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第10話:収穫祭の笑顔

第10話:収穫祭の笑顔

 リリアーナが、忌々しい騎士団に護衛され、王都へと、旅立つ、その前夜のこと。

 ミストラル領は、静かな、しかし、確かな、そして、どこか、懐かしいような興奮に、包まれていた。それは、リリアーナの、鶴の一声で、開かれることになった、ささやかな、本当に、ささやかな、収穫祭のためだった。

 領主の館の、荒れ果てていた前庭には、大きな、大きな、焚き火が組まれ、その、温かい光の輪を、囲むように、領民たちが、それぞれ、家から持ち寄った、不揃いな、手作りの長テーブルと、椅子が、並べられている。普段は、まるで、墓場のように、静まり返っている、この場所が、今日だけは、特別な、祝祭の空間へと、姿を、変えていた。

「姫様、本当に、このようなことをして、よろしいのでございますか……?」

 祭りの準備に、奔走するリリアーナの、その傍らで、執事のトーマスが、心配そうに、問いかけた。

「収穫祭など、この、ミストラルでは、もう、何十年も、開かれておりません。食料に、余裕など、ございませんでしたし、皆、日々の、厳しい暮らしで、精一杯でしたから……」

 彼の、その言葉には、長年、この、見捨てられた土地で、生きてきた者の、重い、重い、実感が、こもっていた。祭りは、豊かな、余裕のある者たちのためのもの。自分たちのような、貧しい者には、縁遠い、夢のような、おとぎ話なのだ、と。

 リリアーナは、出来立ての、ルビードロップのソースが、なみなみと入った、大きな壺を、よいしょ、と運びながら、きっぱりと、答えた。

「だから、やるのよ。今まで、できなかったからこそ、やる意味が、あるの」

 彼女は、一度、手を止め、集まってきた、領民たちを、見渡した。水路建設で、真っ黒に日焼けした、男たち。畑仕事で、たくましくなった、女たち。そして、走り回る、幼い子供たち。彼らの顔には、以前のような、暗い、絶望の影はなく、祭りの準備への、期待と、高揚感が、確かに、浮かんでいる。

「収穫を、祝い、日々の、労働を、労い、そして、明日への、活力を、得る。祭りには、そういう、とても、大切な役割が、あるのよ。いいこと? わたくしたち、ただ、生き延びるためだけに、働いているんじゃないの。豊かに、そして、笑って、生きていくために、働いているんだから。忘れちゃ、だめよ」

 その言葉は、トーマスだけでなく、周りで、聞いていた、領民たちの胸にも、深く、深く、響いた。

 そうだ、俺たちは、いつの間にか、忘れてしまっていた。笑うことを、楽しむことを。この、赤髪の、気の強い姫様が、この土地に、来るまで、ただ、息を潜めるように、明日、死なないためだけに、生きていただけだった。

 リリアーナは、ふいと、顔を背け、少し、照れたように、付け加えた。

「ま、まあ! これは、わたくしが、王都に行く前の、ただの、壮行会みたいなものよ! あなたたちが、わたくしの、留守中に、怠けないように、釘を、刺しておくだけなんだからねっ! 勘違いしないでよね!」

 その、あまりにも、彼女らしい、ツンとした物言いに、領民たちからは、くすくす、と、温かい、温かい、笑いが、漏れた。彼らはもう、この、若き、美しき女主人の、素直じゃない、その、優しさを、よく、理解していたのだ。

 陽が、西の山に、ゆっくりと落ち、空が、深い、深い、藍色に染まる頃、収穫祭は、始まった。

 焚き火が、ぱちぱちと、心地よい音を立てて、燃え上がり、周囲を、柔らかな、オレンジ色の光で、照らし出す。テーブルの上には、決して、豪華ではないが、心のこもった、素朴な料理が、ずらりと、並んだ。少し、硬い黒パン、塩茹でしただけの、芋、そして、今日の、主役である、ルビードロップを、ふんだんに使った、料理の数々。

 リリアーナが、教えたレシピで作られた、真っ赤なソースは、パンにも、芋にも、そして、この日のために、村の若者たちが、仕留めてきた、猪の、豪快な焼肉にも、最高の、最高の、相性を、見せた。

「うめえ!」「最高だ!」「姫様、万歳!」「ルビードロップ、万歳!」

 あちこちで、歓声が、上がる。人々は、普段は、めったに、口にできない、ご馳走と、粗末だが、味わい深い、地酒に酔いしれ、肩を組んで、大声で歌い、覚束ない足取りで、踊った。子供たちは、焚き火の周りを、甲高い、歓声を上げて、走り回り、その、愛らしい頬は、ソースと、興奮で、真っ赤に、染まっていた。

