第13話:過去からの亡霊
第13話:過去からの亡霊
国王クリストフとの、嵐のような謁見は、リリアーナにとって、予想外すぎる結果に終わった。
厳しい叱責を、覚悟していた身からすれば、破格の、王家からの支援の約束は、まさに、僥倖としか、言いようがなかった。
しかし、彼女の心は、少しも、晴れやかではなかった。
あの、若き国王の、全てを、見透かすかのような、鋭い瞳。
彼女という、人間を、まるで、面白い、新しい玩具か、あるいは、極めて有用な、チェスの駒のように、品定めする、あの、視線。
それが、リリアーナには、どうにも、落ち着かなかったのだ。彼の、その、過剰なまでの、好意の裏に、何か、底知れない、別の意図が、隠されているような気がして、ならなかった。
謁見の後、彼女は、王城内に、用意された、壮麗な客室へと、案内された。ヴァインベルク公爵家の、自分の屋敷に、戻ることもできたが、クリストフが、「王城に、滞在し、ミストラル改革の、その、細部について、余と、ゆっくりと、語り合う機会を、設けようではないか」と、その、穏やかで、しかし、逆らうことを、決して許さない、口調で、半ば、命令するような形で、彼女を、引き留めたからだった。
客室は、ミストラルの、あの、古びた館とは、比べ物にならないほど、豪奢だった。ふかふかと、柔らかな天蓋付きのベッド、足が、深く、沈むほど、毛足の長い絨毯、そして、精緻な、芸術品のような、彫刻が施された、調度品の数々。
だが、リリアーナにとっては、その、全てが、美しく、そして、冷たい、黄金の鳥籠のようにしか、感じられなかった。
「……疲れたわ……」
部屋に、一人になると、どっと、凄まじい疲労が、彼女の、華奢な体を、襲ってきた。謁見での、極度の緊張の糸が、切れたせいだろう。彼女は、窓辺に置かれた、ビロード張りの長椅子に、深々と、その身を、沈め、窓の外に、広がる、きらびやかな王都の街並みを、ぼんやりと、眺めた。
(これから、一体、どうなるのかしら……)
国王の支援は、ありがたい。ミストラルにとっては、これ以上ない、追い風だ。だが、それは、同時に、王家の、厳しい監視下に、置かれることをも、意味する。
自分のペースで、誰にも、邪魔されず、自由に、領地改革を、進めてきた彼女にとって、それは、新たな、そして、窮屈な枷と、なる可能性も、あった。
その日の、夜。
「リリアーナ様、宰相閣下より、今宵、開かれます、夜会への、ご招待状が、届いております」
セバスチャンが、銀盆に、乗せた、一通の、優雅な招待状を、恭しく、差し出した。それは、王家の、遠縁にあたる、伝統ある侯爵家が、主催する、小規模ながらも、極めて、格式の高い、夜会だった。
リリアーナは、それを見て、美しい眉を、不機嫌そうに、ひそめた。
「夜会ですって?……断ってちょうだい。そんな、くだらないものに、出席する気は、これっぽっちも、ないわ」
綺麗なドレスを着て、意味のない、上辺だけの会話を交わし、腹の内を、探り合う。そんな、社交界の、欺瞞に満ちた、茶番には、もう、うんざり、こりごりだったのだ。
しかし、セバスチャンは、困りきったように、その、白い頭を、横に振った。
「それが、姫様……。この、招待状には、国王陛下からの、ご伝言が、添えられておりまして……。『リリアーナ嬢の、王都への、輝かしい帰還を祝し、ささやかな、歓迎の場を、設けた。ぜひとも、その、美しい顔を、出すように』と」
「……っ! あの、策士な国王、余計なことを……!」
リリアーナは、思わず、忌々しげに、悪態をついた。
これは、もはや、招待ではない。事実上の、強制参加だ。国王からの、直々の「ご招待」を、断ることなど、できるはずも、ない。
彼は、謁見の最後に、言っていたではないか。「お前の、その、本当の輝きを、見抜けなかった、愚か者どもに、見せつけてやると、いい」と。
彼は、本気で、彼女を、社交界という、華やかな、しかし、魔物の巣食う、舞台に、引きずり出し、そこで、起こる、波乱を、高みの見物で、楽しむつもりなのだ。
(なんて、悪趣味な、王様かしら……!)
