第21話:王の追い風
第21話:王の追い風
ミストラル領が、領主代行である、一人の、気高い少女と、領民たちの、その、熱い団結によって、黒い噂という、見えぬ敵との、孤独な戦いを、開始していた、その頃。
王都ヴァレンティスでは、その、陰湿な噂は、もはや、単なる、ゴシップの域を、遥かに超え、一つの、無視できない、政治的な問題として、じりじりと、燻り始めていた。
イザベラ伯爵令嬢と、その、取り巻きたちは、連日のように、サロンや、夜会で、ルビードロップの、その、根も葉もない危険性を、まるで、真実であるかのように、声高に、喧伝していた。
その、悪意に満ちた言葉は、実に、巧妙に、人々の、心の奥底にある、漠然とした不安を、煽り、「ヴァインベルク家の、あの、気の強い令嬢は、自らの、手柄と、名声のために、哀れな、領民たちの、健康を、犠牲にしている、悪女なのだ」という、あまりにも、悪質な、印象操作へと、繋がっていった。
国王クリストフは、王城の、静まり返った執務室で、側近である、宰相からもたらされる、それらの、忌々しい報告を、冷徹な、氷のような表情で、聞いていた。
「……愚かな者たちだ」
彼は、小さく、しかし、その場の、空気を、凍りつかせるほど、冷たい声で、呟いた。
彼らが、リリアーナを、攻撃し、その、価値を、貶めることで、国王の、関心を、自分たちに、向けることができると、あまりにも、浅はかにも、信じ込んで、いるのだ。
(あの女は、俺が、見出した、この国で、最高の、宝だ。それを、つまらん、虫けらどもに、傷つけさせて、なるものか)
彼の、空色の瞳の奥で、冷たい、独占欲の炎が、静かに、揺らめいた。
その時だった。
執務室の、重い扉が、控えめに、ノックされ、一人の、若い侍従が、数通の、汚れた手紙を、差し出した。
「陛下、失礼いたします。北の、ミストラル領より、民間の、郵便で、王都の、各所へ、送られてきた、手紙の一部でございます。その、内容に、大変、興味深い点が、ございましたので、ご報告を、と」
「ミストラルから?……見せてみろ」
クリストフは、訝しげに、その、粗末な手紙を、受け取った。
その、拙い、しかし、心のこもった、内容を、読み進めるうちに。クリストフの、その、美しい、唇の端に、驚きと、感嘆とが、入り混じった、微かな、本当に、微かな、笑みが、浮かんだ。
『……おっかさん、元気かい。王都では、酷い、酷い、噂が、流れていると、聞いたが、心配しないで、くれ。俺たちの、姫様は、ご自分の、その、命を、かけて、俺たちの、作る、ルビードロップの、安全を、俺たち、自身に、証明して、くださったんだ……』
『……姉さん、聞いておくれよ。この、赤い実を、毎日、食べるようになってから、うちの、母さんの、長年の、体の調子が、すこぶる、良いんだ。姫様は、これを、呪いの果実なんかじゃない、私たちの、誇りであり、宝なんだと、そう、言ってくれたんだ……』
(……面白い。面白い……! 実に、面白い女だ!)
