第6話 基盤(後編)
遠くで侍女たちの笑い声がして、
現実の空気が肌を刺すように戻ってきた。
午後の光が薄く差し込む自室。
窓辺の机には昨日の花瓶が
水の交換もされず置き去りにされ、
壁際の棚には埃がうっすら積もっていた。
化粧台の引き出しは半端に閉じられ、
床には繊細な刺繍糸が数本こぼれている。
(ああ…今の私そのものみたいね)
がっくりと肩を落とし、改めて周囲を見渡す。
(それにしても…最近はずっとこの有様が続いてる)
セレナは軽く息を吐き、机の花をそっと持ち上げた。
(別に毎日掃除しなくてもいいけれど…後宮の
侍女の仕事っぷりとしては、あまりにお粗末ね)
その横で、リサが申し訳なさそうに身を縮めていた。
「セレナ様…最近、こちらに回される侍女は
新人ばかりで…。言いつけも聞かず、掃除も半端で…」
小さな声には、悔しさと不安が混じっていた。
(…やっぱり、嫌がらせに仕向けられたのね。
侍女経由ということは、正妃候補の誰か…
一体私が何をしたというの)
セレナはがっくりと肩を落としつつも、
リサの顔を見て、わずかに微笑んだ。
「リサは十分に頑張ってくれているわ。
他の子たちの分までね」
リサの目が一瞬潤み、深く頭を下げる。
(リサにこれ以上負担をかけるわけにはいかない…
対策を考えないと)
その時、木扉の向こうから控えめな打音が響いた。
「後宮監、ナヴァリス・エフェンディでございます」
低く滑らかな声とともに、
黒髪の長官が静かに入室する。
切れ長の瞳を持つ端整な顔立ち。
濃紺の礼服を隙なく着こなし、
動作は一分の無駄もない。
だが、その柔らかな笑みの奥に冷ややかな計算を
隠しているようだった。
――後宮の人事と予算を一手に握る実質的な支配者。
(後宮監…ああ、女官長の上司にあたるのよね)
セレナの隣で、リサが小さく肩を震わせた。
「……っ」思わず袖口を指でつまみ、
声にならない息を呑む。
恐れと緊張が混ざった眼差しでセレナを見上げたが、
すぐに俯いて気配を消そうとした。
ナヴァリスの視線は花瓶から机、棚、床へと細かく
移り、わずかな乱れも見落とさないようだった。
セレナは呼吸を整え、静かに口を開いた。
「お目にかかれて光栄です、
ナヴァリス・エフェンディ様」
男の微笑はそのまま、しかし瞳の奥に興味の色が
灯った。
ナヴァリスは軽く顎を傾け、
背後の部屋をもう一度観察するように視線を送る。
「…どうやら、
姫様の周囲は少し、気の緩みが見られるようですね」
声音は穏やかだが、含むものは鋭い。
一歩近づき、淡々と続けた。
「後宮は『住まい』であると同時に、
王家の威信を示す場。
乱れは、たとえ小さくとも外に漏れれば、
姫様のお立場に直結いたします」
「ですので――
本日付で、ここの侍女の半数を入れ替えます」
懐から細長い帳面を取り出し、
さらさらと筆を走らせる。
「新しい者は訓練を受けた侍女です。
掃除も、衣の手入れも、礼儀も、より厳しく
整えられるでしょう」
セレナはその声の奥に潜む圧を感じながら、
短く瞬きをした。
(仕事が早くてありがたい…!)
(だけど…これでは表面を取り繕うだけのような…
もっと中から変えていかないといけないのでは…?)
唇を結び、ほんの一瞬思案するように目を伏せてから
口を開いた。
「ひとつ提案なのですが――
新人と経験豊富な侍女を二人一組にして、
互いの作業を確認させてみてはいかがでしょうか。
教育と監督を同時に行えるように」
(そうよね、アルバイトの仕事だってこうやって
覚えさせてたはず)
すぐそばで控えていたリサは、
思わず胸元を握りしめて固まった。
(せ、セレナ様…後宮監に提案だなんて…)
けれど堂々と口を開く主の横顔を見て、
胸の奥に小さな熱が宿る。
ナヴァリスの眉がわずかに動く。
「人を増やす必要もありませんし、
怠慢も減るはずです。
…ですから、
私の部屋の侍女はそのままで十分かと存じます」
数秒の沈黙の後、
ナヴァリスの口元に浅い笑みが浮かぶ。
「…なるほど。費用も増やさず効率も上がる。
すぐに試してみましょう」
再び視線を戻すと、
ナヴァリスは礼をして静かに退室した。
(…え、そんな簡単に承諾するの?)
