第2話:辺境という名の流刑地
第2話:辺境という名の流刑地
王城を揺るがした、前代未聞の婚約破棄劇の翌朝。
リリアーナは、ほとんど眠ることなく、重いまぶたのまま、夜を明かした。泣き腫らした目元は、侍女が懸命に冷やしてくれたおかげで、かろうじて人前に出られる程度には戻っていたが、心の奥にぽっかりと空いた空洞は、冷たい隙間風が吹き抜けるばかりだった。朝日が、豪奢な窓掛けの隙間から、金の矢のように差し込んでも、その光は彼女の凍てついた心を温めるには至らない。
朝食も、砂を噛むようで、ほとんど喉を通らなかった。そして、予想通り、父であるヴァインベルク公爵からの、有無を言わせぬ呼び出しを受けた。
リリアーナは、覚悟を決めた。どんな罰でも、受けるつもりだった。
彼女は、背筋を伸ばし、顔を上げ、まるで断頭台へ向かう罪人のような、しかし、女王のような、毅然とした足取りで、父の書斎の重い扉をノックした。
中から聞こえた「入れ」という低く威圧的な声に、彼女は一度だけ目を閉じ、ゆっくりと息を吐いてから、扉を開けた。
書斎の空気は、まるで嵐の前の静けさのように、張り詰めていた。革張りの書物と、古いインクの匂いが混じり合い、この部屋の主の、厳格で、揺るぎない権威を物語っている。
父、アルフレッド・フォン・ヴァインベルク公爵は、窓の外に背を向けて立っていた。その広い背中が、無言のうちに、リリアーナの犯した「罪」を、責め立てているようだった。
「昨夜の件、聞いた」
父は、振り返らないまま、静かに、しかし、地の底から響くような声で切り出した。その声色には、怒りというよりも、冷え冷えとした失望の色が、濃く滲んでいる。
「王太子殿下との婚約は、我が家の、いや、この国の未来をも左右する、重要な政略だった。それを、お前は、たかだか個人の感情で、台無しにした。その意味が、わかるか?」
「……はい」
か細く、しかし、途切れずに答える。リリアーナはただ、床に敷かれた、深紅の絨毯の、複雑な模様を見つめていた。
「殿下の不実については、後ほど、王家に対し、正式に抗議する。だが、お前が、衆目の前であのような真似をしたことも、ヴァインベルク家の名誉を、著しく傷つけたことには、変わりない。誇り高き我が家の娘が、嫉妬に狂った挙句、婚約者に指輪を投げつけるなど……前代未聞の醜態だ」
父の言葉の一つ一つが、鋭い氷の礫となって、リリアーナの心を、容赦なく打つ。
正論だった。全て、彼の言う通りだった。
本来であれば、事を荒立てず、水面下で処理し、家の利益を最大限に守るのが、公爵令嬢としての、正しい務めだったのだ。だが、昨夜のリリアーナに、そんな冷静な判断は、到底できなかった。偽りの愛に踊らされていた自分への怒りと、裏切られた絶望が、彼女から、理性という名の、薄っぺらい仮面を剥ぎ取ってしまったのだ。
リリアーナは、唇をきつく噛みしめ、ただ、父の次の言葉を待つ。
修道院への送致か、どこぞの、冴えない田舎貴族への、厄介払いか。
どんな罰でも、受けるつもりだった。もう、何もかも、どうでもいい。そんな、投げやりな気持ちさえ、あった。
書斎に、重い、息の詰まるような沈黙が落ちる。
やがて、父は、ゆっくりと、こちらを振り返った。その顔には、公爵としての冷徹さと、ほんのわずか、父親としての苦悩が、複雑に混じり合っていた。
「しばらく、王都を、離れろ」
「……はい」
「我が家の、北の領地、『ミストラル』へ行け。あそこの領主が、先月、病で亡くなり、後任がまだ決まっていない。お前のスキャンダルのほとぼりが冷めるまで、お前が、領主代行を、務めるのだ」
ミストラル。
その名を聞いた瞬間、リリアーナの心臓が、どくんと、重い音を立てた。
ヴァインベルク公爵家が所有する領地の中で、最も北に位置し、最も、痩せた土地。冬は長く、ブリザードが吹き荒れ、夏は短く、岩がちな土壌は、作物の栽培を、頑なに拒む。王都の貴族たちの間では、「流刑地」「忘れられた土地」と、揶揄されるほどの、辺境。
父は、自分を、そこに送るというのか。
これは、罰だ。
それも、公爵令嬢から、全ての華やかさを剥ぎ取り、北の荒野の、冷たい泥に、まみれさせるための、最も、屈辱的で、残酷な罰。
父は、リリアーナの反応を、試すように、冷たい視線を向けてくる。
ここで、泣き言を言えば、父の思う壺だろう。
きっと、この、情けない娘は、辺境の厳しさに、耐えきれず、すぐに、泣きついてくるに違いない。そう、高を括っているのだ。
(冗談じゃないわ……!)