クリストフは、思わず、声を、上げて、笑った。
リリアーナは、この、王である、自分に、助けを乞うという、最も、簡単な道を選ばなかった。その、代わりに、彼女は、領民たちの、その、心を、一つに束ねることで、この、絶望的な逆境を、自らの手で、乗り越えようと、している。
民衆から、生まれた、この、誠実な、声のうねり。これこそが、国を、内側から、変える、真の力だ。
「ほう。民の声が、既に王都の空気を変え始めているか。面白い。ならば、余がその流れに、決定的な追い風を吹かせてやろう」
クリストフは、玉座から、すっくと、立ち上がった。その、美しい、空色の瞳には、冷徹な、絶対君主としての、決意の光が、燃え盛っていた。
「宰相! 直ちに、王国全土に、布告を、出せ!」
「は、ははっ! い、いかなる、布告を、で、ございますか……!」
「三日後、この、余は、ミストラル領を、公式に、視察する!」
その、衝撃的な報は、まさに、青天の、霹靂として、王都の、社交界を、瞬く間に、駆け巡った。
三日後。国王クリストフを、乗せた、壮麗な馬車は、ミストラル領へと、到着した。
馬車から、降り立った、クリストフは、深々と、頭を下げる、リリアーナを、一瞥りすると、彼女を、通り過ぎ、集まった、領民たちへと、直接、その、声を、かけた。
「面を、上げよ、ミストラルの、誇り高き、民よ。余が、この国の、王、クリストフ・フォン・エルシュタインで、ある」
「王都にて、お前たちの、この、土地に関する、よからぬ、噂を、耳にした。だが、それと、同時に、お前たちの、その、誠実な、声も、確かに、この、余の元へ、届いている。よって、この、余の目で、直接、真実を、確かめに、参った」
彼は、威厳に、満ち満ちた声で、言い放った。
「案内せよ。お前たちが、呪いの果実と、呼ばれている、その、“ルビードロップ”とやらを、この、余に、見せるのだ」
リリアーナと、トーマスに、案内され、クリストフは、ルビードロップが、たわわに、実る、畑へと、その、一歩を、踏み入れた。
彼は、その、美しく、輝く、赤い実を、一つ、自らの、その、美しい手で、摘み取った。
そして、固唾を飲んで、見守る、全ての人々の、前で、彼は、その実を、一切の、ためらいもなく、一口で、食べた。
「……ほう。この、鮮烈な、酸味と、それを、追いかける、芳醇な、甘みの、見事な、調和。……これが、呪いの果実、だと? 王都の、愚か者どもは、これほどの、極上の美味を、知らずに、生きてきたと、いうのか」
彼は、そう言うと、隣に立つ、呆然とする、リリアーナに、向き直った。
「リリアーナ嬢。この、ソースとやらも、試させて、もらおうか」
館へと、場所を移し、クリストフは、ソースを、一口、食べると、満足げに、深く、深く、頷いた。
「……見事だ。実に見事な、味だ。これほどの、逸品が、なぜ、今まで、王家に、献上されて、いなかったのか、不思議で、ならん」
彼は、そこで、わざとらしく、宰相へと、その、鋭い視線を、向けた。
「宰相! 王都に戻り次第、ただちに、布告を出せ! 『ミストラル領にて発見された“ルビードロップ”は、王家がその安全性を保証し、今後の発展を注視するものである。この作物を不当に貶める噂を流す者は、王家への反逆と見なす』と!」
「は、ははーっ!」
宰相が、その場に、平伏する。
国王自らが、その安全性を、保証する。これ以上に、強力な、お墨付きはない。
クリストフは、呆然と、立ち尽くす、リリアーナに、悪戯っぽく、微笑みかけた。
「どうだね、リリアーナ嬢。余の、“視察”は、君たちの、その、気高い戦いの、助けに、なったかな?」
リリアーナは、言葉を、失ったまま、ただ、深く、深く、頭を、下げることしか、できなかった。
この、若き、底知れぬ王は、ただ、噂を、打ち消すだけでなく、ミストラル領に、これ以上ないほどの、名誉を、もたらして、くれたのだ。
その、恩は、あまりにも、あまりにも、大きい。
王都へ帰還する直前、クリストフは、宰相や騎士たちを下がらせ、リリアーナと二人きりで話す時間を持った。
「陛下、この度の、ご恩、何と、お礼を申し上げてよいか……」
「礼は、無用だ。王として、当然のことをしたまで」
クリストフは、穏やかに言うと、ふと、真剣な眼差しで、彼女を見つめた。
「だが、リリアーナ嬢。これで、全てが解決したと、思うな」
「……と、申しますと?」
「君と、君の領地が、王の、寵愛を受けた。それは、他の、有力貴族たちにとって、面白いはずが、ない。特に、商業ギルドと、深く結びついている、マルスデン侯爵あたりは、君を、新たな、政敵として、見なすだろう」
彼の言葉は、甘い勝利の美酒に、酔いかけていたリリアーナの頭を、冷たい水で、引き締めるようだった。
「光が、強ければ、影も、また、濃くなる。王都の、政治とは、そういうものだ。君は、これから、新たな、そして、より、陰湿な戦いに、身を、投じることになるやもしれん」
彼は、そこで、一度、言葉を切った。
「……だが、恐れることは、ない。君には、この、私がついている」
その、空色の瞳が、リリアーナを、射抜く。
「君が、望むなら、いつでも、私の元へ、来るといい。君を、貶めようとする、全ての、愚かな者たちから、私が、守り抜いてやろう」
その言葉は、どこまでも、優しく、そして、どこまでも、甘い、罠のようだった。
リリアーナは、ただ、深く、頭を下げることしか、できなかった。国王の、庇護という、強大な力の、本当の重さを、彼女は、今、改めて、痛感していた。