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第8話:慧眼の国王陛下

第8話:慧眼の国王陛下


 エルシュタイン王国の、王都ヴァレンティス。その中心に、白亜の巨人のように、聳え立つ王城の一室で、若き国王、クリストフ・フォン・エルシュタインは、うんざりするような、分厚い報告書の山に、目を通していた。

 先王であった父が、急逝し、彼が、この、複雑で、面倒な国の舵取りを、任されてから、早、二年。クリストフは、その、怜悧すぎるほどの頭脳と、神に愛されたとしか、言いようのない、卓越した政治手腕で、古狸のような、貴族たちの派閥争いや、虎視眈々と、国境を脅かす、隣国との緊張関係といった、山積みの難題を、次々と、鮮やかに、捌き、国政を、安定させていた。


 窓から差し込む、柔らかな陽光を浴びて、きらきらと煌めく、美しい金色の髪。そして、あらゆる嘘と、欺瞞を、見透かすかのような、理性の光を宿した、空色の瞳。その、神々しいまでの美貌は、まるで、精緻な、大理石の彫刻のようだったが、そこに浮かぶ表情は、常に、冷静沈着で、臣下たちに、彼の、本当の内心を、窺わせることは、滅多になかった。

 彼は、退屈していた。

 この、国の全てが、彼の、掌の上で、予測通りに、動くことに。そして、彼の前に、ひれ伏す、全ての人間が、同じように、つまらなく、見えることに。


「陛下、北の、ヴァインベルク公爵領、ミストラルより、定期報告書が、届いております」

 側近の、老宰相が、一枚の、粗末な羊皮紙を、恭しく、差し出した。

「ミストラル? ああ、あの、忘れられた土地か」

 クリストフは、特に、興味もなさそうに、それを受け取った。ミストラル領は、代々、ヴァインベルク家が所有する領地の中でも、最も、不毛で、最も、価値のない土地であり、王家への、税収も、ほとんど期待できない、「問題児」として、知られている。

 その、報告書など、どうせ、いつも通り、「今年も、ひどい凶作です」「どうか、支援を、お恵みください」といった、聞き飽きた、泣き言が、並んでいるだけだろう。彼は、そう、高を括っていた。


 しかし。

 その、粗末な羊皮紙に、走り書きされた、力強く、しかし、驚くほど、優雅な、女性的な筆跡に、目を通すうちに、クリストフの、美しい眉が、ぴくりと、わずかに、上がった。

 報告書の内容は、彼が、今まで、目にしてきた、ミストラルからの、どの、報告書とも、全く、異なっていたのだ。


『――領内の土壌は、強度の酸性土壌であり、かつ、著しい栄養不足の状態にある。これを改善すべく、石灰の散布による、土壌の中和、及び、堆肥の導入による、有機物の補給を、継続的に実施中。並行して、領内の河川より、安定的、かつ、効率的に、水資源を確保するため、山の傾斜を利用した、大規模な水路の建設に、着手。現在、全工程の、約三割を、完了。また、領内の山中にて、寒冷地に適応する、古代種の作物、“太陽の涙”を発見。これを、当方にて、“ルビードロップ”と命名し、試験栽培に、成功。糖度、栄養価共に、極めて高く、これを、加工し、新たな特産品として、商品化することを、計画中――』


 書かれていたのは、泣き言では、なかった。

 それは、具体的で、論理的で、そして、驚くほど、野心的な、改革案と、その、詳細な進捗報告だった。石灰による、土壌改良。傾斜を利用した、水路建設。そして、未知の作物の、発見と、商品化計画。その、どれもが、常識外れでは、あるが、恐ろしく、合理的で、確かな、見識に、基づいていることが、見て取れた。

 クリストフは、報告書の、最後に記された、流れるような、美しい署名に、その、空色の瞳を、落とした。


『ミストラル領主代行 リリアーナ・フォン・ヴァインベルク』


「……リリアーナ」

 クリストフは、その名を、まるで、初めて味わう、極上の葡萄酒のように、舌の上で、転がしながら、小さく、呟いた。

 あの、赤髪の令嬢か。

 彼の、愚かで、女癖の悪い、どうしようもない弟、王太子エドワードの、元婚約者。

 建国記念の、あの、華やかな夜会で、大勢の、衆目の前で、臆することなく、エドワードに、婚約破棄を叩きつけた、あの、気の強い、しかし、どこか、痛々しいほど、誇り高い、赤髪の令嬢。


 クリストフは、あの日の一部始終を、バルコニーの、影から、見ていた。

 愚かな弟の、みっともない不貞と、それに、たった一人で、毅然と、対峙した、彼女の、凛とした姿を。あの時、彼女が見せた、傷つきながらも、決して、屈しない、その、魂の輝きは、彼の、退屈な記憶の中に、鮮やかな、爪痕となって、強く、焼き付いていた。