リリアーナの心の中で、昨夜、燃え上がった、反骨の炎が、再び、ごう、と音を立てて、勢いを増した。
ここで、怯んで、どうする。
王都に残ったところで、待っているのは、好奇と、憐憫の視線に、晒される日々だ。
それならば、いっそ。
そうだ、これは、チャンスなのかもしれない。
リリアーナは、俯いていた顔を、上げた。そして、父の目を、真っ直ぐに、見返した。その翠玉の瞳には、もはや、涙の痕跡はなく、まるで、鍛え上げられた鋼のような、強い、強い、意志の光が、宿っていた。
「――お受けいたしますわ、お父様」
その、凛とした声に、父が、わずかに、目を見開く。予想外の、返答だったのだろう。
「望むところで、ございますわ。王都の、この、息の詰まるような社交界で、偽りの笑顔を、振りまき続けるのは、もう、うんざりですもの」
彼女は、あえて、挑発的な、しかし、どこまでも優雅な笑みを、唇に浮かべた。
「男に媚び、愛を乞うような、か弱いだけの女を演じるのは、わたくしの、性には、合いませんの。これからは、わたくし自身の力で、生きていきたいのです。ミストラルは、そのための、絶好の舞台では、ございませんこと?」
その言葉は、半分は、父への、精一杯の強がりだった。
だが、残りの半分は、今、この瞬間に生まれた、偽らざる、本心だった。
エドワードも、イザベラも、噂好きの貴族たちもいない場所で、新しい人生を始める。
それは、罰などではない。
神が、わたくしに与えてくれた、最高の、好機ではないか。
リリアーナの、毅然とした態度に、父は、一瞬、言葉を失ったように見えた。そして、やがて、諦めたように、あるいは、何かを試すように、深いため息を、一つ、ついた。
「……好きにするがいい。だが、覚えておけ。ミストラルは、お前が考えているほど、甘い土地ではないぞ。泣きついてきても、すぐには、助けてはやれんからな」
「ご心配には、及びませんわ。わたくし、お父様が、思っているよりも、ずっと、丈夫にできておりますので」
リリアーナは、これ以上ないほど、完璧な淑女の礼をしてみせる。その姿には、傷ついた令嬢の、面影はどこにもなかった。あるのはただ、未知の挑戦に、胸を躍らせる、一人の、強い女性の姿だけだった。
出発の準備は、驚くほどの、迅速さで進められた。
父は、まるで、厄介払いを急ぐかのように、三日後の出発を、命じた。
リリアーナは、クローゼットに、ずらりと並ぶ、膨大な数のドレスや、宝石箱に眠る、きらびやかな宝飾品のほとんどを、王都の屋敷に、残していくことに決めた。それらは、未来の王太子妃として、完璧な人形であるために用意された、美しくも、窮屈な枷だった。彼女は、レースや、フリルで飾られた、柔らかなドレスに、そっと別れを告げた。乗馬服や、丈夫な木綿でできた、動きやすい服を選ぶ。甘い、ありきたりな恋愛小説ではない。農業技術や、土木工学、薬草学といった、専門書を、トランクに、詰め込んだ。
唯一の供として、幼い頃から、リリアーナに仕えてきた、老執事のセバスチャンが、同行を許された。白髪を、きれいに撫でつけた彼は、リリアーナが、荷造りする姿を、痛ましそうな、目で見守っていた。
