第9話:ミストラルの熱
第9話:ミストラルの熱
国王からの、突然の召集命令。そして、あの、氷の騎士団長による、これまた、迷惑千万な、護衛の申し出。
二つの、全く、予期していなかった出来事に、リリアーナの心は、まるで、嵐の中の小舟のように、激しく、揺れていた。
あの、忌々しい、過去の記憶が、渦巻く王都へ、戻らなければならないという、重い、重い、憂鬱。
そして、あの、無礼で、傲慢で、しかし、なぜか、時々、ほんの少しだけ、気になってしまう、鉄仮面騎士団長の、不可解な行動への、苛立ちと、戸惑い。
その、二つの感情が、ない交ぜになり、彼女の機嫌は、ここ数日の間、ずっと、大嵐の前の、不穏な空模様のように、低空飛行を、続けていた。
「どうして、わたくしが! あの、失礼千万な、鉄仮面男の、世話にならなければ、ならないのよ!」
王都への、出発の準備を、進めながら、リリアーナは、忠実な老執事、セバスチャン相手に、もう、何度目かも、わからない、不満を、ぶちまけていた。
彼女の中では、ゼオン・ライアスは、未だに、「無礼で、傲慢で、人の心を持たない、鉄の塊」であり、その、彼に、道中の、大事な安全を、委ねるなど、彼女の、天よりも高い、プライドが、断じて、許さなかったのだ。
しかし、そんな、彼女の、憂鬱な気分とは、全く、裏腹に。
ミストラル領は、かつてないほどの、熱気と、活気に、満ち溢れていた。
水路建設は、領民たちの、驚くべき、団結力によって、着実に、その、歩みを、進めている。
そして、もう一つの、希望の光である、「ルビードロップ」は、二度目の、収穫期を迎え、リリアーナの、実験農場だけでなく、領民たちが、自主的に、開墾した、小さな、小さな畑にも、ルビーのように、赤く、輝く実を、たわわに、実らせていた。
その日、リリアーナは、王都への出発を、数日後に控え、収穫した、ルビードロップの、加工品の、試作に、追われていた。
厳しい、長い冬を越すための、ただの、保存食としてだけではなく。
これを、ミストラルの、誇るべき特産品として、外部の世界に、売り出すことは、できないか。彼女は、そう、考えていたのだ。
館の、古びた厨房は、甘酸っぱく、そして、食欲をそそる、芳醇な香りで、満たされていた。大きな、大きな鍋では、真っ赤なソースが、ことことと、音を立てて、煮詰められ、別の場所では、太陽の光で、乾燥させるための、ドライトマトが、ずらりと、木の板に、並べられている。
「ひ、姫様! この、ジャム……! と、とんでもなく、美味しいです!」
味見役を、命じられた、侍女のアンナが、その、大きな瞳を、キラキラと、輝かせて、叫んだ。焼きたての、硬いパンに、たっぷりと塗られた、ルビー色のジャムは、濃厚な、凝縮された甘さと、後から、追いかけてくる、爽やかな酸味が、絶妙な、奇跡のバランスで、成り立っており、一度、食べたら、忘れられない、衝撃的な味だった。
「おおっ! ソースも、すげえぞ! ただ、焼いただけの、硬い肉にかけるだけで、いつもの、何倍も、美味くなるじゃねえか!」
水路建設の、休憩に、戻ってきた、男たちも、試食の輪に、加わり、口々に、感嘆の声を、上げる。
彼らの、その、子供のような、喜びように、リリアーナも、満更では、ない気持ちだった。
「ふん、当たり前でしょ。この、わたくしが、考えに、考え抜いた、最高のレシピですもの」
口では、いつものように、ツンと、澄まして、そう言いながらも、その、表情は、どこまでも、柔らかく、目元には、確かな、満足感が、滲んでいた。
そんな、賑やかな厨房の、片隅で。
セバスチャンが、リリアーナに、ある、提案をした。
「姫様。これほど、見事な品々でございます。王都へのお土産として、お持ちになっては、いかがでございましょうか。国王陛下や、公爵様にも、姫様の、この、ミストラルでの、ご尽力の、素晴らしい成果を、実際に、味わっていただくのです」
「お土産……?」
リリアーナは、その言葉に、少し、考え込んだ。
確かに、百の、立派な言葉を尽くすよりも、この、ルビードロップの加工品を、たった、一口、食べてもらう方が、彼女の、ここでの成果を、何よりも、雄弁に、物語るだろう。
父に、そして、あの、全てを見透かすような、国王に。
自分が、辺境で、ただ、泣き暮らしていたわけでは、ないと、はっきりと、示すことが、できる。
