第20話:信じる心
第20話:信じる心
ゼオンの、その、逞しい腕の中で、リリアーナは、しばらくの間、まるで、時が、止まってしまったかのように、ただ、固まっていた。
彼の、硬い胸板は、冷たい、鋼の鎧越しでも、わかるほど、温かかった。
彼を、今、突き動かしているのが、騎士としての、堅苦しい義務や、あるいは、過去への、感傷的な贖罪などではない、もっと、純粋で、まっすぐで、そして、どうしようもなく、不器用な、想いであることが、その、ぎこちない、しかし、力強い抱擁から、痛いほど、伝わってきた。
(この人は……本当に、本気で、この、わたくしのことを……)
その、あまりにも、明白な事実に、彼女の心は、大きく、大きく、揺さぶられた。
エドワードの、あの、醜い裏切りによって、固く、固く、閉ざしてしまったはずの、心の扉が。この、不器用な、鉄仮面の男の、その、どこまでも、まっすぐな優しさによって、少しずつ、少しずつ、こじ開けられていくのを、感じていた。
「……離して」
しかし、リリアーナの、その、素直じゃない唇から、出たのは、またしても、拒絶の言葉だった。彼女は、そっと、彼の胸を押し、その、温かい腕の中から、名残惜しむように、抜け出した。顔が、まるで、炎のように、熱くて、彼の、その、真剣な顔を、まともに、見ることが、できない。
「……すまん」
ゼオンは、一歩、後ずさり、バツが悪そうに、視線を、逸らした。また、彼女を、追い詰めてしまったのだろうか、と、後悔の色が、その、彫刻のような横顔に、浮かんでいる。
だが、リリアーナは、今度は、逃げなかった。彼女は、一度、深く、深く、息を吸い込むと、意を決して、顔を上げた。
「……ありがとう」
その声は、まるで、蚊の鳴くような、小さな、小さな、声だった。だが、それは、確かに、彼女の、震える唇から、紡ぎ出された、心からの、感謝の言葉だった。
ゼオンは、驚いて、彼女を見た。
リリアーナは、頬を、ルビードロップのように、真っ赤に染めながらも、彼の、その、黒い瞳を、まっすぐに、見つめ返した。
「でも、やっぱり、これは、わたくしたち、自身の、問題よ。あなたや、国王陛下の、その、大きすぎる力を、借りずに、この、ミストラルの、わたくしたちの力だけで、解決したいの」
それは、彼女の、最後の、最後の、意地であり、そして、何ものにも、代えがたい、誇りだった。
ゼオンは、そんな、彼女の、どこまでも、気高い、その、瞳を見つめ、やがて、小さく、しかし、確かな、頷きを、返した。
「……わかった。だが、忘れるな。俺は、いつでも、お前の、背後を、守っている」
その言葉は、もはや、騎士団長としての、ものではなかった。一人の、男が、心から、愛する女性に、捧げる、静かで、しかし、決して、揺らぐことのない、力強い、誓いの言葉だった。
二人の間に、張り詰めていた、冷たい、冬の氷が、ようやく、完全に、溶け始めた、瞬間だった。
翌日。
リリアーナは、その、心に、新たな、そして、熱い決意を、宿して、問題解決へと、乗り出した。
王都の、あの、陰湿な噂に、対抗するには、噂で、返すのではない。
動かぬ、絶対的な、事実を、突きつけるしか、ない。
そして、その、事実は、この、ミストラルの地で、わたくしたち、自身の、この手で、作り出すのだ。
彼女は、まず、村の、古びた鐘を、自らの手で、打ち鳴らし、領内の、全ての者を、村の広場へと、集めた。
集まった、領民たちの顔には、依然として、暗い、暗い、不安と、疑念の色が、浮かんでいた。自分たちが、丹精込めて、我が子のように、育て上げた、美しい作物が、「呪いの果実」と、呼ばれている。その、残酷な事実は、彼らの、素朴な、誇りを、深く、深く、傷つけていた。
「みんな、聞いてちょうだい」
リリアーナは、集まった、領民たちの前に、すっくと立ち、静かに、しかし、その、場にいる、全ての者の、心に、届くように、力強い声で、語りかけた。
「王都で、わたくしたちの、この、ルビードロップについて、酷い、酷い、噂が、流れていることは、あなたたちも、もう、知っているわね。でも、わたくしは、あなたたちに、信じてほしいことが、あるの」
