第4話:泥まみれの公爵令嬢
第4話:泥まみれの公爵令嬢
リリアーナが、ミストラル領の、石のように硬い大地に、鍬を振り始めてから、数日が過ぎた。
彼女の朝は、夜明けと共に始まる。王都にいた頃には、考えられもしなかった早起きも、今では、すっかり、彼女の日常になっていた。侍女もいないため、身支度は、全て、自分で行う。繊細なレースのついた寝間着を、無造作に脱ぎ捨て、動きやすい、丈夫な木綿のシャツと、ズボンに、足を通す。燃えるような赤髪を、きつく、ポニーテールに結い上げると、鏡に映るのは、日焼けで、頬に、うっすらとそばかすが浮き、目の下には、消えない隈ができた、もはや、公爵令嬢の、優雅な面影など、どこにもない、自分の姿だった。
「……ふん。悪くないじゃない」
リリアーナは、鏡の中の、自分に、不敵に、笑いかけてみせる。偽りの笑顔を、顔に貼り付けた、美しいだけの、空っぽの人形だった頃より、ずっと、生きているという、実感が、あった。
彼女が、今、取り組んでいるのは、領民の古老の知恵と、自身の知識を組み合わせた、土壌改良だった。
しかし、その道は、平坦ではなかった。最初の試みでは、石灰の量がわからず、実験用の畑の一部に、粉を撒きすぎてしまった。その結果、土はアルカリ性に傾きすぎ、かえって、わずかに生えていた雑草さえも、枯らしてしまうという、手痛い失敗を経験した。
「姫様、やはり、こんなやり方は、無駄なのでは……」
領民たちの間から、再び、諦めの声が漏れる。しかし、リリアーナは、挫けなかった。
「失敗は、成功への、ただの、過程よ! 量が、多すぎたのなら、次は、もっと、少なくすればいいだけの話じゃない!」
彼女は、領民たちと、何度も、何度も、話し合い、土の状態を観察しながら、根気強く、最適な配合を探り続けた。森から、枯れ葉や、落ち葉を集めさせ、数少ない家畜の、糞尿と混ぜ合わせ、堆肥を作るという、地道な作業にも、着手した。
言葉で、いくら、立派なことを言っても、駄目だ。
結果で、示すしかない。
その日も、リリアーナは、館の裏にある、実験用の畑で、自ら、土を、耕していた。
「姫様! どうか、そのようなことは、我々めに、お任せください! 姫様の、その、白魚のようなお手を、汚させるわけには、まいりません!」
老執事のセバスチャンが、ほとんど、悲鳴に近いような声で、駆け寄ってくる。彼の、その、揺るぎない忠誠心は、ありがたい。だが、リリアーナは、汗を拭いもせず、首を、きっぱりと、横に振った。
「いいのよ、セバス。これは、わたくしが、やらなければ、意味がないことなの」
彼女は、自分が、まず、手本を見せることで、領民たちの、凍てついた心を、動かそうとしていた。机上の空論を、振りかざすのではない。自らが、泥にまみれ、汗を流す、その姿を見せることで、自分が、本気なのだと、証明したかったのだ。
「よいしょ……っ!」
石ころだらけの土を、掘り返し、匂いのきつい堆肥を、混ぜ込んでいく。慣れない肉体労働に、腕も、腰も、悲鳴を上げていた。手のひらの豆は、とっくに潰れて、血が滲み、土と混じって、黒くなっている。だが、彼女は、手を、止めなかった。
不思議なことに、この、身を削るような、肉体的な疲労が、彼女の、心の傷を、少しずつ、癒してくれていた。土の匂い、額を、滝のように流れる汗、心地よい、筋肉の痛み。その全てが、エドワードに裏切られた、あの、苦い記憶を、遠ざけてくれる。今はただ、目の前の、この、大地と、向き合うことに、没頭できた。
そんな、彼女の姿を、領民たちは、遠巻きに、しかし、毎日、毎日、観察していた。彼らの言葉から、最初の頃にあった、嘲笑や、侮蔑の色は、いつの間にか、消えていた。代わりに、そこにあったのは、戸惑いと、そして、ほんの、わずかな、興味だった。
そんなある日の午後、リリアーナは、土壌改良と、並行して進めていた、もう一つの、壮大な計画に、着手した。水路の、整備だ。
