第34話:ミストラルの太陽
第34話:ミストラルの太陽
あの、大陸の、運命を、変えた、三王会談から、五年。
かつて、「流刑地」「忘れられた土地」と、揶揄された、北の、辺境の地、ミストラルは、今や、その、面影も、ないほど、目覚ましい、変貌を、遂げていた。
三王会談での、歴史的な和平協定に基づき、ミストラルは三国共同管理の中立地帯と定められた。そして、その類稀なる才覚と、三国全ての信頼を一身に集めるリリアーナ、そして彼女を支えるゼオンが、初代共同統治者に就任したのだ。
リリアーナが、夢に、描いた、「ルビードロップ・ロード」。
その、三国を、結ぶ、交易路の、中心地として、ミストラルは、「ミストラル自由交易都市」と、名を変え、大陸中から、人、モノ、そして、情報が、集まる、活気に満ち溢れた、国際都市へと、生まれ変わっていた。
石と、粗末な木材で、建てられていた、寂れた村は、今や、美しい、石畳の、街並みとなり、エルシュタイン、グランツ、両帝国の、様式が、巧みに、融合した、ユニークで、美しい、建築物が、軒を、連ねている。
市場には、ルビードロップの、加工品は、もちろんのこと、大陸中の、珍しい、産品が、所狭しと、並び、様々な、言語が、飛び交い、人々の、陽気な、笑い声が、絶えることは、ない。
この、奇跡の、繁栄を、導いたのは、もちろん、この都市の、共同統治者を、務める、一組の、夫婦だった。
その日の、昼下がり。
統治者の、館の、広々とした、執務室で、リリアーナは、山と積まれた、書類の、束と、格闘していた。
五年という、歳月は、彼女を、さらに、美しく、そして、聡明に、磨き上げていた。
少女の、面影は、消え、その、代わりに、成熟した、大人の女性としての、落ち着きと、自信が、その、全身から、滲み出ている。
今日の、彼女は、公の、場ではないため、堅苦しい、ドレスではなく、動きやすい、白の、ブラウスに、深い、緑色の、ロングスカートという、シンプルな、装い。しかし、その、シンプルな、服装が、かえって、彼女の、その、素材の、良さを、際立たせていた。
燃えるような、赤髪は、今は、無造作な、シニョンに、まとめられ、数本の、後れ毛が、仕事に、集中する、その、真剣な、横顔に、柔らかな、陰影を、落としている。
その、形の良い、唇を、きゅっと、結び、時折、眉間に、可愛らしい、皺を寄せながら、羊皮紙に、羽ペンを、走らせる、その姿は、まるで、知性の女神、そのものだった。
彼女は、もう、誰の、庇護も、必要としない。
自らの、足で、立ち、自らの、頭で、考え、そして、自らの、手で、民の、未来を、創り出す、ミストラルの、太陽だった。
「――少しは、休憩したら、どうだ」
不意に、背後から、かけられた、低く、そして、慈しみに、満ちた声。
リリアーナが、顔を上げると、そこには、夫である、ゼオンが、二つの、カップが乗った、トレイを手に、立っていた。
彼もまた、この、五年で、随分と、変わった。
騎士団長の、あの、氷のような、冷たさは、すっかりと、影を潜め、その、精悍な、顔には、常に、穏やかで、そして、深い、包容力を、感じさせる、笑みが、浮かんでいる。
「あら、あなたこそ。警備部隊の、訓練は、もう、終わったのかしら?」
リリアーナは、ペンを、置くと、にっこりと、彼に、微笑みかけた。
その、笑顔は、かつてのように、ツンとした、強がりは、微塵もなく、ただ、ひたすらに、愛する、夫に、向ける、妻の、柔らかな、笑顔だった。
「ああ。少し、早く、切り上げてきた」
ゼオンは、彼女の、机の上に、ハーブティーの、カップを、ことり、と、置いた。
「お前が、また、根を、詰めている頃だと、思ったからな」
「うふふ、お見通し、というわけね」
二人の間に、流れる、空気は、どこまでも、穏やかで、そして、甘い。
彼らは、公の場では、厳格な、共同統治者として、振る舞うが、こうして、二人きりに、なると、ただの、愛し合う、一組の、夫婦に、戻るのだ。
ゼオンは、リリアーナの、椅子の後ろに、立つと、その、疲れた、華奢な肩を、大きな手で、優しく、揉み始めた。
「……ん、気持ちいいわ」