彼女は、一人、一人の顔を、見渡した。
「わたくしは、この、ルビードロップを、心の底から、信じている。あなたたちが、汗水、流して、育てた、この、赤い実の、その、力を、信じているの。これは、呪いの果実なんかじゃない。わたくしたちの、希望の、そして、誇りの果実よ」
彼女の、その、熱い言葉に、領民たちは、ざわめいた。
「しかし、姫様……。この土地で、疫病が、流行ったのは、紛れもない、事実だ……」
「そうだ。あれが、本当に、この、赤い実の、せいじゃないと、どうして、言い切れるんだ?」
不安と、恐怖に、満ちた声が、あちこちから、上がる。
リリアーナは、その、声に、怯まなかった。
「疫病の、本当の原因は、井戸水の、汚染だった。それは、王都から、いらっしゃった、宮廷の、お医者様方も、はっきりと、証明してくださった、事実よ。でも、そうね、言葉だけでは、人の心に、一度、染み付いてしまった、恐怖は、簡単には、消せないのかもしれないわ」
彼女は、そこで、一度、言葉を切った。
「だから、わたくしは、証明したいの。この、わたくしの体で、この、わたくしの命で、この、ルビードロップが、安全で、そして、わたくしたちの、体を、健やかにしてくれる、素晴らしい、素晴らしい、作物だということを!」
そう、高らかに、宣言すると、リリアーナは、誰もが、息を飲む、驚くべき行動に、出た。
彼女は、集会所の前に、山と積まれていた、買い手のつかなくなった、売れ残りの、ルビードロップの、大きな籠へと、歩み寄った。そして、その中から、最も、太陽の光を浴びて、真っ赤に、熟した、美しい実を、一つ、その、華奢な手に、取った。
「ひ、姫様、何を、なさるおつもりですか!? いけません!」
セバスチャンが、青ざめた顔で、悲鳴に近い声を上げて、止めようとする。
だが、リリアーナは、それを、片手で、毅然と、制すると、集まった、全ての領民が、固唾を飲んで、見守る、その、前で。
その、美しい、赤い実を、ためらうことなく、ぱくりと、一口で、その、小さな口に、放り込んだのだ。
そして、ゆっくりと、その、甘酸っぱい果肉を、咀嚼し、ごくりと、飲み込んだ。
しん、と、広場が、静まり返る。
誰もが、息をすることさえ、忘れて、彼女の、その、姿を、見つめている。
リリアーナは、にっこりと、まるで、悪戯好きの、少女のように、可愛らしく、微笑んでみせた。
「……美味しいわ。やっぱり、わたくしたちが、作った、この、ルビードロップが、世界で、一番、美味しいわね」
その、あまりにも、大胆で、そして、自分の、命さえも、賭けた、パフォーマンス。
それは、どんな、雄弁な、演説よりも、領民たちの、疑心暗鬼に、凝り固まっていた心を、強く、激しく、そして、深く、揺さぶった。
この、若き姫君は、本気だ。
自分たちが、丹精込めて、作った、この、作物を、自分の、その、命を、賭けてまで、信じようと、している。
「わたくしは、今日から、毎日、毎日、この、ルビードロップを、食べ続けるわ」
リリアーナは、きっぱりと、宣言した。
「一週間後、そして、一ヶ月後、この、わたくしが、今と、全く、変わらず、元気に、この場所に、立っていたら……それが、何よりの、証拠に、なるでしょう? 呪いの果実だなんていう、馬鹿げた、くだらない噂が、真っ赤な、嘘っぱちだという、動かぬ、証拠に、ね」
その、時だった。
領民たちの、中から、一人の、腰の曲がった、老婆が、おぼつかない、足取りで、リリアーナの元へと、歩み寄った。それは、先日の、疫病で、たった一人の、大切な孫を、亡くしかけた、あの、老婆だった。
彼女は、リリアーナの前に、立つと、その、皺だらけの顔を、涙で、濡らしながら、深く、深く、頭を、下げた。
「……姫様。この、わしらを、わしらの、仕事を、信じて、くださって、本当に、本当に、ありがとうございますだ」
そして、彼女は、ルビードロップの籠から、同じように、真っ赤な実を、一つ、取ると、その、震える、皺だらけの手で、それを、ゆっくりと、口へと、運んだ。
「……うめえ。やっぱり、わしらが、作ったもんは、うめえだよ……」
