第7話:勘違いしないでよね!
第7話:勘違いしないでよね!
氷の騎士団長、ゼオン・ライアスとの、まさに最悪としか言いようのない出会いから、数日が過ぎた。
あの日、リリアーナとゼオンは、老執事のトーマスが、卒倒寸前になるまで、激しい、子供の喧嘩のような舌戦を、繰り広げた。結局、視察の本来の目的であった、砦との協力体制についての話など、できるはずもなく、ゼオンは、「お嬢様の、その、結構なままごとが、当騎士団の、大事な兵站に、影響を及ぼさぬよう、せいぜい、努力することだな」という、これ以上ないほどの、嫌味だけを残して、まるで、冬の嵐のように、去っていった。
「なんなのよ、あの男! 無礼で、傲慢で、人の心を、平気で凍らせるような、正真正銘の、鉄仮面!」
ゼオンが、去った後も、リリアーナの怒りは、しばらく、収まらなかった。執務室と化した、応接室を、いらいらと歩き回りながら、思いつく限りの、悪態をつく。
(平民上がりだからって、貴族を、目の敵にするのも、いい加減にしてほしいわ! わたくしが、どれだけ、本気で、この、見捨てられた領地と、向き合っているかも、知りもしないで……!)
彼の、あの、値踏みするような、冷たい目。侮蔑を、隠そうともしない、刺々しい言葉。その、全てが、彼女の、高い、高い、プライドを、逆なでしたのだ。
もう、二度と、顔も見たくない。リリアーナは、心に、固く、固く、誓った。
そんな、腹立たしい出来事があった後も、ミストラル領の、日常は、何も変わらず、続いていく。
水路の建設は、男たちの、力強い槌音と共に、着実に進み、ルビードロップの畑は、二度目の収穫に向けて、青々とした、生命力に満ちた葉を、茂らせていた。リリアーナは、あの男への怒りを、仕事への、凄まじいエネルギーに、無理やり転換するかのように、以前にも、増して、精力的に、領内を、駆け回っていた。
今日は、薬草の補充のために、領地の背後に広がる、深い森へと、足を運んでいた。
ミストラルの森は、その、厳しい冷涼な気候のおかげで、王都では、手に入りにくい、解熱や、鎮痛に、高い効果のある、貴重な薬草が、数多く自生している。特に、切り傷や、打撲に、即効性のある、「銀葉草」は、水路建設で、怪我人の絶えない、今の、ミストラルにとっては、いくらあっても、足りないくらいだった。
「この辺りの、はずだけど……」
リリアーナは、護衛として、ついてきた、二人の、若い領民に、「ここで、待ってなさい。わたくし一人の方が、集中できるから」と、ぶっきらぼうに言い放つと、薬草の知識だけを頼りに、一人で、森の、奥へと、分け入っていく。
湿った土と、腐葉土の、独特の匂いが、立ち込める中、彼女は、目的の銀葉草を、見つけると、その、可憐な花を愛でるように、慣れた手つきで、根を、決して傷つけないように、丁寧に、丁寧に、採取していく。
「よし、これだけあれば、しばらくは、持つわね」
持参した、編み籠が、いっぱいになったことに、満足し、立ち上がった、その時だった。
「……う、うぅ……っ……」
不意に、うっそうと茂る、茂みの奥から、微かな、しかし、明らかに、人のものと思われる、苦しげな呻き声が、聞こえてきた。
リリアーナは、びくりと、その、華奢な体を、強張らせる。
こんな、森の奥深くに、誰か、いるというのか? 熊か、あるいは、魔物にでも、襲われたのだろうか。
彼女は、護身用に、腰に差していた、小さなナイフを、強く、握りしめ、音を立てないように、慎重に、声のする方へと、近づいていった。