「……そうね。悪くない考えだわ。セバス、見栄えのいい、綺麗な瓶と、箱を、用意させてちょうだい。最高の出来のものを、厳選して、詰めて、持っていくわ」
その時だった。
まるで、運命の、悪戯のように、一人の、薄汚れた、行商人が、ミストラル領を、訪れていた。彼は、王都と、北の街とを、行き来する、数少ない、商人だったが、この、ミストラル領に、立ち寄るのは、ほんの、気まぐれに過ぎなかった。この、貧しく、そして、何も、生み出さない土地に、売れるものも、買えるものも、何一つ、ないと、知っていたからだ。
しかし、館の方から、漂ってくる、今まで、一度も、嗅いだことのない、芳醇で、甘酸っぱい香りに、誘われ、彼は、恐る恐る、その、古びた館の門を、叩いた。
そこで、彼が、目にしたのは、活気に、満ち満ちた厨房と、見たこともない、美しい、赤い加工品の、数々だった。
「こ、これは……一体、全体、何でございますか……?」
行商人は、試食させてもらった、ルビードロップのソースの、その、衝撃的な味に、文字通り、打ちのめされた。こんなに、濃厚で、複雑で、そして、深い味わいのソースは、王都の、どんな、高級レストランでも、お目にかかったことが、ない。
「も、もし、もしよろしければ! この、素晴らしい品を、いくつか、この私に、売っていただけませんでしょうか!?」
行商人は、リリアーナの前に、半ば、ひれ伏すかのようにして、必死で、懇願した。彼の、長年の、商人の勘が、この、赤いソースが、とてつもない、商品価値を、秘めていると、大声で、告げていたのだ。
「王都の、舌の肥えた、美食家の旦那様方なら、きっと、大枚を、はたいてでも、欲しがるはずでございます! この、わたくしが、必ずや、高値で、売りさばいて、ごらんにいれます!」
その、熱烈な申し出は、リリアーナにとって、まさに、渡りに船だった。
自分たちが、丹精込めて作ったものが、外部の世界で、どれほどの、価値を、持つのか。それを、試す、絶好の、機会だ。
「……いいでしょう。ただし、これは、まだ、試作品よ。だから、代金は、いらないわ。その代わり、王都での、評判を、詳しく、詳しく、わたくしに、報告すること。それが、あなたへの、報酬よ」
リリアーナは、いくつかの、ソースと、ジャムの瓶を、丁寧に、梱包させ、その、目を輝かせる、行商人に、託した。
行商人は、千載一遇の、この、好機に、何度も、何度も、頭を下げて、感謝し、ミストラル領を、後にした。
彼の、みすぼらしい荷馬車に、積まれた、その、小さな、小さな木箱が、この、貧しい、辺境の地に、大きな、大きな、変革の風を、呼び込むことに、なるとは、この時の、まだ、誰も、知る由もなかった。
数日後。
リリアーナの、王都への、出発の日が、来た。
彼女が、館の前に、出ると、そこには、セバスチャンと、彼女が乗る、馬車の他に、黒い、鋼の鎧に、身を包んだ、十数名の騎士たちが、馬上で、まるで、石像のように、整然と、列をなしていた。その、中心には、もちろん、あの、忌々しい、氷の騎士団長、ゼオン・ライアスの姿が、あった。
リリアーナは、わざと、彼を、完全に、無視するようにして、見送りに来てくれた、領民たちに、向き直った。
「みんな、わたくしがいない間、水路の建設と、ルビードロップの世話を、しっかりと、頼んだわよ。トーマスと、セバスの言うことを、ちゃんと、聞くのよ。怠けていたら、帰ってきてから、承知しないんだからね!」
「姫様、どうか、お気をつけて!」
「王都の、偉そうな奴らに、俺たちの姫様が、どれだけ、すごいお方か、見せつけて、やってくだせえよ!」
領民たちの、温かい、心のこもった声援に、リリアーナの胸が、熱くなる。
ここが、今や、彼女の、帰るべき、大切な場所なのだと、改めて、実感した。
彼女が、馬車に、乗り込もうとした時、ゼオンが、音もなく、馬を寄せ、馬上から、彼女を、見下ろした。
「準備は、いいか、ヴァインベルク嬢」
「……あなたに、いちいち、言われなくても、とっくの昔に、できているわ」
リリアーナは、ぷいと、可愛らしく、顔を背ける。
「道中は、俺の指示に、必ず、従ってもらう。勝手な行動は、慎め。お前一人の、問題では、ないのだからな」
「はいはい、わーっておりますわよ、騎士団長殿。ご親切に、どうも」
