第16話:眠らない夜
第16話:眠らない夜
王都を出発してからの、帰路は、往路とは、比べ物にならないほど、苛烈を、極めた。
一刻も、早く、ミストラルへ。
その、ただ一つの、焦燥にも似た、想いに、突き動かされ、ゼオン率いる、黒鎧の騎士団は、ほとんど、休憩を取ることもなく、昼夜を問わず、馬を、飛ばし続けた。夜も、最低限の、仮眠だけで、松明の、揺れる赤い明かりを頼りに、獣道を、進んだ。
リリアーナも、馬車の中で、激しく揺られながら、一睡も、することが、できなかった。窓の外を、飛ぶように流れていく、暗い、暗い、闇を見つめながら、彼女の心は、常に、遠い、北の故郷のことで、いっぱいだった。
(みんな、どうか、無事でいて……。お願いだから……。わたくしが、帰るまで、持ちこたえて……)
ただ、祈ることしかできない、自分の、無力さが、もどかしくて、たまらない。領民たちの、苦しむ顔が、次々と、幻のように、脳裏に浮かんでは、消え、その度に、彼女の、繊細な心は、まるで、鋭いナイフで、抉られるかのように、痛んだ。
そんな、彼女の、痛々しいほどの、様子を。
ゼオンは、すぐ、そばで、感じ取っていた。
彼は、自ら、リリアーナの乗る、馬車の、すぐ横につき、常に、彼女の、その、小さな気配に、全神経を、尖らせていた。時折、馬車の窓から、見える、彼女の横顔は、冷たい月明かりの下で、青白く、その、美しい翠玉の瞳には、深い、深い、憂いと、絶望的な不安の色が、宿っていた。
(何か、声を、かけてやりたい……)
だが、不器用な、彼には、気の利いた、慰めの言葉など、一つも、思い浮かばなかった。彼に、できるのは、ただ、ひたすらに、馬を、速く、速く、走らせ、一秒でも、早く、彼女を、目的地に、届けることだけだった。
不眠不休の、地獄のような、強行軍の末。
一団は、ついに、ミストラル領の、境へと、たどり着いた。
領都の、小さな村が、見えてきた時、リリアーナは、息を、飲んだ。
村は、まるで、全ての命が、吸い取られてしまったかのように、死んだように、静まり返っていた。いつもなら、畑仕事に出る、人々の姿や、子供たちの、無邪気な、はしゃぎ声が、聞こえるはずの、時間なのに、人の気配が、ほとんど、ない。家々の、粗末な扉は、固く、固く、閉ざされ、煙突から、立ち上る、か細い煙も、まばらだった。
村全体が、重く、淀んだ、死の空気に、包まれている。
その光景は、リリアーナが、王都で、恋い焦がれるように、思い描いていた、希望に満ちた故郷の姿とは、あまりにも、かけ離れていた。
馬車が、領主の、古びた館の前に、着くと、リリアーナは、それが、完全に、停止するのも、待たずに、扉を、蹴破るように、開けて、飛び出した。
「トーマス! セバス! みんなは、一体、どこにいるの!?」
館から、よろよろと、駆け寄ってきた、執事代行のトーマスは、数日、見ない間に、まるで、十歳も、一気に、歳をとってしまったかのように、やつれ、その、顔色は、土気色だった。
「ひ、姫様……! お、お戻りで、ございましたか……!」
彼は、リリアーナの、その、気迫に満ちた姿を見ると、その場に、崩れ落ちそうになるのを、必死で、堪えた。
「状況を、説明して! 病人は、今、どこに、いるの!?」
「村の、集会所を、臨時の、診療所として、使っております。ですが、医者も、おりませんし、薬も、もう、ほとんど、なく……。日に日に、病人の数は、増える一方で……」
トーマスの声は、絶望に、かすれていた。
リリアーナは、彼の、その、か細い言葉を、最後まで聞かず、踵を返して、集会所へと、走り出した。
その、粗末な扉を、開けた、瞬間。彼女の目に、飛び込んできたのは、まさに、この世の、地獄としか、言いようのない、光景だった。
薄暗い、集会所の床には、汚れた藁が、敷き詰められ、そこに、何十人もの、領民たちが、苦しげな、呻き声を上げながら、ところ狭しと、横たわっていた。熱に、浮かされた、真っ赤な顔、胸を、かきむしるように、激しく、咳き込む音、そして、なすすべもなく、看病する、家族の、絶望的な、すすり泣く声。
死と、病の、独特の、甘く、腐ったような匂いが、室内に、充満していた。
リリアーナは、その、あまりにも、悲惨な光景に、一瞬、足が、すくんだ。
だが、彼女は、すぐに、唇を、血が滲むほど、強く、噛みしめ、中へと、その、一歩を、踏み出した。
「わたくしよ! リリアーナよ! 王都から、今、戻ってきたわ!」