茂みを、掻き分けると、そこに広がっていたのは、信じがたい、光景だった。
苔むした、大木の根元に、一人の、若い騎士が、倒れていたのだ。彼は、王国騎士団の、見慣れた制服を着ており、その、たくましい太ももには、巨大な猪のものと思われる、鋭い牙で、抉られた、深い、深い、傷があった。夥しい量の、鮮血が、流れ出し、彼の顔は、死人のように、蒼白になっている。
「あなた、しっかりして! 大丈夫!?」
リリアーナは、咄嗟に、駆け寄り、その傍らに、ためらうことなく、膝をついた。
「あ、あなたは……ミストラルの……領主代行様……? なぜ、このような場所に……」
騎士は、はっと、目を開き、リリアーナの姿を認めると、驚きに、目を見開いた。
「いいから、喋らないで! いったい、何があったの!?」
「偵察任務の、途中で……はぐれてしまい……この森の、主と、呼ばれる、大猪に……。仲間は、砦に、応援を、呼びに……」
途切れ途切れに、話す彼の声は、弱々しい。傷口からの出血が、あまりにも酷く、このままでは、命に関わる。
リリアーナの頭が、高速で、回転する。
今、砦に、応援を呼びに行っている仲間を、待っていては、間に合わないかもしれない。
とにかく、今、ここで、わたくしに、できる限りの、応急手当を、しなければ。
「動かないで。傷を、見せるのよ」
リリアーナは、ためらうことなく、彼の、丈夫なズボンを、ナイフで、切り裂いた。露わになった傷口は、想像以上に、深く、そして、土や、木の葉で、無残に汚れていた。このままでは、破傷風の危険も、ある。
「……っ! ぐ……ぅ……」
騎士が、あまりの痛みに、顔を、苦痛に歪める。
「少し、我慢なさい。今、綺麗にしてあげるから」
リリアーナは、自分の、水筒に残っていた、なけなしの、綺麗な水で、傷口の汚れを、慎重に、しかし、手早く、洗い流した。次に、採取したばかりの、薬草の籠を、探る。
(止血と、化膿止め……。銀葉草と、あとは……これだわ!)
彼女は、数種類の、薬草を、素早く選び出すと、近くにあった、平らな石を使って、その場で、磨り潰し、鮮やかな、緑色のペースト状にした。
「これを、塗るわ。少し、沁みるかもしれないけれど、男の子でしょ、我慢なさい!」
有無を言わさぬ、その口調とは裏腹に、彼女は、その薬草のペーストを、傷口に、優しく、厚く、塗り込んでいく。騎士は、苦悶の声を漏らしたが、リリアーナは、構わなかった。
最後に、彼女は、自分が着ていた、シャツの裾を、大胆に、ビリリと引き裂くと、それを、包帯代わりにして、傷口の上から、きつく、きつく、縛り上げた。それは、熟練の、野戦衛生兵も、かくや、というほどの、完璧な、圧迫止血だった。
「……これで、ひとまずは、大丈夫な、はずよ」
全ての処置を、終え、リリアーナが、額の汗を、手の甲で、拭った、その時だった。
「マルコ! 無事か!」
ガサガサと、激しい音を立てて、数人の騎士たちが、茂みの中から、現れた。その先頭にいたのは、リリアーナが、今、この世界で、一番、会いたくないと、思っていた人物――鉄仮面の騎士団長、ゼオン・ライアス、その人だった。
ゼオンは、倒れている、部下のマルコと、その傍らで、応急手当を施している、泥だらけのリリアーナの姿を認め、驚きに、足を止めた。
「……ヴァインベルク嬢? なぜ、お前が、こんな場所にいる」
その声には、相変わらずの、氷のような冷たさと、隠しきれない、訝しさが、混じっていた。
リリアーナは、心底、うんざりした顔で、彼を、見上げた。
(よりにもよって、なぜ、この男が……!)