彼女の返事は、棘を、たっぷりと含んだ、投げやりなものだった。
ゼオンは、そんな、彼女の、猫のような態度に、鉄仮面の下で、誰にも気づかれないように、小さく、小さく、ため息をつくと、前方に向かって、力強く、号令を、かけた。
「――出発する!」
騎士団に、厳重に、護衛された、リリアーナの馬車は、領民たちの、温かい見送りを受けながら、ゆっくりと、王都へと続く、長い、長い、道を進み始めた。
一方、その頃。
王都、ヴァレンティスでは、小さな、しかし、熱狂的な、熱が、生まれつつあった。
ミストラルから、戻った行商人が、持ち込んだ、「ルビードロップのソース」は、彼が、懇意にしている、高級レストランの、腕利きのシェフの手に、渡った。シェフは、その、未知の、衝撃的な味に、驚愕し、すぐさま、その日の、新作メニューに、取り入れた。
その料理は、たちまち、王都の、食にうるさい、貴族たちの間で、爆発的な、評判を、呼んだのだ。
「聞いたか? 『仔羊のグリル・ミストラル風』という、あの、新しい料理を」
「ああ、もちろん、食べたとも! あの、血のように、赤いソース、一体、全体、何なのだ? 今まで、味わったことのない、まさに、天上の味だったぞ!」
「なんでも、北の、あの、忘れられた辺境でしか、採れない、“ルビードロップ”なる、幻の果実から、作られているらしい」
噂は、噂を呼び、そのレストランは、連日、予約で、満席となった。ソースの、出所である、「ミストラル領」という名が、それまでとは、全く、違う、意味合いで、美食家たちの間に、急速に、広まり始めていたのだ。
人々は、貧しく、忘れ去られた土地という、イメージしかなかった、ミストラル領に、「未知の、美味なる食材が、眠る、神秘の秘境」という、新たな、レッテルを、貼り付けた。
行商人が、持ち込んだ、わずか、数瓶のソースは、あっという間に、底をつき、貴族たちは、「次の入荷は、いつになるのだ!」「金なら、いくらでも、払う! どうにかして、手に入れてくれ!」と、方々で、躍起になっていた。
その、ミストラルを、巡る熱は、やがて、ヴァインベルク公爵、アルフレッドの耳にも、届いた。
彼は、執事から、「ミストラル領産の、赤いソース」が、王都で、大変な評判になっていると聞き、その、厳格な眉を、ひそめた。
「ミストラル、だと? あの、不毛の土地に、そのような、価値のある特産品が、あったとは、聞いたことが、ないが……」
彼は、すぐさま、人をやり、その、今や、幻となりつつある、貴重なソースを、一本、手に入れさせた。
書斎で、彼は、その、ルビーのように、輝く、赤いソースを、銀の、スプーンで、一匙、口に、運ぶ。
その、瞬間。
彼の、常に、厳格な、その表情が、驚きに、見開かれた。
濃厚な、旨味。爽やかな、酸味。そして、複雑に絡み合う、豊かな香り。これが、あの、何一つ、生み出さない、不毛の地で、生まれたものだとは、到底、信じられなかった。
そして、彼は、思い出す。
自分が、厄介払いのように、追放した、あの、赤髪の娘、リリアーナのことを。
彼女が、この、奇跡を、生み出したと、いうのか。
(……あの娘……。まさか、本当に、やり遂げるとは……)
アルフレッドは、脳裏に、ミストラルへ発つ前の、娘との会話を思い出していた。
『ただでは、転ばぬ。それこそが、ヴァインベルクの、血の証だ。お前が、真に、その血を、引いているというのなら、この、逆境を、力に変えてみせよ』
あの時、彼は、娘の、その、瞳の奥に、自分と、同じ、決して、折れることのない、不屈の炎が、燃えているのを、確かに、見ていた。彼女を、あの、過酷な土地へ、送ったのは、罰であると、同時に、彼女の、その、真の力を、試すための、最後の、賭けでも、あったのだ。
アルフレッドは、空になった、スプーンを、手に、しばし、呆然としていた。彼が、自分の、娘の持つ、本当の力を、その、価値を、全く、理解していなかったことを、生まれて初めて、痛感させられた、瞬間だった。
ミストラルで、生まれた、小さな、小さな、熱は、今や、王都全体を、巻き込む、大きな、大きな、渦と、なりつつあった。
そして、その、渦の、中心にいる、張本人である、リリアーナは、そんなこととは、露知らず。
ただただ、不機嫌な顔で、忌々しい、鉄仮面の騎士に、護衛されながら、因縁の地、王都へと、向かっているのだった。