第29話:夜明けの奪還
第29話:夜明けの奪還
夜の、最も、深い闇が、東の空から、ほんの、わずかに、白み始める、その、一瞬。
帝都が、まだ、深い、眠りについている、その、静寂を、切り裂くように、一つの、影が、動いた。
ゼオン・ライアス。
彼は、まるで、闇に、溶け込む、黒豹のように、音もなく、リリアーナが、囚われている、離宮の、高い、高い、石壁を、滑るように、登っていく。その、鍛え上げられた、肉体には、一切の、無駄な動きがなく、まるで、重力など、存在しないかのようだった。
彼の、すぐ後を、腹心の、部下である、カインが、同じように、影となって、続く。
離宮の、庭園に、降り立った、二人は、息を、殺しながら、リリアーナの部屋の、窓辺へと、慎重に、近づいた。
約束通り、窓には、鍵が、かかっていなかった。
ゼオンは、そっと、窓を、開け、部屋の中へと、その、身を、滑り込ませる。
部屋の中は、まだ、薄暗かった。
だが、彼の、夜の闇に、慣れた、黒曜石の瞳は、すぐに、その、姿を、捉えた。
ベッドの、傍らで、既に、外出用の、簡素な、しかし、動きやすい、濃緑色の、旅装束に、着替えを、済ませた、リリアーナが、小さな、荷袋を、胸に、抱きしめ、息を、殺して、こちらを、見つめていた。
数週間ぶりに、見る、彼女の、姿。
その、あまりの、美しさに、ゼオンは、一瞬、息を、するのも、忘れた。
その様子を背後で見ていたカインは、固唾を飲んだ。(あれが、ヴァインベルク嬢……! まるで女神のようだ。あの氷のようだった団長が、これほどまでに心を奪われるわけだ。何としても、このお方を、団長の元へ、我らの光の元へ、お連れせねば……!)
燃えるような、赤髪は、長い、旅に、備えて、きつく、一本の、三つ編みに、まとめられている。その、おかげで、彼女の、小さな、形の良い顔の、輪郭と、驚くほど、白く、細い、うなじの、清らかさが、際立っていた。
月明かりが、彼女の、大きな、大きな、翠玉の瞳を、照らし出し、そこには、不安と、しかし、それ以上に、強い、強い、決意の光が、宝石のように、きらめいている。
少し、やつれたせいか、頬は、以前よりも、こけ、その、下の、唇は、血の気を、失っていたが、それが、かえって、彼女の、その、存在を、どこか、この世の者とは、思えないほど、儚く、そして、神々しく、見せていた。
ゼオンは、彼女の、その、姿を、目の当たりにし、胸が、締め付けられるような、愛おしさと、そして、彼女を、こんな、危険な目に、遭わせてしまった、自分への、激しい、怒りとが、同時に、込み上げてくるのを、感じた。
「……迎えに、来た」
ゼオンは、かろうじて、それだけを、絞り出すように、囁いた。
その、声に、リリアーナの、張り詰めていた、緊張の糸が、ふっと、緩む。
「……遅いわよ。馬鹿」
彼女は、潤んだ瞳で、彼を、睨みつけながら、そう、呟いた。その、声は、怒っているようで、しかし、その、響きの奥には、心の底からの、安堵が、滲んでいる。
二人の間に、言葉は、もう、必要なかった。
視線を、交わすだけで、互いの、想いが、痛いほど、伝わってくる。
「行くぞ。時間は、ない」
ゼオンは、彼女の、小さな手を、強く、握った。
その、温かさに、リリアーナは、ようやく、自分が、一人では、ないのだと、実感する。
だが、彼らが、部屋を、出ようとした、まさに、その、瞬間だった。
ジリリリリリリリリンッ!!!
