第19話:黒い噂と見えぬ敵
第19話:黒い噂と見えぬ敵
嵐の夜の、あまりにも、痛々しい、告白劇から、数週間。
ミストラル領は、疫病という、長く、暗いトンネルを、ようやく抜け出し、再び、ささやかな、活気を、取り戻し始めていた。浄化された、井戸の水は、領民たちの、命の源として、安定して、供給され、人々の顔色も、日に日に、良くなっている。中断されていた、水路の建設も、再開され、男たちの、力強い、掛け声が、再び、谷間に、響き渡っていた。
全てが、元通りに、いや、以前よりも、良い方向へと、向かっている。
周りから見れば、そう、見えただろう。
しかし、その、穏やかな日常とは、全く、裏腹に。
リリアーナの、心の中だけは、ずっと、ずっと、重く、分厚い、鉛色の曇り空に、覆われたままだった。
あの日以来、ゼオンとの関係は、最悪なまでに、ぎくしゃく、していた。
彼は、リリアーナに、その、魂からの告白を、無残にも、拒絶された後、まるで、何事も、なかったかのように、再び、「氷の騎士団長」という、分厚く、そして、冷たい、鉄の仮面を、その、美しい顔に、被ってしまった。
リリアーナと、顔を合わせても、交わすのは、業務連絡に、必要な、最低限の、そして、何の、感情も、こもっていない、言葉だけ。
その声は、以前よりも、さらに、冷たく、そして、遠く、感じられた。彼の、あの、夜の闇のように、黒い瞳が、彼女の、姿を、捉えることは、もう、二度と、なかった。
彼は、ただ、ミストラル領の、治安維持という、与えられた任務を、まるで、精巧な、機械のように、淡々と、そして、完璧に、こなしているだけ。その、姿は、リリアーナに、彼が、かつて、言った、「私情はない」という、あの、残酷な言葉を、嫌というほど、思い出させた。
リリアーナもまた、その、天よりも高い、プライドにかけて、意地でも、彼に、話しかけようとは、しなかった。
(これで、いいのよ。ええ、これで、いいの。わたくしたちは、もともと、こういう、関係だったじゃない)
彼女は、自分に、何度も、何度も、そう、言い聞かせた。
恋愛感情などという、面倒で、厄介で、心を、かき乱すだけのものが、なければ、余計なことで、悩むことも、傷つくこともない。
領主代行と、騎士団長として、ただ、仕事上の、ドライな関係を、保てば、それで、いいのだ、と。
だが、その、必死の、強がりとは、裏腹に。
彼女の、胸の奥には、常に、小さな、小さな、氷の棘が、刺さったような、鈍い、鈍い、痛みが、居座り続けていた。
時折、ふと、彼の、あの、広い背中を、見かけると、胸が、きゅっと、締め付けられる。
彼が、他の騎士と、何でもないように、談笑しているのを、見るだけで、なぜか、無性に、腹が立ち、そして、泣きたくなるほど、寂しくなる。
そんな、あまりにも、矛盾した、自分自身の、感情に、リリアーナは、苛立ち、そして、途方に、暮れていた。
そんな、二人の、冷たい、冬のような、関係が続く中。
遠い、王都から、新たな、そして、より、陰湿な、嵐の予兆が、届けられた。
ミストラル領の、産品を、王都で、販売してくれていた、あの、人の良い行商人から、一通の、緊急の手紙が、届いたのだ。
その、手紙には、信じがたい、そして、あまりにも、悪意に満ちた、内容が、記されていた。
『リリアーナ様、ご無沙汰しております。王都での、ルビードロップの評判は、陛下が、お墨付きを、与えてくださったこともあり、依然として、上々でございます。しかし、近頃、極めて、由々しき、悪質な噂が、流れ始めておりますので、一刻も早く、ご報告せねばと、筆を、取った次第です』
リリアーナは、心臓が、どくんと、嫌な音を立てるのを、感じながら、続きを読む。
『――先日、ミストラル領で、発生した、あの、恐ろしい疫病は、何を隠そう、あの、“ルビードロップ”が、本当の、原因だった、というのです。あの、美しい、赤い実は、見た目は、綺麗だが、実は、ミストラルの、呪われた土地の、邪気を、たっぷりと、吸って育つ、“呪いの果実”であり、食べ続ければ、やがては、体を、内側から、蝕み、恐ろしい、病を、引き起こす、と……』
手紙が、リリアーナの、震える手の中で、くしゃり、と、無残な音を、立てた。
全身の、血が、逆流するような、激しい、激しい、怒り。
「……なんですって……?」
喉から、絞り出すような、声が、漏れる。
馬鹿げている。荒唐無稽だ。
