第23話:戦場への旅立ち
第23話:戦場への旅立ち
ゼオンに、その、心を、無残にも、踏みにじられてから、数日が過ぎた。
二人の間には、まるで、シベリアの、永久凍土のような、冷たく、そして、決して、溶けることのない、氷の壁が、できてしまっていた。
リリアーナは、深く、深く、傷ついていた。
彼の、あの、猜疑に満ちた、冷たい瞳。侮蔑を、隠そうともしない、残酷な言葉。それが、何度も、何度も、フラッシュバックし、彼女の心を、じわじわと、蝕んでいく。
わかっている。彼は、過去の、トラウマに、囚われているだけなのだ、と。
だが、それでも、許せなかった。この、わたくしの、心を、信じてくれなかった、彼のことが。そして、そんな彼に、どうしようもなく、惹かれてしまっている、愚かな、自分自身が。
彼女は、国王からの、あの、あまりにも、重い求婚に対する、返事を、書けずにいた。
そんな、二人の、冷たい、冬のような、関係が続く中。
まるで、二人の、その、ささやかな不幸を、あざ笑うかのように。
王都から、一羽の、疲れ切った早馬が、緊急の、そして、不吉な報せを、携えて、ミストラル領へと、駆け込んできたのだ。
その日、リリアーナは、一人、水路の、建設現場を、視察していた。
そこに、一人の、若い騎士が、血相を変えて、駆け寄ってきた。
「リリアーナ様! 王都より、緊急の、伝令でございます!」
執務室に戻り、渡された、王家の、荘厳な封蝋が、押された、一通の書状。
それに、目を通した、瞬間。
リリアーナの顔から、さっと、血の気が、引いた。
「……隣国、グランツ帝国が、国境を、越え、我が国の、東部要塞、シルバ砦に、大規模な、侵攻を、開始した……」
そして、その書状には、こう、続けられていた。
「……つきましては、ガルダ砦の騎士団は、直ちに、東部戦線へと、向かい、シルバ砦の、防衛軍と、合流せよ」
出撃命令。
戦争。
その、あまりにも、重く、冷たく、そして、現実的な響きが、リリアーナの、今、傷ついて、ささくれ立っていた世界を、一瞬にして、粉々に、打ち砕いた。
彼が、戦場へ、行ってしまう。
人を、殺し、そして、自分も、殺されるかも、しれない、あの、血と、絶望に、満ちた、地獄のような場所へ。
しかも、こんな、最悪な、すれ違いを、起こしたまま。
リリアーナの、その、美しい顔から、血の気が、さっと、引いていく。頭の中が、真っ白に、なり、心臓が、まるで、氷の塊になったかのように、冷たく、そして、重くなった。
その日の、午後。ガルダ砦は、出撃の準備で、これまでにないほど、騒然としていた。
鎧を、磨く、硬い音。剣を、確かめる、鋭い音。馬たちの、不安げな、いななき。
その、全ての音が、リリアーナの耳には、不吉な、不吉な、永遠の、別れの、序曲のように、聞こえていた。
彼女は、館の、自室に、一人、閉じこもっていた。
何も、手につかない。
失うことの、恐怖。
彼が、もう、二度と、この、美しい場所へ、帰ってこないかも、しれない。
その、想像が、まるで、冷たい、遅効性の、毒のように、彼女の全身を、じわじわと、蝕んでいく。
プライドも、意地も、もう、どうでもよかった。ただ、このまま、彼を、行かせてしまったら、わたくしは、一生、後悔する。
彼女は、意を決して、館を、飛び出した。
砦の、彼の、簡素な私室の前に、たどり着く。
その、粗末な扉の前で、彼女は、一度だけ、深呼吸をした。
コン、コン、と、控えめに、ノックをする。
中から、扉が、開かれた。
出てきたのは、旅の支度を、終えたらしい、ゼオンだった。
彼は、そこに、佇む、リリアーナの姿を、認めると、驚きに、わずかに、その、黒い目を、見開いた。
「……リリアーナ」
二人の間に、気まずい、重い、沈黙が、落ちる。
先に、その、沈黙を、破ったのは、リリアーナだった。
「……ごめんなさい」
その、たった一言が、彼女の、震える唇から、こぼれ落ちた。
「わたくしが、悪かったの。あなたの、過去の、その、痛みを、理解しようとも、せずに……。ただ、自分の、プライドばかりを、優先して……。本当に、ごめんなさい」