リリアーナは、深いため息を、一つ、つくと、諦めたように、すっくと、立ち上がった。
「……わかったわ。出席、しましょう」
こうなれば、腹を、括るしかない。逃げるのではなく、受けて、立ってやる。
「セバス、ミストラルから、持ってきた中で、一番、ましなドレスを、用意して。それから、王城の、侍女を、一人、借りられないか、聞いてみてちょうだい。さすがに、この、ボサボサの髪を、自分で、結い上げて、夜会に、出るわけには、いかないわ」
彼女の、その、翠玉の瞳に、再び、戦場へ、赴く、戦士のような、強い、強い、光が、宿った。
数時間後。
夜会の、会場である、侯爵家の、壮麗なホールは、シャンデリアの、煌びやかな光と、貴族たちの、華やかな、しかし、どこか、空虚なざわめきに、満ちていた。
そこに、リリアーナ・フォン・ヴァインベルクが、その、凛とした姿を、現した、瞬間。
会場の、全ての空気が、一瞬にして、凍りついた。
全ての、視線が、まるで、磁石に、引き寄せられるように、ホールの、入り口に立つ、一人の、女性に、釘付けになる。
彼女が、纏っていたのは、ミストラルの、澄み切った夜空を、思わせる、深く、そして、静かな、紺色のドレス。過度な、宝飾品や、レースの飾りは、一切ない。だが、その、最高級の、シルクの生地と、完璧に、計算され尽くした、カッティングは、彼女の、しなやかで、引き締まった肢体を、他の、どんな、派手なドレスよりも、美しく、そして、気高く、引き立てていた。
燃えるような、赤髪は、高く、高く、結い上げられ、その、雪のように、白い、うなじの、清らかさを、際立たせる。化粧は、ごく、薄いが、それが、かえって、彼女の、意志の強い、顔立ちと、翠玉の瞳の、その、鮮やかな輝きを、強調していた。
そして、何よりも、人々が、息を飲んだのは、彼女が、その、全身から、放つ、雰囲気、そのものだった。
以前の、彼女は、王太子の、婚約者として、どこか、張り詰めた、完璧な、淑女を、演じるための、硬さが、あった。
だが、今の、彼女は、全く、違う。
その、堂々とした、立ち姿には、大地に、深く、根を張る、大樹のような、揺るぎない、落ち着きと、何者にも、媚びることのない、絶対的な、自信が、満ち溢れていた。
辺境での、厳しい労働が、彼女から、令嬢らしい、か弱さを、奪い去り、その、代わりに、生命力に、満ち満ちた、野性の、輝きを、与えていたのだ。
「まあ、リリアーナ様……?」
「随分と、お変わりになった、ようだわ……。まるで、別人……」
囁き声が、会場の、あちこちで、交わされる。それは、以前のような、憐憫や、嘲笑の色を、含んではいなかった。ただ、純粋な、驚きと、そして、触れてはならないものに、触れるかのような、わずかな、畏怖の念が、混じっていた。
リリアーナは、そんな、視線の、集中砲火を、ものともせず、堂々と、ホールの中へと、足を踏み入れた。
彼女は、誰とも、視線を合わせず、壁際の、テーブルに、向かい、一杯の、冷たい果実水を、手にした。今日は、厄介ごとに、巻き込まれず、ただ、国王から、与えられた、招待客としての、義務を果たし、できるだけ、早く、さっさと、退散するつもりだった。
しかし、運命の女神は、彼女に、平穏な、夜を、与えては、くれなかった。
「――リリアーナ」
背後から、かけられた、その、甘く、しかし、彼女にとっては、呪いのように、聞こえる、声。
その声を、聞いた瞬間、リリアーナの背筋に、氷のように、冷たいものが、走った。
ゆっくりと、本当に、ゆっくりと、振り返ると、そこには、彼女が、この世で、最も、会いたくないと、思っていた人物が、立っていた。
