第5話 鏡(後編)
「…私たちは同じ後宮に住む者です。
陛下や王宮のためにも、
品位を保たなければなりません」
セレナは裾を整え、澄んだ声を続けた。
「姫様方は、今のご自身の振る舞いを――
品位あるものとお考えですか?」
アシェラの唇が固く結ばれ、
レイラは顔を背けた。
取り巻きは息を詰め、
互いに視線を交わすばかり。
セレナはふっと笑い、声を和らげた。
「それに…姫様方には、
そのような笑みは似合いませんよ。
いつもの談話での笑顔のほうが、
ずっと魅力的です」
一瞬の沈黙。
アシェラの頬が赤みを帯び、
レイラは返す言葉を失った。
◆
サフィアは黙ったまま、セレナの横顔を見た。
(…やっぱり、この人は…ただの姫じゃない)
他の妃候補たちは顔を見合わせ、
小さく息を漏らす。
柳の葉の下、棘立った空気が
わずかに緩んでいく。
アナヒータは扇を下ろし、唇の端を上げる。
(柔らかく斬る…これは、なかなか侮れない)
中庭には、気まずさと敬意の入り混じった
静けさが広がる。
セレナは腰を上げ、裾を整えて立ち去ろうとした。
すれ違いざま、吐息ほどの声で呟く。
「…皆、鏡は見ないのかしら」
ほとんど風に紛れて消えたその言葉を、
すぐそばにいたサフィアだけが拾った。
「…え?」
思わず小さく漏れた声は、
驚きと戸惑いを帯びていた。
琥珀の瞳が揺れ、セレナの背を追う。
セレナは振り返らず、
柳の影から光の方へ歩み去っていった。
◆
回廊の陰から、ラシードは
香炉の周りで繰り広げられた一幕を眺めていた。
妃候補たちの嘲弄を断ち切ったのは、
後宮に入って日も浅い異国の姫――セレナ。
「彼女は私たちを守る武官です。
上に立つ者として、敬意を払うべきでは?」
ラシードの口元に皮肉めいた笑みが浮かぶ。
(ふむ…あの年で、あの切り返し。
柔らかさに見せかけて、しっかりと刺すとは)
怯まず問いを返し、
最後には笑みで和らげる。
場は凍りつき、誰も言い返せなかった。
(ただの飾り姫では終わらん。
本人が望まずとも周囲が放っておかんだろう)
眼差しは淡々としていたが、
心の奥には警戒と興味がないまぜだった。
アルシオンがサフィアを選ぶ意思は知っている。
だが、セレナという駒は黙って朽ちる石ではない。
(ただの飾り駒に見えても、
盤上に置かれた以上、摘む対象にはなる。
――さて、摘む役目は誰が担うか)
袖で口元を覆い、
目元だけが愉しげに笑った。
◆
玉座の間へ向かう回廊。
アルシオンは文書を片手に歩いていた。
背後から控えめな足音。
振り返ると、
穏やかな笑みを浮かべたラシードが並ぶ。
「殿下。ひとつ面白い場面を拝見しましたので、
ご報告を」
「…また皮肉か?」
「皮肉どころか。中庭で妃候補たちが
サフィア殿をからかっておりました。
そこへ現れたのがルナワの姫君。
堂々と割って入り、
武官に敬意を払えと説いたのです。
さらに品位を問い直し、
最後には笑みで場を和ませた」
アルシオンは足を止めた。
「…セレナが?」
「ええ。あれでは、ただの飾りには収まりませんな」
ラシードは一礼し、歩み去る。
残されたアルシオンは黙したまま立ち尽くす。
(…あの目を初めて見た時から思っていた。
流されて泣くだけの姫ではない。
場を変える力を持っている)
文書の端を無意識に強く握る。
(だが俺が求めるのは、ただ一人――サフィアだ。
たとえどんな姫が現れようと、
その答えは揺らがない)
心のざわめきを押し込み、再び歩を進めた。
◆
(…皆、鏡は見ないのかしら)
セレナの言葉が耳に残り、
サフィアの胸をざわつかせていた。
あれはどういう意味だったのか。
ただの皮肉か、それとも――
自分の姿を見直せということなのか。
考えれば考えるほど、胸の奥に鋭い棘が残る。
回廊の夕影を抜け、訓練場近くの渡り廊下。
カリムは壁にもたれ、腕を組んだまま