彼女の、凛とした声に、人々が、弱々しい、しかし、確かな、希望の光を宿した、視線を、向ける。
「姫様……!」「姫様が、戻ってきて、くださった……!」
その、声に、応えるように、リリアーナは、すぐさま、行動を、開始した。
「まずは、患者の、症状を、正確に、把握するわ! 熱が、特に高い者、呼吸が、ひどく、苦しそうな者、意識が、朦朧としている者を、優先的に、手当てするのよ!」
彼女は、次々と、的確な指示を、飛ばしながら、自らも、患者、一人一人の元へ、その、綺麗なドレスの裾が、汚れることも、厭わず、膝をつき、その、熱い額に、手を当て、弱々しい、脈を、取った。
(高い熱、激しい咳、そして、一部の、重症患者には、呼吸困難の症状……。間違いない。これは、ただの風邪なんかじゃない。肺炎に近い、重い、重い、呼吸器系の、感染症……)
前世の、わずかな知識が、彼女の、頭の中で、けたたましく、警鐘を、鳴らす。
原因は、細菌か、あるいは、未知の、ウイルスか。もし、これが、強い、感染力を持つ病なら、このままでは、ミストラルは、本当に、全滅しかねない。
「とにかく、換気と、衛生管理を、徹底してちょうだい! 患者が、使った食器は、必ず、煮沸消毒すること! 看病する者も、こまめに、石鹸で、手を洗うのよ!」
彼女は、現代の、公衆衛生の、ごく、ごく、基礎的な知識を、必死で、人々に、伝えた。
その時、集会所の、入り口に、ゼオンが、音もなく、立っていた。彼は、騎士団の部下たちに、王都から、運んできた、物資の搬入を、指示し終えると、リリアーナの様子を、見に来たのだ。
彼が、そこで、目にしたのは、まるで、歴戦の、野戦病院の、指揮官のように、的確に、そして、懸命に、動き回る、リリアーナの姿だった。
その、小さな、華奢な体の、いったい、どこに、これほどの、気力と、胆力が、秘められているというのか。彼は、改めて、この、リリアーナという、女性に、畏敬の念を、抱いた。
リリアーナは、ゼオンの存在に、気づくと、彼に、駆け寄った。
「騎士団長殿! あなたの、その、力を、貸してほしいの!」
「……何なりと、言え」
「屈強な、男手を、集めて、村にある、全ての井戸を、徹底的に、調べてほしいの! もしかしたら、この、病の、本当の原因は、わたくしたちが、毎日、口にしている、水に、あるのかもしれないわ!」
感染症の、最も、基本的な原因として、水の汚染は、真っ先に、疑うべき、可能性の一つだった。リリアーナは、そこに、一縷の望みを、託したのだ。
「……承知した」
ゼオンは、短く、しかし、力強く、答えると、すぐさま、部下たちを、集め、リリアーナの、指示通り、村中の、井戸の調査へと、向かった。
そこから、眠らない、長い、長い、夜が、始まった。
リリアーナは、集会所に、泊まり込み、不眠不休で、患者たちの、看病に、あたった。熱で、うなされる者の、汗を拭い、渇いた唇に、水を含ませ、苦しみに、泣き叫ぶ、幼い子供を、その腕に、優しく、抱きしめて、震える声で、子守唄を、歌ってやった。
その姿は、もはや、気位の高い、公爵令嬢のものでは、なかった。それは、民の、苦しみに、どこまでも、寄り添う、慈愛に満ちた、聖母の、姿、そのものだった。
彼女が、ミストラルに、わずかに、持ち込んだ、薬草も、すぐに、底を、つき始めた。それでも、彼女は、決して、諦めなかった。気休めにしか、ならないと、わかっていても、解熱効果のある、薬草を煎じ、一人、一人に、飲ませて、回った。
夜が、さらに、更け、多くの人々が、極度の疲労で、眠りに落ちる中、リリアーナだけが、揺れる、蝋燭の灯りを頼りに、患者たちの間を、亡霊のように、歩き続けていた。
体力は、とっくの昔に、限界を、超えているはずだった。頭は、熱い霧に、包まれたように、朦朧とし、足は、まるで、鉛の塊のように、重い。
ふと、ベッドの傍らに、屈み込んだ、一人の老婆が、弱々しく、彼女の、ドレスの裾を、掴んだ。
「姫様……もう、どうか、お休みくだせえまし……。姫様まで、倒れてしまわれますだ……」
「大丈夫よ、おばあさん」
リリアーナは、優しく、微笑みかけた。
「わたくしは、丈夫なことだけが、取り柄なんだから」
しかし、その、気丈な言葉とは、裏腹に、彼女の体は、もう、限界だった。立ち上がろうとした、その瞬間、ぐらり、と、視界が、大きく、大きく、揺れ、彼女の体は、バランスを、失った。
(……倒れる……!)