 スキャンダルの後、彼女が、父親である、アルフレッド公爵によって、ミストラル領へ、半ば、追放されるような形で、送られたことも、彼は、もちろん、知っていた。王都の、噂好きの貴族たちは、誰もが、彼女が、辺境の、その、過酷な現実に、耐えきれず、すぐに、音を上げて、泣きながら、戻ってくるだろうと、面白おかしく、噂していた。

 クリストフ自身も、正直なところ、そうなる可能性が、高いと、思っていた。


 だが、この、報告書は、どうだ。

 これは、泣き言どころか、逆境を、ものともせず、それどころか、それを、バネにして、自らの力で、道を、切り開こうとする、強い、強い、意志の表れでは、ないか。

 クリストフの、薄い唇の端に、かすかな、本当に、かすかな、笑みが、浮かんだ。

 それは、彼が、心の底から、興味を引かれる、面白い「おもちゃ」を、見つけた時にだけ、見せる、極めて、珍しい表情だった。


「……面白い」


 彼は、この、リリアーナという、名の女性に、強い、強い、関心を、抱き始めていた。

 あの、愚かな弟には、あまりにも、過ぎた女だった。父王が決めた、政略結婚とはいえ、なぜ、エドワードが、彼女の、その、真の価値を、見抜けなかったのか、クリストフには、不思議でならなかった。

 いや、あるいは、彼女は、王都にいた頃、その、鋭い爪を、巧みに、隠していたのかもしれない。淑やかで、従順な、婚約者を、ただ、演じていただけなのか。そして、婚約破棄という、鎖から、解き放たれた今、辺境の地で、ようやく、その、燃えるような、本性を、現した、と。


「宰相」

「はっ、陛下」

「この、リリアーナ・フォン・ヴァインベルク嬢に、王都への、召集を、かけよ。この、実に、興味深い報告書の詳細について、この、余が、直接、話を聞きたい」

「なっ……! し、しかし、陛下、一介の、領主代行に過ぎぬ者を、陛下が、直々に……? そのような、前例は、ございません!」

 宰相は、驚いて、狼狽しながら、諫言する。国王が、辺境の、それも、正式な領主ですらない、代行者と、直接、会うなど、異例中の、異例の、事態だった。

「前例が、ないなら、今、ここで、作れば、よいだけの話だ」

 クリストフは、こともなげに、言った。その、空色の瞳は、もはや、退屈してはいなかった。新しい、玩具を前にした、子供のような、好奇の光に、きらきらと、輝いている。

「この国に、これほど、面白い、改革を進める者が、いるのだ。その人物が、貴族であれ、平民であれ、女であれ、男であれ、この私が、直接、話を聞く価値が、ある。それに……」

 彼は、窓の外に広がる、美しくも、退屈な、王都の景色に、目を向けながら、独り言のように、呟いた。

「王家が、彼女にした、仕打ちに対する、ほんの、ささやかな、詫びにも、なろう」

 弟の、不始末は、王家の、不始末でもある。それを、放置し、彼女が、不遇をかこつことを、黙認していた、わずかな負い目が、クリストフの中には、確かに、あったのだ。


 国王からの、召集命令は、数日後、ミストラル領にいる、リリアーナの元へと、届けられた。

 王家の、荘厳な紋章が入った、封蝋を、解き、書状に、目を通したリリアーナは、信じられない、といった顔で、その文面を、二度、三度と、読み返した。

「国王陛下が……この、わたくしに? 報告書について、直接、話を聞きたい、ですって……?」

 彼女の隣で、セバスチャンも、トーマスも、青ざめた顔で、固まっている。

「一体、どういう、ことなの……」

 リリアーナは、困惑していた。あの、地味で、走り書きのような、報告書が、まさか、国王陛下の、目に、直接、留まった? そして、わざわざ、この、自分を、王都に、呼び出す?

 何か、裏が、あるのではないか。

 これは、婚約破棄の件で、王家の面子を、公然と、潰した彼女に対する、何らかの、罠や、あるいは、厳しい、叱責の場なのではないか。

 そんな、疑念が、彼女の胸を、暗い、霧のように、覆い尽くしていく。


 リリアーナの、知らないところで。

 彼女という、一つの、駒が、王国の、巨大な、チェス盤の上で、極めて、重要な意味を、持ち始めていた。

 慧眼の、若き王は、ついに、彼の、退屈な日常を、鮮やかに、彩ってくれるであろう、最高に、刺激的な、「おもちゃ」を、見つけてしまったのだ。

 そして、その、おもちゃを、手に入れるためなら、彼が、どんな、手段をも、厭わないであろうことを、この時の、リリアーナは、まだ、知る由もなかった。

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