 それは、この、ミストラル領が、本当に、何十年ぶりに、取り戻した、「祭り」の、温かい光景だった。

 リリアーナは、そんな、賑わいの輪から、少しだけ、離れた、館の、石の階段に、ちょこんと、腰掛けて、一人、静かに、その光景を、眺めていた。

 彼女の、小さな手には、木の杯に、なみなみと注がれた、水で、薄めた地酒。決して、洗練された、美味とは言えないが、その、素朴で、少し、土臭い味わいが、今の、彼女には、何よりも、心地よかった。

 領民たちの、心からの、笑顔。

 その、一つ、一つが、彼女の、少し、ささくれ立っていた胸に、温かい、柔らかな光を、灯していく。

 王都にいた頃、彼女は、数えきれないほどの、豪華絢爛な、夜会に、出席した。そこには、世界中から、集められた、最高級の料理と、ワイン、美しい、音楽、そして、きらびやかな、人々が、いた。しかし、そこに、本物の笑顔は、あっただろうか。誰もが、腹の内を、探り合い、見栄と、建前で、塗り固めた、冷たい仮面を、被っていただけでは、なかったか。

 それに比べて、今、目の前に、広がっている、この光景は、どうだろう。

 貧しく、粗末で、洗練とは、程遠い。だが、ここには、嘘がない。偽りがない。誰もが、素顔のままで、笑い、泣き、そして、語り合っている。

 リリアーナは、無意識のうちに、その、形の良い唇に、柔らかな、本当に、柔らかな、笑みを、浮かべていた。それは、王都の令嬢たちが、計算して、浮かべるような、社交用の微笑みではない。心の内から、自然に、込み上げてくる、穏やかで、満ち足りた、本物の笑顔だった。

(ここが……ここが、わたくしの、居場所なのね……)

 彼女は、改めて、そう、確信した。王都へは、行かなければ、ならない。だが、必ず、この、温かい場所へ、帰ってくるのだ、と。

 その、時だった。

 祭りの喧騒から、少し離れた、暗い街道筋を、一団の、騎馬が、音もなく、静かに、進んでいた。ガルダ砦の、騎士団長、ゼオン・ライアスと、その、部下たちだった。彼は、リリアーナを、王都へ、護衛するにあたり、最終的な、打ち合わせと、周辺の、地理を、再確認するために、公務に、かこつけて、ミストラル領を、訪れていたのだ。

「団長、前方で、何やら、灯りが見えます。村で、何か、催し物でも、開かれているようですな」

 部下の一人が、報告する。

 ゼオンは、馬を止め、音と、光がする方角に、その、鋭い目を、凝らした。焚き火の、揺らめく光、人々の、楽しげな声、そして、微かに、夜風に乗って、運ばれてくる、食欲を、猛烈にそそる、芳しい香り。

「……祭り、か」

 ゼオンは、小さく、呟いた。あの、貧しく、死んだような土地で、祭りを開くほどの、余裕が、生まれたというのか。あの、生意気な、公爵令嬢が、この土地に来てから、まだ、数ヶ月しか、経っていないというのに。

 彼は、部下たちに、待機を、命じると、一人、音もなく、馬を降り、祭りの様子が、窺える、茂みの影へと、吸い込まれるように、近づいていった。彼自身、なぜ、そんなことをするのか、よく、わからなかった。ただ、あの、燃えるような、赤髪の令嬢が、領民たちと、どのように、過ごしているのか、確かめたいという、抑えがたい、好奇心があった。

 茂みの、隙間から、ゼオンは、祭りの光景を、目の当たりにした。

 そして、彼の視線は、まるで、磁石に、引き寄せられる、砂鉄のように、輪の中心から、少し離れた場所に、座る、一人の、女性の姿に、釘付けになった。

 リリアーナ・フォン・ヴァインベルク。

 彼女は、きらびやかな、ドレスではなく、いつものように、簡素な、動きやすい服を、身につけていた。だが、燃え盛る、焚き火の光に、照らし出された、その横顔は、ゼオンが、今まで、見た、どんな、高価な宝石よりも、美しく、そして、気高く、輝いて、見えた。

 そして、何よりも、ゼオンの、心を、鷲掴みにしたのは、彼女の、その、表情だった。

 彼が、知る彼女は、いつも、美しい眉間に、皺を寄せ、怒っているか、ふてくされているか、あるいは、精一杯、強がって、ツンと、澄ましているか、その、いずれかだった。

 だが、今、彼の目に、映る彼女は、全く、違った。

 その、唇には、穏やかで、慈しみに、満ち満ちた、笑みが、浮かんでいる。領民たちの、その、素朴な笑顔を、まるで、自分の、喜びであるかのように、どこまでも、優しい目で、見つめている。

 それは、ゼオンが、全く、知らなかった、彼女の、本当の、素顔だった。

 ドクン、と。

 ゼオンの心臓が、大きく、そして、不規則に、跳ねた。

(なんだ……この、胸の高鳴りは……。ただの、我儘な、貴族の娘ではなかったのか……? いや、違う。あんな、太陽のような笑顔を、浮かべる女が、ただの貴族であるはずがない……。あれこそが、俺が……守りたかった、光……?)