(思いつきで言っただけなのに…ずいぶん
フットワーク軽い人ね)
セレナはその背を見送りながら、ふと思った。
(…どうして“私に”わざわざ会いに来たのかしら)
その隣でリサがぱっと顔を輝かせ、小声で囁いた。
「さすがセレナ様……!」
セレナは思わず目を瞬き、リサの表情を見て驚く。
けれど次の瞬間、つられるように口元がほころび、
静かに笑みを返した。
◆
回廊を進みながら、
ナヴァリスは無言のまま歩調を崩さない。
(…あの姫は、
ただのお飾りでは終わらないかもしれない。
軽口で出した案に即答できる者などそうそういない。
さて、育て甲斐があるのか、それとも摘むべき芽か)
唇の端をわずかに上げたその時、
前方の柱影から長身の男が姿を現した。
「これは、後宮監殿。
珍しく姫様のお部屋からの帰り道ですかな」
軽やかな声音、
灰色の瞳に穏やかな光を宿しながらも、
奥底に探る色を隠さない。宰相ラシードである。
ナヴァリスは一礼し、歩調を緩めず答えた。
「宰相殿こそ、こんな静かな時刻に回廊を散策とは。
政務の合間に涼を取られて?」
「ええ、暑さは人の理性を鈍らせますからね。
頭を冷やすのも仕事のうちですよ」
ラシードの口元に浅い笑みが浮かぶ。
「ところで…
ルナワの姫様のお部屋を見に行かれたとか。
どのように映りましたかな?」
ナヴァリスは視線を前に向けたまま、
静かに言葉を返す。
「観察の結果として――
あの方は、与えられたものをただ受け取るだけの姫君
ではなさそうでした。即興の一策で怠慢を抑えようと
した。…それだけで十分に値打ちはある」
「ほう」
ラシードの灰色の瞳がきらりと細められる。
「殿下がお気に召しているご様子の武官殿とは、
まるで正反対ですな。
正妃の座はすでに決まったようなもの――ですが、
異国の姫はただ朽ちる石ではない。
飾りで終わらず、盤面を少しは揺らしてくれる。
…その行く末を眺めている分には、実に面白い」
ナヴァリスは目を伏せ、吐息のように笑った。
「面白い、で済む間は良いのですが。
私の務めは、後宮を“機能”させること。
そのために使える者は使う。
摘むべき芽があれば摘む。ただそれだけです」
「相変わらず情のない言いようですな」
ラシードは肩を竦め、皮肉を隠さぬ声を漏らした。
「もっとも――その冷徹さが、
宮廷を保つ柱でもある。
私の役目は…そうですね、盤面を見物しながら、
時に駒を一つ二つ動かす程度」
二人の足音が石畳に並び、長い影を重ねる。
ナヴァリスはふと足を止め、横目で宰相を見た。
「…宰相殿。殿下の“盲目”ぶりを、
あなたはどこまで容認なさるおつもりです?」
ラシードは浅く笑みを刻み、空を見上げた。
「盲目であろうと、歩みが真っ直ぐなら
それもまた道。
…ただし、転べば拾う者が必要でしょう。
私がその役なら、十分に愉快ですよ」
ナヴァリスの目が細くなる。
「愉快で済めば良いのですが」
ラシードは肩を竦め、皮肉を隠さずに返した。
「まぁ、火消役はいつも私。あなたは火種を摘む係。
お互い、愉快とは言い難い務めを
楽しんでいるものですね」
ナヴァリスはわずかに唇の端を上げ、
答えず歩を進める。
二人の足音が石畳に並び、長い影を重ねた。
その様子を、柱の陰からひとりの女が見ていた。
濃紺の長衣をまとい、黒曜石のような瞳を細める。
サーヒだった。
視線はほんの一瞬、
セレナの部屋付きの侍女のひとりをかすめる。
(…せっかく崩してやったのに、
もう立て直される気配?)
胸の奥に小さな焦げつくような苛立ちが走り、
彼女の唇から乾いた舌打ちが零れた。
裾を払って背を向けると、
足音だけが石床に冷たく残った。
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