リリアーナは、心地よさそうに、目を、細める。
「お前は、少し、働きすぎだ。もう少し、周りの、人間に、仕事を、任せることも、覚えろ」
「あら、それは、あなたにだけは、言われたくない、台詞ですこと。あなただって、毎日、夜遅くまで、この街の、治安維持計画を、練っているでは、ないの」
「それは……」
「お互い様、というわけね」
リリアーナは、くすくすと、楽しげに、笑うと、彼の、大きな手に、自分の、小さな手を、重ねた。
「でも、ありがとう、ゼオン。あなたが、いてくれるから、わたくしは、こうして、頑張れるのよ」
「……俺の方こそだ、リリアーナ」
ゼオンは、彼女の、その、美しい、赤い髪に、そっと、顔を、うずめ、その、香りを、吸い込んだ。
ハーブと、インクと、そして、太陽の、匂い。
彼が、この世で、何よりも、愛する、匂い。
この、五年間、決して、平坦な、道のりでは、なかった。
三国間の、利害の、調整。交易路を、狙う、盗賊団との、戦い。そして、今だに、彼らを、快く、思わない、旧、貴族派からの、陰湿な、嫌がらせ。
問題は、常に、山積みだった。
だが、二人は、いつも、共に、手を取り合って、それらを、乗り越えてきた。
リリアーナが、その、卓越した、知性と、政治力で、道を示し、ゼオンが、その、絶対的な、武力と、統率力で、彼女と、民を、守る。
彼らは、まさに、最強の、パートナーだった。
「そういえば」と、リリアーナが、思い出したように、言った。「明日は、エルシュタインと、グランツ、両国からの、定期交易船が、同時に、到着する日だったわね。また、忙しくなるわ」
「ああ。クリストフ陛下と、ヴァルフレート陛下も、また、何か、面倒な、個人的な、贈り物を、よこすのだろうな」
ゼオンは、少し、うんざりしたように、言った。
あの、二人の王は、いまだに、リリアーナのことを、諦めては、いないらしかった。
クリストフは、「国家間の、友好の、証」と、称して、リリアーナが、好きそうな、極めて、希少な、書物や、芸術品を、頻繁に、送りつけてくる。
ヴァルフレートは、「最新技術の、視察」と、称して、自ら、ミストラルを、訪れては、リリアーナを、食事に、誘おうとする。
その度に、ゼオンは、夫として、面白くない、気持ちを、隠せずにいた。
「あら、やきもち、かしら?」
リリアーナは、楽しげに、彼を、からかう。
「……別に、そんなのでは、ない」
むすっと、口を、尖らせる、彼の、その、子供のような、態度に、リリアーナは、愛おしさが、込み上げてくるのを、抑えられない。
彼女は、椅子から、立ち上がると、彼の、胸に、その、身を、預けた。
「心配、しなくても、大丈夫よ」
彼女は、彼を、見上げ、その、美しい、翠玉の瞳を、きらきらと、輝かせた。
「わたくしの、太陽は、この、ミストラルにしか、ないもの。そして、その、太陽を、照らしてくれる、唯一の、空は、あなただけよ、ゼオン」
その、あまりにも、甘く、そして、ストレートな、愛の言葉に、今度は、ゼオンの方が、顔を、真っ赤に、する番だった。
「……お前は、時々、そういう、恥ずかしいことを、平気で、言うな」
「うふふ。本当のことですもの」
照れ隠しに顔を背けるゼオンの頬に、リリアーナはそっとキスを落とす。そして、彼の耳元で、悪戯っぽく囁いた。「わたくしの、朴念仁で、不器用で、世界一愛しい、騎士様」その言葉に、ゼオンはもう耐えきれないとばかりに、彼女を強く抱きしめ返し、その唇を、優しく、しかし深く、塞いだのだった。
窓の外では、ミストラルの、太陽が、ゆっくりと、西の、山へと、傾き、街全体を、美しい、黄金色に、染め上げていた。
それは、この、土地に、住む、全ての人々を、優しく、そして、平等に、照らす、希望の、光。
リリアーナと、ゼオンは、その、美しい、光景を、寄り添いながら、いつまでも、いつまでも、眺めていた。
彼らの、戦いは、まだ、終わらない。
だが、その、道のりが、どんなに、険しくとも、二人で、手を取り合って、いれば、きっと、乗り越えていける。
彼らの、魂の、在り処は、今、確かに、この、愛する、ミストラルの、地に、あった。