 氷のように、固く、凍てついていたはずの、彼の、心の、一番、奥深くで、何かが、音を立てて、溶け始めるような、奇妙で、そして、抗いがたい感覚。

 美しい、と、思った。

 ただ、ひたすらに。

 普段の、あの、猫のように、ツンケンした態度も、不器用な、強がりも、全ては、この、笑顔に、繋がるためのものだったのでは、ないか。そんな、馬鹿げた、考えさえ、彼の頭を、よぎる。

 彼女は、ただの、我儘な令嬢などでは、ない。この、貧しい土地の、人々の心を、掴み、彼らに、笑顔を、取り戻させ、そして、その、中心で、誰よりも、美しい笑顔を、浮かべることのできる、まるで、太陽のような、女性だ。

 ゼオンは、その場に、立ち尽くしたまま、動けなかった。彼女から、目が、離せない。この光景を、永遠に、見ていたいとさえ、思った。

 自分が、今、どんな顔を、しているのか、彼自身には、わからなかった。だが、もし、部下が、彼の顔を見ていたとしたら、鉄仮面と、恐れられた、騎士団長の、見たこともないほど、柔らかな、そして、わずかに、戸惑いを浮かべた表情に、腰を、抜かしていたに、違いない。

 その、時だった。

「おや、あそこに、いらっしゃるのは、ライアス団長殿では、ございませんか?」

 不意に、背後から、穏やかな声を、かけられ、ゼオンは、はっと、我に返った。振り返ると、そこには、老執事の、セバスチャンが、全てを、察したような、優しい笑みを、浮かべて、立っていた。

「せ、セバスチャン殿……」

 覗き見を、していたところを、見つかり、さすがの、ゼオンも、僅かに、狼狽の色を、見せた。

「そのような、暗い所に、おいでにならずとも、どうぞ、こちらへ。姫様も、きっと、お喜びになります」

 セバスチャンは、優しい目で、ゼオンを、祭りの輪へと、誘った。

 ゼオンは、一瞬、ためらった。だが、ここで、断るのも、不自然だ。彼は、意を決して、茂みから、姿を現し、祭りの輪へと、足を踏み入れた。

 彼の、突然の登場に、領民たちは、一瞬、ざわめいたが、リリアーナの姿を、認めると、すぐに、視線が、彼女へと、移った。

 リリアーナは、ゼオンの姿に、気づくと、その、聖母のような、美しい笑みを、一瞬で、消し去り、いつもの、険しい、猫のような表情に、戻っていた。

「……あなた、どうして、こんな所に、いるのよ」

 その声は、再び、氷のように、冷たかった。

 だが、ゼオンには、もう、それが、彼女の、精一杯の、照れ隠しであることが、わかっていた。彼女の、小さな耳が、ほんのりと、赤く、染まっているのを、彼は、見逃さなかった。

 彼は、先ほど、見た、あの、心からの笑顔を、脳裏に、強く、焼き付けながら、いつもの、無表情で、答えた。

「……公務だ。……邪魔をしたな」

 そう言って、踵を返そうとする、ゼオンの腕を、しかし、一人の、村の長老が、酒臭い息で、陽気に、掴んだ。

「まあまあ、団長殿も、一杯、どうですかい! 今日の、この、祭りは、俺たちの、姫様の、おかげなんだ! あんたも、姫様に、世話になったんなら、祝っていくのが、筋ってもんでしょうが!」

「おい、よせ、無礼だぞ!」

 周りが、慌てる中、ゼオンは、ただ、黙って、リリアーナを、見つめた。

 リリアーナは、ちっ、と、小さな、小さな、舌打ちをすると、ぷいと、顔を背けながら、言った。

「……好きにすれば、いいじゃない。ただし、お酒は、一杯だけよ。あなたたち、騎士は、明日も、大事な、仕事が、あるんでしょうから」

 その言葉は、彼らが、ここに、いることを、許すという、彼女なりの、不器用な、意思表示だった。

 ゼオンの口元に、誰にも、気づかれないほどの、本当に、微かな、笑みが、浮かんだ。

 彼は、この、不器用で、素直じゃなくて、けれど、誰よりも、温かい心を持つ、炎のような、赤髪の令嬢に、自分が、もう、どうしようもなく、惹かれ始めていることを、はっきりと、自覚せざるを得なかった。

 北の、辺境で、灯った、収穫祭の火は、氷の騎士団長の、固く、閉ざされた心をも、静かに、しかし、確実に、溶かし始めていた。

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