自然に口元が
ほころぶ。
リサも気づいたのか、小さく笑い返してきた。
(さて…
今日は本を閉じて、散歩でもしてみようかな)
そんな軽い気持ちで回廊を歩き出した、
その時――
回廊の角を曲がった先、壁際を伝うように歩く侍女の
姿が目に入った。
足取りが妙におぼつかない。
「…大丈夫?」
セレナが声をかけると、侍女はびくりと肩を揺らし、
慌てて振り向いた。
「な、なんでもありません」
俯いたままそう言うが、袖口の隙間から、不自然な
紫の痕がちらりと覗いた。
「それ…どうしたの」
指先で示すと、侍女は一瞬ためらってから、小さく
答えた。
「仕事中に…棚にぶつけて」
「仕事中の怪我なのに、休ませてもらえないの?」
口では穏やかに問いかけつつ、胸の奥ではすでに別の
答えを確信していた。
(この痕…誰かに殴られた跡よね…)
隣にいたリサが、抑えきれない様子で口を開く。
「そんな痣になるまでぶつけるなんて、
おかしいですよ!」
侍女は視線を落としたまま、さらに小さな声で
「本当に…なんでもないんです」と繰り返す。
「…女官長には報告したの?」
「…いえ、その…」
言葉を濁すと、侍女は一礼して、足早に立ち去って
しまった。
「姫様、絶対誰かにやられたんですよ!」
リサが声を潜めながらも、憤りを隠せない顔で言う。
セレナはその背を見送り、眉を寄せた。
(一体誰にやられたのかしら…)
小さく吐息を洩らし、足を止めてリサを振り返る。
「…女官長は何をしているのかしら」
「きっと、見て見ぬふりですよ」
リサは唇を噛み、声をさらに落とす。
「あの方、ザリーナ王妃の派閥ですから」
「ザリーナ王妃の?」セレナは眉を顰める。
(いくら後ろ盾があるからって、怪我人を放置する
なんて…)
「派閥がどうであれ、怪我人を放置するのは駄目で
しょう」
リサは「そうですね」と頷きながらも、不安げに目を
逸らした。
胸の奥に冷たいものが流れ込み、同時に小さな怒り
が膨らむ。
「――放ってはおけないわ」
「でも、姫様が動いたら…」
リサが不安げに視線を泳がせる。
「大丈夫。私一人の問題じゃないし、これは
後宮全体の問題よ」
セレナは踵を返し、女官長の執務室がある棟へと
向かい始めた。
歩みは散歩のときの軽さをすっかり失い、硬い石床を
叩く音が決意を刻む。
(まったく…誰がこんなひどいことを…さすがに
見過ごせられないわ)
リサが慌てて後を追いながら、小声で囁いた。
「…姫様、顔が怖いです」
「え、そう?」戸惑いながら微笑む。
(だめだめ…熱くなっては。平常心、平常心…)
◆
女官長マリシェの執務室前に着くと、扉の前で控えて
いた若い侍女が慌てて姿勢を正した。
「姫様…どういったご用件で?」
「女官長にお話があります」
ためらいのない返答に、侍女は戸惑いながらも中へ
声をかける。
「――入りなさい」
低く張った声が返り、扉が静かに開いた。
部屋の奥、整然と積まれた帳簿や報告書の間に、
マリシェは白磁のように冷ややかな顔で座していた。
感情を欠いた表情の奥に、硬質な光がわずかに
きらめく。
「姫様が、わざわざこちらに?」
「後宮内で怪我をした侍女を見かけました。
把握しておられるのですか?」
マリシェは視線をわずかに上げたが、すぐに書類へ
戻した。
「怪我は日常茶飯事です。転倒や不注意によるものも
多い」
「では、治療や休養は?」
「規則に従い、業務に支障が出ない限りは許可して
おりません」
セレナは、驚きの色をあえて大きく見せた。
「仕事中の怪我なのに、ですか?」
「後宮は大所帯です。一人休めば他が負担を負う。
軽傷であれば従事してもらうのが常です」
(…軽傷、ね)
昼間見た痣が脳裏に浮かぶ。あれが軽いはずがない。
「それは改めるべきです。あの様子では再発も――」
「姫様」
机越しに、ぴしゃりと落ちる声。
女官長の眉がわずかに動き、その瞳の奥に一瞬、
冷えた刃が光った。
「後宮の運営は私の職務です。お気持ちはありがたい
ですが…まずはご自分のお立場を」
硬い壁に正面からぶつかったような感覚。
背後でリサがそっと裾を握る。
(なるほどね…波風は避けたい、と。――それとも、
何か後ろめたいことでも?)
セレナはその冷たい視線を正面から受け止め、
一歩も退かなかった。
「…では、私が直接確認します」
「それは――」
机上の筆先が、筆立ての縁をコツ、と叩いた。
その小さな音が、沈黙に針を刺したように響く。
それでもセレナは間を割るように声を重ねた。
「女官長、これは職責を怠っているも同然です。
その責は逃れませんよ」
油の切れた歯車のように、空気が一瞬きしんだ。
マリシェの瞳の奥に宿った色は、怒りか、それとも
警戒か――読み取りづらい。
「…お言葉ですが、姫様」
声は低く、柔らかいが、絹に潜む針のような棘を
含んでいた。
「後宮の采配は私の務めにございます。姫様が口を
挟まれるのは…」
セレナは穏やかに、しかし一言ごとに力を込める。
「それに、後宮の秩序を保つのは私たちの務めでも
あります…そうでしょう?」
女官長の唇が硬く結ばれた。
その沈黙が、否定よりも重く響く。
部屋の隅で控えていたリサが、ごくりと喉を鳴らす音が、やけに大きく感じられた。
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