その、老婆の、たった一つの、行動が、引き金になった。
「そうだ! 俺も、食うぞ! 姫様だけに、腹を、括らせるわけには、いかねえ!」
「俺たちの、誇りを、王都の、軟弱な、金持ちどもに、馬鹿にされて、たまるかってんだ!」
「姫様が、信じてくれるなら、俺たちも、自分たちの、仕事を、信じる! この、赤い実を、信じる!」
一人、また一人と、領民たちが、次々と、ルビードロップを、その手に取り、誇らしげに、口にし始めたのだ。
それは、まるで、乾いた、草原に、燃え移る、炎のような、連鎖反応だった。
不安と、疑心暗鬼に、覆われていた、彼らの心に、リリアーナが、その、身を挺して、灯した、「信じる心」という、たった一つの、炎が、一気に、燃え広がっていく。
彼らは、もはや、王都の、悪意に満ちた噂に、怯える、無力な、民では、なかった。
自分たちの、土地と、仕事と、そして、この、気高い、若き指導者を、心から、信じ、共に、戦うことを、決意した、誇り高き、共同体へと、生まれ変わったのだ。
リリアーナは、その、感動的な光景を、涙が、とめどなく、滲む目で、見つめていた。
(ああ、わたくしは、なんて、なんて、素晴らしい人々に、囲まれているんだろう……)
彼女は、王都で、全てを、失ったと、思っていた。だが、この、ミストラルの地で、彼女は、お金や、地位では、決して、決して、買うことのできない、何よりも、尊く、そして、温かい宝物を、手に入れていたのだ。
それは、「信頼」という名の、決して、壊れることのない、強い、強い、絆だった。
その、一部始終を、少し離れた、館の、影から、ゼオンが、見守っていた。
彼の、鉄仮面の下の、表情は、誰にも、読めなかった。だが、その、黒い瞳には、深い、深い、感銘と、そして、彼女に対する、抑えきれないほどの、熱い、熱い、愛情が、確かに、宿っていた。
彼女は、また、やってのけた。
騎士の、その、武力でも、国王の、その、絶対的な権威でもなく。
ただ、ひたむきな、「信じる心」という、目に見えない、力だけで、人々の、頑なな心を、動かし、一つに、束ねてみせたのだ。
ゼオンは、改めて、自分が、心から、愛した、この、女性の、その、底知れない、強さと、気高さに、胸を、激しく、打たれていた。
その日の、午後。
ミストラル領の、人々の心は、確かに、一つに、なっていた。
彼らは、リリアーナの、指示のもと、一斉に、行動を、開始した。
王都の、陰湿な噂を、自分たちの、この手で、覆すために。
男たちは、腕によりをかけて、ルビードロップを使った、新しい、加工品の開発に、取り組んだ。ソースや、ジャムだけでなく、酢漬けや、この土地で採れる、香辛料と混ぜ合わせた、ピリ辛のペーストなど、保存性が高く、そして、風味豊かな、商品を、次々と、考案していく。
女たちは、ルビードロップの、その、素晴らしい栄養価や、健康への、効能を、自分たちの、素朴な、しかし、心のこもった言葉で、手紙に、書き記し始めた。それは、王都に住む、親戚や、知人に宛てた、拙い、しかし、真実の心が、こもった、手紙だった。
「この、赤い実を、毎日、食べるようになってから、うちの、じいさんの、長年の、腰の痛みが、すっかり、軽くなったんだよ」
「なんだか、お肌の、ツヤが、良くなったって、隣の、奥さんに、褒められたんだ。嬉しいもんだねえ」
それは、科学的な、根拠のない、個人の、感想だったかもしれない。だが、そこには、嘘偽りのない、生活者の、確かな、実感が、あった。
ミストラル領、全体が、まるで、一つの、大きな、温かい家族のように、同じ、目的に向かって、力強く、動き始めた。
黒い噂という、見えない、卑劣な敵に対して、彼らは、剣ではなく、自分たちの、仕事への、誇りと、互いを、信じる心という、この世で、何よりも、強い、武器を、その手に、反撃の狼煙を、高々と、上げたのだ。
リリアーナは、そんな、領民たちの、力強い、輪の中心に、立ち、その、温かい、エネルギーを、その、一身に、浴びていた。
孤独だった、彼女の心は、今や、彼らの、揺るぎない、信頼によって、完全に、満たされていた。
彼女はもう、何も、恐れては、いなかった。