王太子、エドワード。
陽光を、閉じ込めたような、金色の髪に、少女漫画から、抜け出てきたかのような、甘いマスク。数ヶ月前と、何も、変わらない、その、美しい姿。しかし、その表情には、以前の、自信に満ちた、傲慢さは、なく、どこか、憔悴しきった、焦りの色が、浮かんでいた。
「……王太子殿下。ごきげんよう」
リリアーナは、完璧な、淑女の笑みを、顔に貼り付け、どこまでも、当たり障りのない、挨拶を返した。心の中では、今すぐ、踵を返して、逃げ出してしまいたいという、衝動に、駆られていたが、彼女の、最後の、プライドが、それを、許さなかった。
エドワードは、そんな、彼女の、氷のように、冷たい態度にも、構わず、一歩、彼女へと、近づいた。その、青い瞳は、熱っぽい、病的な光を、帯びて、リリアーナを、まるで、貪るかのように、見つめている。
「リリアーナ、君は……綺麗になったな。いや、以前から、もちろん、美しかったが、今の君は、まるで、別人だ。何と、言うか、その……内側から、輝いている」
「お褒めに、あずかり、光栄ですわ」
リリアーナの返事は、相変わらず、どこまでも、冷ややかだった。
エドワードは、そんな、彼女の態度に、わずかに、苛立ったように、その、整った眉を、寄せた。
「リリアーナ、頼む。少しだけで、いい。話が、したいんだ」
「申し訳ございませんが、殿下と、お話しすることは、わたくしには、何も、ございませんわ」
「そんなことは、ない! あの、夜のことは……全て、私が、私が、愚かだったんだ! イザベラとは、もう、とっくに、別れたんだ。あの女は、ただの、火遊びだった。私の、心が、本当に、求めていたのは、君だけだったんだと、君が、いなくなって、初めて、気づいたんだよ!」
その言葉は、あまりにも、身勝手で、そして、聞くに堪えないほど、見苦しいものだった。
リリアーナは、心の底から、湧き上がってくる、激しい軽蔑を、かろうじて、その、無表情の、仮面の下に、隠した。
(今更、何を……。この男は、まだ、何も、わかっていないのね……)
この男が、失ったものが、ヴァインベルク家の、強力な後ろ盾だけでは、ないということを。彼女の、純粋な信頼と、愛情を、自らの、その手で、踏み躙ったという、その、事実の、重さを。
「殿下」と、リリアーナは、静かに、しかし、きっぱりと、言った。「過去を、蒸し返すのは、どうか、おやめくださいまし。わたくしは、もう、あなたの、婚約者では、ございません。わたくしには、ミストラルという、守るべき、大切な、場所が、ございますので」
「ミストラル、だと? あの、何もない、辺境の土地が、この、次期国王である、私よりも、大事だと、言うのか!?」
エドワードの声が、ヒステリックに、大きくなる。周囲の貴族たちが、遠巻きに、しかし、興味津々で、この、元婚約者同士の、痴話喧嘩に、聞き耳を立てているのが、わかった。
「リリアーナ、頼む! 君の、その、素晴らしい価値が、私には、今なら、わかるんだ! どうか、私の、妃となり、この国を、共に、治めては、くれないか! 君の、その、類稀なる才能、あんな、辺境の地で、腐らせておくには、あまりにも、惜しすぎる!」
彼は、リリアーナの、その、白い腕に、懇願するように、触れようとした。
リリアーナが、その手を、反射的に、しかし、激しく、振り払おうとした、まさに、その、瞬間。
すっと、二人の間に、もう一つの、長身の影が、音もなく、割って入った。
「――王太子殿下。その、ご婦人は、あまり、お望みでは、ないように、見受けられますが?」