ルビードロップが、疫病の、原因であるはずが、ない。疫病の、本当の原因は、井戸水の、汚染だったと、宮廷の、医師団によって、とっくに、証明されているでは、ないか。
しかし、手紙は、さらに、衝撃的な、事実を、告げていた。
『この、悪意に満ちた噂は、まるで、計算されたかのように、瞬く間に、王都の、貴族たちの、奥方様の、サロンから、広まり、今では、人々は、ルビードロップを、気味悪がって、買い控えを、始めております。先日まで、あれほど、熱狂していたのが、まるで、嘘のようでございます。噂の、出所を、探りましたが、極めて、巧妙に、情報が、操作されており、特定には、至っておりません。しかし、この、噂を、最も、声高に、そして、楽しげに、吹聴しているのが、あの、イザベラ伯爵令嬢と、その、取り巻きたちであることは、間違い、ございません。彼女は「あのヴァインベルクの女は、王太子殿下も王都の栄華も自ら捨てた愚か者。そのくせ、陛下方に色目を使うとは、どこまで厚かましいのかしら」などと、自らの劣等感を投影するかのように、語っているそうでございます』
イザベラ。
その、忌まわしい名を、聞いた、瞬間。リリアーナの中で、全ての、点が、一本の、黒い、悪意の線で、繋がった。
エドワードの、元々の、浮気相手。
そして、あの、夜会で、自分が、王太子と、国王の、両方から、寵愛されているかのように、見えたことを、根に、持っていた、あの、陰険な女。
彼女が、この、わたくしを、貶めるために、こんな、悪質で、卑劣な、デマを、流しているのだ。
イザベラは、知っているのだ。
ルビードロップが、この、ミストラル領にとって、そして、この、わたくしにとって、どれほどの、希望の光であるかを。
だからこそ、その、光を、根絶やしに、しようと、している。
「……あの、性悪女……っ!」
リリアーナは、怒りで、奥歯を、ギリリと、強く、噛みしめた。
これは、単なる、嫌がらせではない。
ミストラル領の、経済基盤を、そして、皆が、ようやく、掴みかけた、未来を、根こそぎ、破壊しようとする、明確な、宣戦布告だ。
彼女は、すぐさま、セバスチャンと、トーマスを、呼び出し、対策を、協議した。
「姫様、これは、あまりにも、卑劣な、所業……!」
「王都の、連中は、一体、どこまで、腐っているのでございますか!」
セバスチャンも、トーマスも、その、老いた顔に、憤りを、隠せない。
「国王陛下に、この、事実を、ご報告し、厳正な、対処を、お願いしては、いかがでございましょうか?」
トーマスの、その、もっともな提案に、リリアーナは、静かに、首を、横に振った。
「ダメよ。確固たる、証拠が、ないわ。ただの、根も葉もない、噂だと言われれば、それまでよ。それに……」
彼女は、クリストフの、あの、全てを見透かすような、空色の瞳を、思い出していた。
(これ以上、あの男に、借りなど、作りたくない……)
国王に、頼れば、彼はおそらく、喜んで、助けてくれるだろう。だが、それは、彼への、依存を、さらに、深めることに、繋がる。それでは、彼の、美しい、駒になる道へと、一歩、また一歩と、近づいていくだけだ。
「この問題は、わたくしたち、自身の、この手で、解決しなければ、ならないのよ」
リリアーナは、きっぱりと、そう、言った。
しかし、解決への、道は、全く、見えなかった。
王都から、遠く、遠く、離れた、この、辺境の地から、一度、広まってしまった、悪意の噂を、打ち消すことなど、できるはずも、ない。たとえ、疫病の原因が、井戸水であったという、公式な事実を、公表したところで、面白おかしい、スキャンダラスな噂を、信じたがる、愚かな人々には、届かないだろう。
事実、数日後には、王都からの、商人たちの足は、ぱったりと、途絶えてしまった。山のように、収穫された、美しい、ルビードロップは、買い手が、つかないまま、倉庫に、虚しく、積まれていく。
領民たちの間にも、次第に、暗い、暗い、不安と、動揺が、広がり始めた。
「姫様、王都での、あの、噂は、本当に、嘘っぱちなのか……?」
「俺たちの、この、ルビードロップが、呪いの、果実だなんて……。そんなこと、あるわけ、ねえよな……?」
希望の、象徴だったはずの、あの、美しい赤い実が、今や、不吉な、存在として、彼らの、純朴な心を、じわじわと、蝕み始めていた。
リリアーナは、必死に、彼らを、励ました。