「それは、こっちの台詞よ、騎士団長殿。あなたの、優秀な部下さんが、わたくしの、大事な領地で、のたくたばっていたから、親切に、介抱してあげていただけよ」
「介抱、だと? お前のような、か弱い令嬢に、一体、何ができる」
ゼオンの言葉には、あからさまな、不信が、こもっていた。彼は、倒れている部下、マルコの元へ、駆け寄ると、その、傷口を、検分する。
そして、彼は、絶句した。
傷口の、的確な洗浄、薬草による、専門的な処置、そして、完璧な止血。その全てが、騎士団の、救護マニュアルに、載っているかのように、完璧だったのだ。特に、使われている、薬草の組み合わせは、化膿を防ぎ、治癒を、促進させるための、最良の選択。素人が、それも、王都育ちの、箱入り令嬢に、できるような、芸当では、到底、ない。
「……この処置は、お前が、やったのか」
ゼオンは、信じがたい、といった表情で、リリアーナに、問いかけた。
リリアーナは、ふん、と、可愛らしく、鼻を鳴らす。
「そうよ。他に、誰がいるっていうの? まさか、この子が、自分でやったとでも、言うつもり?」
「……」
ゼオンは、言葉に、詰まった。彼は、リリアーナのことを、ただの、口先だけの、我儘な女だと、そう、断じていた。だが、目の前にある、この、事実は、その、彼の評価が、完全な、間違いであったことを、示している。
彼女は、ただの令嬢では、なかった。豊富な、薬草の知識と、非常時にも、臆することのない、胆力、そして、見ず知らずの人間を、救おうとする、優しさ(本人は、絶対に、認めないだろうが)を、確かに、持っていた。
その時、治療を受けていた、マルコが、か細い、しかし、はっきりとした声で、言った。
「だ、団長……。この方に、助けて、いただきました……。この方が、いらっしゃらなければ、俺は、きっと……」
部下からの、直接の、証言に、ゼオンは、ぐっと、唇を、噛んだ。
彼は、リリアーナに、向き直ると、その、鉄仮面のような表情を、わずかに、崩し、ぎこちなく、しかし、はっきりと、頭を、下げた。
「……部下が、世話になった。礼を、言う」
その、意外すぎる行動に、今度は、リリアーナの方が、驚いて、目を、ぱちくりとさせた。
あの、傲慢で、無礼で、失礼な、鉄仮面が、この、わたくしに、頭を、下げている。
しかし、彼女は、素直に、「どういたしまして」などと、言えるような、可愛らしい性格では、なかった。
リリアーナは、すっくと立ち上がると、服についた、土を、パンパンと払いながら、そっぽを向いて、言い放った。
「べ、別にっ! あなたに、感謝されるために、やったわけじゃ、ないんだからねっ!」
その声は、自分でも、驚くほど、上擦っていた。顔に、カッと、熱が、集まるのが、わかる。
「こ、困っている人がいたら、助けるのは、人として、当然でしょう!? わたくしが、わたくしの、気が済むように、やったことよ! ぜ、ぜんっぜん、勘違い、しないでよねっ!」
早口で、まくし立てる彼女の、その、頬は、夕焼けのように、真っ赤に、染まっていた。
その姿を見た、瞬間。
ゼオンの、氷のように、凍てついていたはずの胸に、今まで、一度も、感じたことのない、奇妙な、そして、温かい感情が、芽生えた。
(なんだ、この女は……)
あれだけのことを、しておきながら、素直に、礼を、受け取ることも、できないのか。
強がって、意地を張って、けれど、その、小さな耳まで、真っ赤に染まっている。
その、あまりにも、不器用な優しさと、素直に、なれない姿が、ゼオンの目には、なぜか、ひどく――
(……可愛い、だと……?)
自分の心に、浮かんだ、その言葉に、ゼオン自身が、狼狽した。
この、俺が、あの、ヴァインベルクの、生意気な、我儘娘を、可愛い、だと?
あり得ない。きっと、疲れているに、違いない。
彼は、心の動揺を、悟られまいと、一つ、咳払いをすると、再び、完璧な、鉄仮面を、装着した。
「……ともかく、この借りは、必ず、返す。後日、砦から、礼の品を、届けさせよう」
「いらないって言ってるでしょ、そんなもの! それより、早く、その子を、砦に連れて帰って、ちゃんとした、手当てを、してあげなさいよ! ぐずぐずしないで!」
リリアーナは、そう、言い捨てると、くるりと、背を向け、拾い上げた、薬草の籠を手に、さっさと、森の出口へと、歩き去ってしまった。その、後ろ姿は、まるで、怒った、猫のようだった。
残された、ゼオンは、その、小さな、しかし、誇り高い、後ろ姿を、しばらくの間、ただ、黙って、見つめていた。
初めて会った時とは、全く、違う印象。
彼女は、ただの、我儘な令嬢などでは、ない。泥にまみれることを、厭わず、豊富な知識を持ち、そして、不器用ながらも、確かな優しさを持つ、一人の、人間だ。
ゼオン・ライアスの、凍てついていた心に、リリアーナ・フォン・ヴァインベルクという、炎のような存在が、予期せぬ形で、小さな、しかし、確かな、亀裂を、入れた瞬間だった。