歩いてくるサフィアを見て声をかけた。
「…今日、なんかあっただろ」
足を止めたサフィアが眉をひそめる。
「なんでわかる」
「お前の顔は昔から隠し事に向いてねぇ。
剣より真っ直ぐ出る」
カリムは片眉を上げ、
からかうように言う。
サフィアは小さくため息をつき、
視線を逸らした。
「…ちょっと、嫌な言葉を耳にしただけ。
別に、大したことじゃない」
「大したことじゃない顔か?」
カリムの声音が低くなる。
サフィアは口ごもり、やがてぽつりと漏らした。
「…あんなふうに言われるのは、仕方ないんだ。
全部そのとおりだから。
だから聞いて…黙るしかできなかった」
「慣れる必要なんざねぇよ。お前はお前だ」
「でも、後宮はそうはいかない」
サフィアはかすかに笑みを浮かべたが、
その声は弱かった。
カリムはしばし黙し、真っ直ぐな声で言う。
「…戦場じゃ剣一本で済む。
強さがすべてだ。
だが後宮は違う。
言葉も噂も立場も、全部が刃になる。
剣を振るえても、
そっちで斬られたら終わりだ」
サフィアの目が揺れる。
「…だから怖い。けど、殿下の隣に立ちたい。
逃げない」
カリムは鼻で笑い、肩を竦めた。
「昔からそうだな。無茶して、泣いて、
それでも立ってきた。
だからお前は生き残ってきたんだ」
少し間を置いて、真剣な目を向ける。
「いいか、サフィア。後宮はお前の土俵じゃない。
けど――殿下の隣に立つってんなら、
剣だけじゃなく言葉の盾も覚えろ。
俺が横で見てる。だから、倒れても立ち上がれ」
サフィアは俯きながら、ぎゅっと拳を握る。
胸の奥に疼く悔しさを、決意に変えるように。
(正妃になるなんて望んでない。
そんな資格はない。ただの武官に過ぎない)
それでも――。
(それでも隣にいたい。笑っていてほしい。
守れるのは私でありたい)
ほんのわずかに胸の奥がざわついた。
(…でも、黙って耐えるだけでいいのだろうか)
夜風が吹き抜ける渡り廊下で、
彼女は小さく息を吸い込んだ。
薄明の光が、涙をこらえて上げた横顔を
静かに照らしていた。
◆
中庭を抜け、回廊の影に入ったところで、
リサが小走りでセレナの横に並んだ。
「…セレナ様、今のお言葉…
すごく、胸に響きました」
息を整えながらも、瞳の奥は
驚きと興奮に揺れている。
セレナは軽く肩をすくめ、
歩みを緩めずに答えた。
「私が言うべき事でもなかったような…」
(サフィアはもしかしたら正妃になるかもしれない…
あの場は自分で収めさせるべきだったかな…)
リサは一瞬だけ目を丸くし、
それから視線を前に戻した。
ゆっくりと吐いた息が、
夕刻の空気に溶けていく。
「…でも、あの場はセレナ様でなければ、
誰も言えなかったと思います」
セレナは何も返さず、
ただ橙の光の中を歩き続けた。
回廊の曲がり角を曲がった瞬間、足が止まる。
夕陽を背にした影――
アルシオンが、そこに立っていた。
「…セレナか…」
間を置かずに、低く抑えた声が続く。
「さっきの中庭でのことだ。
お前があの場を収めたと聞いた」
夕陽の光が彼の瞳を深く染め、
真意を探るように射抜いてくる。
「あれは――仲裁するためだったのか」
「…それは」
セレナは唇をわずかに開きかけた。
だがその時、柱影から足音が近づく。
サフィアが視界に入り、立ち止まった。
アルシオンは一瞬、セレナを見据えたまま目を細め、
それから小さく片手を上げて合図のように示した。
視線を外し、わざと軽く息を吐いて――
「また後で話そう」と言外に伝える。
そして歩みをサフィアの方へと移した。
回廊に残されたセレナは、静かに呟いた。
「…違いますよ。自分の為です」
ここまで読んでくださり、ありがとうございます!
ブクマや感想を頂けると、とても励みになります_(._.)_
Twitter始めました!
裏話とか載せる予定ですのでよければ覗いてください
→@serena_narou