第32話:魂の在り処
第32話:魂の在り処
三日間に、及んだ、三王会談は、ついに、その、最終局面を、迎えていた。
リリアーナが、提示した、「ルビードロップ・ロード」構想。
その、あまりにも、大胆で、しかし、確かな、利益を、見込める、その、計画は、当初、懐疑的だった、二人の王の、心を、完全に、捉えていた。
彼らは、もはや、敵としてではなく、大陸の、新たな、秩序を、共に、創造する、競争相手として、熱く、そして、建設的な、議論を、交わしていた。
関税率、街道の、整備計画、そして、交易都市の、運営方法。
その、中心で、リリアーナは、驚くべき、能力を、発揮した。
ミストラルで、培った、実践的な、知識と、ヴァインベルク公爵家で、叩き込まれた、帝王学。その、二つを、巧みに、組み合わせ、彼女は、二人の、百戦錬磨の、君主を、相手に、一歩も、引けを、取らなかった。
その姿は、あまりにも、鮮烈だった。
交渉が、大筋で、合意に、達した、その、最後の夜。
クリストフと、ヴァルフレートは、まるで、申し合わせたかのように、リリアーナを、城の、月明かりが、差し込む、静かな、テラスへと、呼び出した。
そこには、彼女と、二人の王、ただ、三人だけ。
ゼオンは、護衛として、少し離れた、回廊の、影に、その、身を、潜めている。彼には、これから、始まる、会話が、もはや、国家間の、交渉では、ないことを、理解していたからだ。
それは、二人の、王が、一人の、女の、その、魂の、在り処を、問う、最後の、最後の、戦いだった。
リリアーナは、テラスの、手すりに、その、華奢な、身を、もたせかけていた。
夜風が、彼女の、美しい、赤髪を、優しく、なびかせ、その、白い、うなじに、結い上げられた、後れ毛を、くすぐる。
今日の、彼女は、交渉の、席での、あの、凛とした、為政者の、顔ではなく、どこか、物憂げで、そして、これから、下さなければならない、決断の、重さに、思い悩む、一人の、うら若き、女性の、顔をしていた。
その、儚げで、しかし、芯の、強さを、失わない、アンバランスな、美しさが、二人の王の、心を、どうしようもなく、掻き立てる。
「……見事な、手腕だった、リリアーナ嬢」
静寂を、破ったのは、クリストフだった。その、空色の瞳は、夜の、闇の中で、いつも以上に、深く、そして、穏やかに、見えた。
「君の、その、才能は、やはり、この国の、宝だ。いや、もはや、この、大陸の、宝と、言っても、過言では、あるまい」
彼は、一歩、彼女へと、近づいた。
「改めて、君に、問おう。王都へ、来るがいい。君が、描いた、その、壮大な、未来予想図、それを、実現するための、最高の、舞台を、この、私が、用意しよう。私の、隣で、この国を、そして、この大陸を、共に、変えては、くれまいか」
その声は、どこまでも、甘く、そして、逆らうことを、許さない、王の、響きを、持っていた。
宰相に、匹敵する、権力。王家からの、絶大な、後ろ盾。
それは、野心ある者ならば、誰もが、喉から、手が出るほど、欲しがるであろう、輝かしい、未来の、約束手形だった。
「待った、を、かけさせてもらおうか、エルシュタイン王」
今度は、ヴァルフレートが、不敵な、笑みを、浮かべて、割って入った。
「彼女の、その、革新的な、才能が、お前の、その、古臭い、伝統と、格式ばかりの、国で、本当に、活かせるとは、到底、思えんな」
彼は、リリアーナの、もう一方の、隣に、立った。
「リリアーナ。俺の、帝国へ、来い。俺の国には、古い、しがらみなど、ない。あるのは、ただ、実力と、結果だけだ。君の、その、理想を、最も、早く、そして、最も、完璧な形で、実現できるのは、この、俺の、帝国だけだ。俺は、君を、后として、迎え、対等な、パートナーとして、共に、この、大陸の、覇道を、歩みたい」