「姫様、本当に、ようございますのですか。ミストラルは、それは、それは、厳しい土地と、聞き及んでおりますが……。あのような場所で、姫様が、お一人で……」
心配そうに、眉を寄せるセバスチャンに、リリアーナは、書物の山から、顔を上げ、力強く、微笑んでみせた。
「いいのよ、セバス。わたくしは、もう、守られるだけの、籠の中の、雛鳥じゃないわ。これからは、自分の翼で、飛ばなければ、ならないの。それに、一人じゃないわ。あなたがいるじゃない」
「……姫様」
セバスチャンは、感極まったように、目を伏せ、深く、頭を下げた。「この、セバスチャン、命に代えましても、姫様を、お守りいたします」
出発の朝。
公爵家の、きらびやかな紋章が入った、豪奢な馬車ではない。幌のついた、質実剛健な、長旅用の馬車が、玄関前に、用意されていた。見送りに来たのは、父と、母、そして、数人の使用人だけ。ほんの数日前まで、彼女の周りを、賑わせていた、取り巻きたちの姿は、どこにもない。
馬車に乗り込む直前、母が、そっと、リリアーナの手を握った。その手は、冷たく、震えていた。
「リリアーナ……辛くなったら、いつでも、帰っていらっしゃい。お父様には、わたくしから、話しますから」
涙ぐむ母に、リリアーナは、静かに、首を横に振った。
「お母様、ありがとう。でも、わたくしは、きっと、大丈夫。それに……お父様や、王都の皆さまを、見返してやらないと、気が、済みませんもの。もう、あのきらびやかなドレスは、わたくしには似合いませんわ」
精一杯の、強がり。でも、それが、今の、リリアーナを支える、ただ一つの、熱い、原動力だった。
馬車は、ガタン、と大きな音を立てて、動き出した。
窓の外に、見慣れた、王都の街並みが、流れていく。華やかな大通り、きらびやかなショーウィンドウ、そして、遠くに見える、白亜の王城。その全てが、過去の自分を、閉じ込めていた、美しくも、窮屈な、鳥籠のように、見えた。
(さようなら、偽りの愛に泣いた、わたくし)
(さようなら、誰かの、付属物でしかなかった、わたくし)
馬車が、重々しい音を立てて、王都の門をくぐり抜け、北へと続く、街道に入った時、リリアーナは、深く、深く、息を吸い込んだ。土と、草の匂いが混じった、新しい空気が、肺を、満たしていく。それは、王都の、香水と、見栄と、欺瞞の匂いとは、全く違う、素朴で、力強い、生命の香りだった。
「見てなさい、エドワード。お父様。そして、王都の、皆さま」
リリアーナは、北の荒野へと続く、地平線に向かって、誰にも聞こえない声で、しかし、はっきりと、呟いた。
「わたくしは、辺境の地で、朽ち果てるような、女じゃないわ。この手で、わたくし自身の、楽園を、創ってみせる。男にも、家柄にも、頼らず、たった一人で、輝いてみせるんだから……!」
その誓いは、北の荒野を渡る、冷たい風に乗って、遥か、彼方へと、響き渡っていった。
赤髪の公爵令嬢の、孤独で、しかし、希望に満ち溢れた、挑戦が、今、静かに、幕を開けたのだった。