「そんな、根も葉もない、くだらない噂、信じる必要は、ないわ! これは、わたくしたちの、宝よ! 時が、経てば、必ず、真実は、明らかになるんだから!」
気丈に、そう、振る舞いながらも、彼女の心は、焦りと、どうしようもない、無力感で、押しつぶされそうだった。
見えない、敵からの、陰湿な、攻撃。
それは、剣を、交える、直接的な戦いよりも、ずっと、ずっと、厄介で、そして、人の心を、内側から、蝕んでいく。
どうすれば、いいのか。打つ手が、何一つ、ないまま、ただ、無情に、時間だけが、過ぎていく。
リリアーナは、夜も、ろくに、眠れず、一人、執務室で、頭を、抱える日が、増えていった。
そんな、彼女の、苦悩し、憔悴しきった姿を。
ゼオンは、遠くから、ただ、黙って、見つめていた。
王都での、悪質な噂のことも、彼の耳には、もちろん、入っていた。それが、リリアーナを、深く、深く、追い詰めていることも、痛いほど、わかっていた。
だが、彼には、何も、できなかった。
あの、嵐の夜。彼女に、拒絶された。
「あなたの、助けなんて、必要ない」
その、悲しい言葉が、まるで、呪いのように、彼の、行動を、固く、固く、縛り付けていた。
下手に、手を出せば、また、彼女の、その、高いプライドを、傷つけ、彼女を、さらに、追い詰めることに、なるかもしれない。そう、思うと、彼は、一歩を、踏み出すことが、できなかったのだ。
彼は、ただ、騎士団長としての、任務を、黙々と、こなし、彼女が、助けを、求めてくるのを、じっと、息を殺して、待つことしか、できなかった。それは、彼にとって、まさに、拷問に、近い、苦しい時間だった。
ある、月のない、暗い夜。
すっかり、憔悴しきった、リリアーナが、ふらつきながら、自室に、戻ろうと、薄暗い廊下を、歩いていると、曲がり角で、誰かと、危うく、ぶつかりそうになった。
「……きゃっ」
「……すまん」
そこに、立っていたのは、ゼオンだった。
気まずい、重い、沈黙が、二人の間に、落ちる。
リリアーナは、すぐに、彼から、視線を逸らし、何も言わずに、通り過ぎようとした。
だが、その時、ゼオンが、ぼそりと、呟いた。
「……一人で、抱え込むなと、言ったはずだ」
その、低い声に、リリアーナの足が、ぴたりと、止まった。
「……余計な、お世話よ」
彼女は、背を、向けたまま、か細い声で、答えた。
「そうか」
ゼオンは、それ以上、何も、言わなかった。
だが、彼が、その場から、立ち去ろうとした、まさに、その、瞬間。
リリアーナの、震える唇から、自分でも、信じられないような、か細い、か細い、声が、漏れた。
「……どうしたら、いいのか、もう、わからないのよ……」
それは、彼女が、生まれて初めて、誰かに、見せた、本物の、弱音だった。
彼女は、ゆっくりと、振り返った。その、美しい、翠玉の瞳は、不安に、頼りなく、揺れ、まるで、迷子の子供のように、助けを求めるように、ゼオンに、向けられていた。
「わたくしは……これから、どうすれば、いいの……?」
その、あまりにも、か弱く、痛々しい、姿に。
ゼオンの中で、今まで、自分を、固く、縛り付けていた、全ての、ものが、ぷつり、と、大きな、音を立てて、切れた。
プライドも、任務も、拒絶された、過去も、もう、どうでも、よかった。
ただ、目の前で、傷つき、助けを、求めている、この、愛しい、女を、守りたい。
その、純粋で、抗いがたい、衝動だけが、彼を、支配していた。
ゼオンは、大股で、彼女の元へと、歩み寄った。
そして、リリアーナが、驚く、間もなく、彼女の、その、震える体を、力強く、しかし、まるで、壊れやすい、ガラス細工を、扱うかのように、そっと、その、逞しい腕の中に、抱きしめた。
「……え?」
リリアーナの、体が、彼の、腕の中で、びくりと、硬直する。
「……一人では、ないと、言っている」
ゼオンは、彼女の、耳元で、低い、しかし、確かな、力強い声で、囁いた。
「俺が、いる。……お前が、俺を、必要としないと、しても、俺は、ここに、いる」
それは、甘い、愛の告白では、なかった。
だが、どんな、甘い言葉よりも、リリアーナの、凍てつき、ささくれ立っていた、心を、じんわりと、温かく、溶かしていく、力強い、誓いの言葉だった。
見えない、敵との、孤独な戦いに、疲れ果てていた、彼女の心に、ようやく、確かな、希望の光が、差し込んできた、瞬間だった。