彼の言葉は、クリストフとは、対照的に、どこまでも、ストレートで、そして、情熱的だった。
力と、自由。
それは、閉塞した、世界に、絶望する者ならば、誰もが、焦がれるであろう、刺激的な、未来への、招待状だった。
二人の、王からの、熱烈な、求愛。
どちらを、選んでも、彼女は、この、大陸で、最も、権力を持つ、女性の、一人と、なるだろう。
誰もが、羨む、栄光と、名誉が、約束されている。
リリアーナは、しばらく、何も、言わずに、ただ、夜空に、浮かぶ、美しい、満月を、見上げていた。
その、横顔は、まるで、精緻な、大理石の、彫刻のように、静かで、その、内にある、本当の、心を、誰にも、読ませない。
やがて、彼女は、ゆっくりと、二人の王へと、その、美しい、顔を、向けた。
そして、その、形の良い唇から、紡ぎ出されたのは、彼らの、誰もが、予想だに、しなかった、答えだった。
「お二人からの、その、あまりにも、光栄な、お申し出、心より、感謝、申し上げます」
彼女は、まず、完璧な、淑女の、礼をもって、深く、深く、頭を下げた。
そして、顔を上げると、きっぱりと、しかし、どこまでも、穏やかな、微笑みを、浮かべて、言った。
「ですが、その、どちらの、お申し出も、お受けすることは、できません」
その、言葉に、クリストフと、ヴァルフレートは、絶句した。
「なぜだ?」
「理由を、聞かせてもらおうか」
彼らの、声には、純粋な、驚きと、そして、わずかな、苛立ちが、混じっていた。
リリアーナは、そんな、彼らに、優しく、しかし、揺るぎない、視線を、向けた。
「陛下方が、わたくしに、見出してくださったのは、わたくしの、その、才能と、そして、わたくしが、描いた、未来、でございましょう。ですが、わたくしが、本当に、望んでいるものは、そこには、ないのです」
彼女は、そっと、自らの、胸に、手を当てた。
「わたくしは、誰かの、隣で、輝く、月になることを、望んでは、おりません。わたくしは、たとえ、小さくとも、辺鄙な、場所であろうとも、自らの、力で、光を、放つ、太陽で、ありたいのです」
彼女は、そこで、一度、言葉を切った。
「わたくしは、王都の、きらびやかな、権力も、帝国の、果てしない、覇道も、望みません。わたくしが、本当に、帰りたい場所。わたくしの、魂の、在り処は、ただ、一つ」
彼女は、回廊の、影に、立つ、一人の、騎士へと、その、慈しみに、満ちた、視線を、向けた。
その、視線に、気づき、ゼオンが、影の中から、姿を、現す。
「わたくしは、わたくしが、心から、愛した、あの、北の、不毛な土地で、わたくしを、信じ、支えてくれる、愛しい、人々と共に、泥に、まみれて、生きていきたいのです」
彼女は、ゼオンの元へと、ゆっくりと、歩み寄った。
そして、彼の、その、大きくて、武骨な、しかし、誰よりも、温かい手を、両手で、そっと、取った。
「わたくしが、選ぶのは、権力でも、理想の実現でも、ございません。ただ、ささやかで、温かくて、そして、かけがえのない、この、わたくし自身の、幸福です」
彼女は、ゼオンの、隣に、立つと、二人の王に、向かって、再び、深く、頭を下げた。
「わたくしは、この人と、共に、ミストラルへ、帰ります」
それは、彼女の、最終的な、答えだった。
大陸の、覇権よりも、一人の、男との、愛を、選んだ。
輝かしい、未来よりも、地に、足のついた、ささやかな、幸福を、選んだ。
その、あまりにも、人間的で、そして、あまりにも、気高い、選択に、二人の王は、もはや、返す言葉も、なかった。
彼らは、ついに、悟ったのだ。
この、赤髪の令嬢の、その、魂は、決して、誰かの、ものでは、なく、永遠に、彼女自身の、ものであるということを。
そして、その、自由な、魂にこそ、自分たちは、どうしようもなく、惹かれてしまったのだ、ということを。