そう、思った、瞬間。
逞しい、鋼のような腕が、彼女の体を、力強く、しかし、どこまでも、優しく、支えた。
「……一人で、背負うな、と、言ったはずだ」
耳元で、聞こえたのは、ゼオンの、低く、そして、心配の色を、隠せない、声だった。
いつの間にか、彼は、井戸の調査を、終え、彼女の、背後に、音もなく、立っていた。その、逞しい体からは、冷たい、夜の空気と、そして、懐かしい、土の匂いがした。
「……うるさい」
リリアーナは、彼の、硬い胸に、顔をうずめるような、形になりながら、か細い、猫のような声で、悪態をついた。
「わたくしは、大丈夫だって、言ってるでしょ……。離して……」
「大丈夫な者が、そんな、死人のような、顔を、しているか」
ゼオンは、彼女を、支えたまま、ゆっくりと、集会所の、隅にある、粗末な椅子へと、彼女を、運んだ。
「少し、休め。これは、命令だ」
その声には、有無を、言わせぬ、絶対的な響きが、あった。
リリアーナは、もう、彼に、反発する、気力さえ、残ってはいなかった。彼女は、椅子に、座らされると、そのまま、彼の、広い肩に、こてん、と、小さな頭を、もたせかけた。
「……井戸は、どうだったの……?」
「いくつかの、古い井戸で、底に、奇妙な、色の泥が、溜まっていた。そして、水が、ひどく、濁っている場所も、あった。おそらく、これが、原因だろう」
「……そう」
原因が、わかった。その事実に、リリアーナは、わずかに、安堵した。だが、汚染された水を、飲んでしまった、人々を、これから、どう、救えばいいというのか。
その、あまりにも、絶望的な状況に、彼女の目から、ずっと、ずっと、こらえていた涙が、一筋、ぽろりと、こぼれ落ちた。
「……ごめんなさい」
彼女は、嗚咽を、漏らした。
「わたくしが、もっと、早く、水質管理を、徹底していれば……。わたくしが、あの、王都になんて、行かずに、ずっと、ここに、いれば……みんなを、こんな、酷い目に、遭わせずに、済んだかもしれないのに……っ」
それは、彼女が、ずっと、胸の内に、一人で、溜め込んでいた、深い、深い、後悔と、自責の念だった。
ゼオンは、何も、言わなかった。
ただ、黙って、彼女の、か細く、震える肩を、その、大きな手で、そっと、壊れ物を、扱うかのように、包み込むように、抱いた。
その手は、常に、剣を握る、硬く、ごつごつとした、武骨な手だった。
だが、今、リリアーナに、伝わってくるのは、不器用ながらも、彼女を、労り、慰めようとする、確かな、確かな、温かさだった。
その、温かさに、リリアーナの、心のダムが、ついに、決壊した。
彼女は、まるで、迷子の、子供のように、声を、上げて、泣きじゃくった。領民たちの前では、決して、見せることのできなかった、弱い、弱い、素顔の自分を、この、不器用な、騎士の前でだけは、さらけ出していた。
ゼオンは、そんな彼女を、ただ、静かに、そして、力強く、抱きしめ続けた。
どれほどの、時間が、経っただろうか。
リリアーナの、激しい嗚咽が、やがて、すう、すう、という、穏やかな、寝息に、変わっていた。彼女は、泣き疲れて、彼の肩に、寄りかかったまま、眠ってしまったのだ。
ゼオンは、その、涙の跡が、痛々しい、あどけない寝顔を、見下ろしながら、自分の、黒い外套を、脱ぐと、そっと、彼女の、冷えた体に、掛けてやった。
彼は、動かなかった。
彼女を、起こさないように、まるで、石像のように、その場に、座り続けた。
眠らない、絶望の夜は、まだ、続く。
だが、その、深い、深い、闇の中に、確かな、絆という名の、小さな、小さな、灯火が、確かに、灯っていた。
不器用な騎士の、その、腕の中で、赤髪の姫は、ほんの、束の間だけ、安らかな、夢を見ている。それは、この、ミストラルの人々が、再び、心からの、笑顔を、取り戻す、希望の、夢だった。