彼女の、大きな、大きな、翠玉の目から、堪えて、堪えて、堪えきっていた、熱い、熱い、後悔の涙が、堰を切ったように、溢れ出した。
ゼオンもまた、彼女の、その、涙に、心を、激しく、揺さぶられていた。
「いや、違う。俺の方こそ……すまなかった」
彼は、彼女の、震える肩を、そっと、両手で、掴んだ。
「俺は、自分の、心の闇に、負けた。お前の、その、気高い心を、信じることが、できなかった。お前を、深く、傷つけた。……俺は、お前に、愛される資格など、ない、最低の男だ」
彼の声は、深い、深い、自責の念に、震えていた。
リリアーナは、彼の、その、苦しげな、顔を見て、何度も、首を、横に振った。
「そんなこと、ない! わたくしは……わたくしは、あなたが、好きよ……!」
それは、彼女の、生まれて初めての、心からの、魂の、叫びだった。
彼女は、彼の、硬い胸に、その顔を、うずめると、声を、上げて、泣きじゃくった。
「だから、行かないで……! お願いだから、わたくしを、一人に、しないで……!」
それは、決して、言ってはならない、言葉だった。
だが、今の、彼女には、そう、言うことしか、できなかった。
その、あまりにも、痛切な、言葉に、ゼオンは、彼女を、強く、強く、抱きしめ返した。
「……リリアーナ」
彼の声は、真剣で、そして、絶対的な、覚悟に、満ちていた。
「俺は、必ず、帰ってくる。お前の、元へ、必ず、だ」
「……嘘つき」
「嘘では、ない。俺が、なぜ、戦うのか、わかるか」
彼は、彼女の、涙で、ぐしゃぐしゃになった、顔を、両手で、優しく、持ち上げた。
「お前が、ここに、いるからだ」
「お前が、笑って、暮らせる、その、世界を、守るためだ。そして、何よりも……この、俺が、命をかけて、愛した、お前という、たった一人の女の元へ、胸を張って、帰ってくるために、俺は、戦うんだ」
彼は、そっと、彼女の涙を親指で拭うと、懐から、小さな、革のお守りを取り出した。それは、以前リリアーナが彼の手当てをした際に使った、彼女のシャツの、小さな切れ端を、彼が密かに縫い合わせたものだった。
「これがある限り、俺は死なん」
リリアーナは、それを見て、はっと息を飲むと、自らの首にかけていた、小さな革袋を、震える手で、彼に差し出した。中には、彼女が夜なべして編んだ、ミストラルの薬草を詰めた、新しいお守りが入っている。
「……これを、持っていって。わたくしの、魂の、半分だと思って」
ゼオンは、二つのお守りを、その大きな手で、強く、握りしめた。
翌朝。
夜明け前の、まだ、星が瞬く、薄闇の中。
ガルダ砦の前に、出撃の準備を、完全に整えた、黒鎧の騎士団が、整然と、整列していた。
その、先頭に立つ、ゼオンの、その、凛々しい姿を、リリアーナは、丘の上から、たった、一人で、見つめていた。
彼女の目は、もう、泣き腫らしては、いなかった。その、美しい、翠玉の瞳には、悲しみと、不安と、そして、愛する男を、信じて、待ち続けるという、強い、強い、決意の光が、宿っていた。
「――出撃ッ!」
ゼオンの、その、号令が、朝の、冷たい、清冽な空気を、震わせる。
一団は、地響きのような、重い、蹄の音と共に、東の、血煙の、戦場へと、向かっていった。
リリアーナは、その姿が、地平線の、向こうに、完全に見えなくなるまで、ずっと、ずっと、その場に、立ち尽くしていた。
そして、心の中で、何度も、何度も、何度も、叫んでいた。
(……絶対、絶対に、無事に、帰ってきなさいよ!)
(これは、命令よ! あなたの、主君としての、そして……あなたの、たった一人の、女としての、絶対の、命令なんだから……!)
それは、彼には、決して、届くことのない、声。
だが、二人の心は、この、距離を、超えて、確かに、一つに、固く、結ばれている。
リリアーナの、長い、そして、孤独な、戦いが、今、始まった。
愛する男の、無事を祈り、彼の、帰りを、ただ、ひたすらに、信じて、待つという、戦いが。