ミストラル領には、幸いなことに、山から流れ出る、豊かな川がある。しかし、その川は、村から、少し離れた、険しい谷底を流れており、人々は、毎日、重い、重い、桶を担いで、危険な道を、往復しなければならなかった。
リリアーナは、前世の、おぼろげな記憶と、この世界で、改めて学び直した、簡単な土木工学の知識を、組み合わせ、川から、村へと、水を、直接、引き込むための、水路の設計図を、描き上げた。
「この、山の傾斜を、うまく利用すれば、大きな動力を使わなくても、ここまで、水を、引いてこれるはずよ」
彼女は、村の、寂れた広場に、長老たちと、まだ、働けるだけの体力が残っている、男たちを集め、地面に、木の枝で、描いた、拙い図を見せながら、熱心に、説明した。
「この、水路ができれば、皆、毎日、あの、大変な水汲みから、解放されるわ。それに、畑にも、水を、供給できるようになる。そうすれば、きっと、育てられる作物の種類も、増えるはずよ!」
しかし、男たちの反応は、渋い、の一言だった。
「姫様、図面の上では、簡単に見えるでしょうが、ここの、岩盤は、鉄のように、固い。それに、その傾斜の計算、本当に、正確なのですかい? 下手に掘って、水が、逆流でもしたら、大惨事ですぜ」
「そうだ。そんな、大掛かりなことをして、もし、失敗したら、どうするんだ。ただでさえ、俺たちは、日々の仕事で、手一杯だというのに」
不満の声が、あちこちから、上がる。彼女の計画は、専門家が見れば、あまりにも、机上の空論に、思えたのだ。
リリアーナは、彼らの、その、反発を、予期していた。だが、彼女にも、これ以上、反論するだけの、専門的な知識はなかった。ぐっと、唇を噛みしめ、悔しさに、俯いていた、その時だった。
「……わかっているわ。あなたたちが、新しいことを、始めるのを、恐れていることも。でも、少し、考えてみてほしいの。このまま、今までと、全く同じ生活を続けて、これから、何か、変わることが、あるかしら?」
リリアーナの真摯な言葉に、男たちの心が、わずかに、動き始めていた。
「わたくしは、諦めたくない。もし、あなたたちの中に、この、馬鹿げた女の、途方もない我儘に、付き合ってやっても、いいと思う、物好きな者が、いるのなら……明日の、日の出と共に、川辺に、来てちょうだい」
そう言い残し、リリアーナは、その場を、去った。あとは、彼らが、自分たちの意志で、決めるしかない。
翌朝。
空が、東の空から、白み始めた頃、リリアーナは、一人、つるはしを、その、華奢な肩に担いで、川辺へと、向かった。
川の、冷たいせせらぎが、聞こえる場所に、たどり着いた時、リリアーナは、思わず、足を、止めた。
そこには、十数人の、男たちが、古びた、つるはしや、シャベルを、手に、どこか、気まずそうに、しかし、確かな意志を持って、立っていたのだ。
「いや、その……姫様が、あんまり、必死だからよ。馬鹿な我儘に、付き合ってやるってのも、たまには、悪くねえかな、って、皆で、話してな」
(口は悪いし、とんでもねえ我儘だ。だが、あの人は、俺たちを見捨てなかった。俺たち自身が諦めていたこの土地を、たった一人で信じようとしてるんだ。ならば、今度は俺たちが、あの小さな背中を支えてやる番じゃねえか!)
一人の、若い男、レオが、照れくさそうに、言う。
リリアーナの胸に、熱い、熱いものが、込み上げてきた。彼女は、込み上げる涙を、ぐっと、堪え、わざと、これ以上ないくらい、ぶっきらぼうに、言った。
「ふ、ふんっ! 来るのが、遅いわよ! ぐずぐずしないでよね! さあ、始めるわよ! わたくしに、ついてきなさい!」
その声は、少し、震えていたが、誰よりも、力強く、そして、希望に、満ち満ちていた。
「おおーっ!」
男たちの、雄叫びが、ミストラルの、静かな、朝の空に、響き渡る。
カン、カン、カン!
硬い、硬い、岩盤を砕く、つるはしの音が、まるで、新しい時代の、幕開けを告げる、祝祭の鐘のように、谷間に、こだました。