離宮全体に、けたたましい、警報の、ベルの音が、鳴り響いた。
「なっ……!?」
ゼオンの顔が、驚愕に、歪む。
どういうことだ。陽動の部隊が、騒ぎを、起こすのは、まだ、先のはず。
罠だ。
その、二文字が、彼の、脳裏を、よぎった。
窓の外が、にわかに、騒がしくなる。松明の、赤い光が、あちこちで、灯り、屈強な、近衛兵たちが、雄叫びを、上げながら、この部屋へと、殺到してくるのが、見えた。
完全に、包囲されている。
脱出路は、ない。
「……やられたな」
ゼオンは、忌々しげに、舌打ちをすると、リリアーナを、自らの、背後にかばい、剣を、抜き放った。
「まさか、皇帝自らが、仕掛けた、罠とはな。あの男、俺たちの、動きを、全て、読んでいたらしい」
扉が、外から、乱暴に、蹴破られた。
なだれ込むように、入ってきた、完全武装の、近衛兵たち。その、人垣を、ゆっくりと、掻き分けるようにして、一人の男が、姿を、現した。
帝国皇帝、ヴァルフレート。
その、精悍な顔には、全てを、見通していた、勝者の、余裕の笑みが、浮かんでいる。
「……見事な、潜入だったぞ、エルシュタインの、氷の騎士よ。褒めて、やろう」
彼は、まるで、芝居の、台詞を、言うかのように、手を、叩いた。
「だが、残念だったな。俺は、昨夜、彼女が、書かせた、あの、甘い、時間稼ぎの、手紙を、読んだ瞬間に、全てを、察していたよ。あの、気高い、赤髪の魔女が、そう、易々と、俺に、靡くはずが、ない、と、な」
絶体絶命。
ゼオンと、カインは、背中合わせになり、リリアーナを、その、中心に、守りながら、剣を、構える。だが、相手の数は、あまりにも、多すぎる。
ヴァルフレートは、そんな、追い詰められた、彼らを、楽しげに、眺めながら、リリアーナへと、その、視線を、向けた。
「さあ、どうする、リリアーナ? 今、ここで、俺の、手を取り、后となることを、誓うならば、この、哀れな、騎士たちの、命だけは、助けてやっても、いい」
それは、究極の、選択だった。
自分の、誇りを、捨て、愛する男の、命を、救うか。
それとも、誇りを、守り、彼と、共に、ここで、死ぬか。
リリアー-ナは、震える、唇を、ぐっと、噛みしめた。
彼女の、美しい、翠玉の瞳が、一瞬、絶望に、揺らぐ。
だが、次の、瞬間。
その、瞳には、再び、燃えるような、誇りの炎が、宿った。
彼女は、ゼオンの、背後から、一歩、前に、進み出ると、皇帝ヴァルフレートを、真っ直ぐに、見据えた。
その、立ち姿は、囚われの、姫君のものでは、なかった。
それは、自らの、運命を、自らの、意志で、選び取る、一人の、女王の、姿、そのものだった。
朝の、光が、窓から、差し込み、彼女の、燃えるような、赤髪と、その、気高い、横顔を、照らし出す。その、あまりの、美しさと、神々しさに、その場にいた、全ての者が、息を、飲んだ。
「お断り、いたしますわ、皇帝陛下」
彼女の、凛とした、鈴の音のような声が、張り詰めた、部屋の中に、響き渡った。
「わたくしは、誰かの、慈悲によって、生き永らえる、か弱い、女では、ございません。そして、この、わたくしが、愛した、この、誇り高き騎士もまた、女を、盾にして、生き恥を、晒すような、男では、決して、ありませんわ」
彼女は、ゆっくりと、ゼオンの方を、振り返った。
そして、彼にしか、見えないように、にっこりと、この世の、どんな、花よりも、美しく、そして、愛おしげに、微笑んだ。
(わたくしは、あなたと、一緒なら、どこへでも、行けるわ。たとえ、それが、天国でなくても、ね)
その、微笑みが、何を、意味するのか、ゼオンには、痛いほど、わかった。
彼の、胸が、熱くなる。
そうだ、これこそが、俺が、命をかけて、愛した、女だ。
ヴァルフレートは、彼女の、その、あまりにも、気高い、答えに、一瞬、言葉を、失った。そして、次の瞬間、彼の、表情は、賞賛から、冷たい、冷たい、怒りへと、変わった。
「……そうか。ならば、仕方がない。実に、惜しい、才能だがな」
彼が、近衛兵たちに、「やれ」と、冷酷な、命令を、下そうとした、まさに、その、時だった。
ドドドドドドォォォォンッ!!!
離宮全体を、揺るがすほどの、凄まじい、爆発音が、外から、響き渡った。
「な、何事だッ!?」
ヴァルフレートが、驚いて、窓の外を、見る。
離宮の、堅固な、東門が、予期せぬ内側からの、爆発によって、木っ端微塵に、吹き飛ばされた。
ヴァルフレートの、急進的なやり方に不満を抱く帝国内の貴族と、クリストフが水面下で結んだ密約。その内応者による手引きだった。
そして、その混乱に乗じ、まるで好機を待ち構えていたかのように、エルシュタイン王国の、黄金の、獅子の紋章を、掲げた、一団の、騎馬隊が、怒涛の、勢いで、突入してくるではないか。
その、先頭に、立つのは、王の、黄金の鎧を、その身にまとい、自ら、剣を、抜き放つ、国王クリストフ、その人だった。
「――間に合ったようだな、リリアーナ嬢!」
王都から、密かに、進軍していた、クリストフ率いる、本隊。ゼオンたちの、潜入は、彼らが、突入するための、陽動でも、あったのだ。
状況は、再び、一変する。
今や、この、離宮は、エルシュタイン王国軍によって、完全に、包囲されていた。
ヴァルフレートは、忌々しげに、舌打ちをすると、クリストフを、睨みつけた。
「……やるな、エルシュタインの、若造。ここまで、読んでいたか」
「君こそ、なかなかの、策士のようだ、帝国の、若き、獅子よ。だが、一つだけ、読み違えたな」
クリストフは、馬上で、優雅に、微笑んだ。
「彼女は、決して、誰かの、鳥籠に、収まるような、女では、ない、と、いうことを」
帝都の、夜明け。
一人の、美しき、赤髪の令嬢を、巡り、ついに、二人の王と、一人の騎士が、直接、対峙する。
大陸の、歴史が、大きく、大きく、動こうとしていた。