低く、そして、落ち着いた、声。リリアーナが、はっと、顔を上げると、そこには、国王クリストフが、穏やかな、しかし、有無を、言わせぬ、絶対的な威圧感を、湛えた、奇妙な笑みを、浮かべて、立っていた。
「あ、あ、兄上……!」
エドワードは、彼が、最も、敬愛し、そして、最も、恐れる、兄の、突然の登場に、狼狽し、蛇に睨まれた、蛙のように、後ずさった。
クリストフは、そんな、情けない弟を、一瞥りすると、すぐに、リリアーナへと、その、空色の視線を、戻した。
「やあ、リリアーナ嬢。夜会は、楽しんでいるかね? どうやら、厄介で、しつこい、過去の亡霊に、捕まってしまったようだね」
その言葉は、明らかに、エドワードを、痛烈に、揶揄するものだった。
「国王陛下……」
「さあ、こちらへ、来なさい。君に、紹介したい人物が、いる」
クリストフは、有無を、言わさず、リリアーナの、その、小さな手を、取ると、彼女を、エドワードの前から、引き離した。その手つきは、どこまでも、紳士的だったが、逆らうことを、決して許さない、王者の、力強さが、あった。
リリアーナは、なすすべもなく、彼に、導かれて、その場を、離れる。背後で、エドワードが、悔しげに、唇を、噛む、気配を、感じながら。
クリストフは、彼女を、ホールの喧騒から、少し離れた、静かな、テラスへと、連れ出した。
涼しい、夜風が、火照った、リリアーナの頬に、心地よい。
「……ありがとう、ございました、陛下。お助け、いただきまして」
リリアーナは、不本意ながらも、礼を、言った。
「構わんよ。愚かな弟の、躾は、兄である、私の、大事な、役目だからな」
クリストフは、優雅に、肩を、すくめた。
「しかし、驚いたな。彼は、まだ、君に、それほどの、未練があったとは。まあ、今の、君の、その、輝きを、見れば、それも、無理は、ないかもしれんが」
彼は、心から、楽しげに、リリアーナの姿を、眺めた。その、鑑定するような、視線に、リリアーナは、再び、居心地の悪さを、感じる。
「陛下、わたくしは、もう……」
「わかっているさ」と、クリストフは、彼女の言葉を、遮った。「君が、過去の、つまらん男に、興味など、ないことは。君が、見ているのは、未来だけだ。……ミストラルの、そして、君自身の、輝かしい未来をな」
その言葉は、まるで、彼女の、心の中を、全て、見通しているかのようだった。
「リリアーナ嬢。君の、その、誰にも、屈しない、凛とした姿は、多くの、男を、惹きつけるだろう。私の、愚かな弟も、その、哀れな、一人に、過ぎん。だが、気をつけたまえ。光が、強ければ、強いほど、その分、影も、また、濃くなるものだ」
それは、優しい、忠告のようでもあり、そして、冷徹な、予言のようでも、あった。
彼は、一体、何を、知っているというのか。
リリアーナは、目の前の、この、美しくも、底の知れない、若き王に、初めて、恐怖に、近い、感情を、抱いた。
彼は、ただ、彼女の才能を、利用しようと、しているだけでは、ないのかもしれない。彼の、その、空色の瞳の奥には、もっと、別の、個人的で、そして、激しい、独占欲に似た、暗い光が、揺らめいているような、気がして、ならなかった。
王都は、やはり、魔窟だ。
過去の、亡霊だけでなく、現在、進行形の、もっと、厄介で、強力な、存在が、彼女に、その、見えない、網を、かけようとしている。
リリアーナは、一刻も、早く、ミストラルの、あの、素朴な、土の匂いが、恋しくなっていた。あの、場所だけが、彼女が、素顔のままで、いられる、唯一の、サンクチュアリなのだと、改めて、痛感する、長い、長い、夜だった。