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第1話:偽りの終焉

第1話:偽りの終焉

 降り注ぐシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に砕けて、無数の星屑を散らしていた。軽やかなワルツの旋律が、貴婦人たちのドレスが擦れる音や、紳士たちの虚ろな談笑と溶け合っている。エルシュタイン王国の建国記念を祝う夜会は、その絢爛豪華さの頂点を迎えていた。

 その光の渦の中心で、一際、人の目を惹きつけてやまない令嬢がいた。

 リリアーナ・フォン・ヴァインベルク。

 燃え上がる炎のような真紅の髪を、勝気なポニーテールに結い上げ、その背筋は公爵家としての誇りを体現するかのように、まっすぐに伸びている。今宵の彼女が纏うのは、夜空の深い紺色を絹布に映したドレス。白いデコルテには、婚約者である王太子エドワードから贈られた大粒のサファイアが、まるで彼女の心を見透かすかのように、冷たい輝きを放っていた。

 しかし、完璧に整えられた淑女の微笑みの裏には、わずかな翳りが落ちている。リリアーナは優雅にグラスを傾けながらも、その翠玉エメラルドの瞳は、落ち着きなく人々を掻き分けていた。

 今日の主役であるはずの、婚約者の姿が見当たらない。

 もう一時間近くになるだろうか。各所の挨拶に回ると言って彼女の元を離れたきり、エドワードは戻ってこなかった。

(別に、心配しているわけじゃないわ。ただ、主役がいないのでは、夜会の格好がつかないだけよ)

 胸の内で、誰にともなく言い訳をする。だが、胸騒ぎは徐々に大きくなり、彼女の心を不穏な影で満たしていく。

「まあ、リリアーナ様。今宵も一段とお美しいですこと」

「王太子殿下も、きっとお喜びでしょうね」

 扇で口元を隠しながら、蜜のように甘く、しかし棘を潜ませた言葉をかけてくる令嬢たち。リリアーナは完璧な笑みを顔に貼り付け、優雅に会釈を返しながら、その視線の裏にある好奇の色を正確に読み取っていた。

 彼女たちの目は、自分を羨んでいるのではない。憐れんでいるのだ。

 その証拠に、少し離れた場所で囁き合う貴族たちの声が、音楽の合間を縫って、残酷に彼女の耳へと届いた。

「……殿下、またイザベラ嬢とご一緒に、テラスの方へ……」

「公の場で少し無防備すぎやしないか? ヴァインベルク公爵令嬢が、あまりにもお可哀想だ」

「あら、何もご存じないのかしら。あの赤髪の方、殿下にとっては、公爵家という『お飾りの宝石箱』でしかないというのに」

 イザベラ。そして、お飾りの宝石箱。

 その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの心臓が、氷の爪で抉られたかのように、鋭く痛んだ。

 イザベラ・フォン・ラングハイム伯爵令嬢。優美な物腰とは裏腹に、他人のものを欲しがることで有名な女。最近、エドワードが妙に親しげにしていると、嫌な噂が立っていた相手。

 そして、お飾り。そう、彼は、リリアーナ本人ではなく、彼女の背景にあるヴァインベルク公爵家の財力と権力しか見ていない。そのことを、彼女は、心のどこかでずっと気づいていた。気づかないふりを、していただけで。

 くだらない。嫉妬など、したくもない。

 リリアーナは、自分にそう言い聞かせ、震えそうになる指先を強く握りしめた。婚約は国が決めたこと。そこに、甘い恋情など、最初からなかったはずだ。エドワードも、次期国王としての立場を、わきまえているはず……。

 だが、その自己欺瞞は、もはや限界だった。

 彼女は誰にも気づかれぬよう、そっと人々の輪を抜け出した。向かう先は、月明かりが差し込む、テラスへと続く回廊。嫌な予感に、足がもつれそうになるのを、必死でプライドで支えながら。

 大理石の回廊は、ひんやりとして、静まり返っていた。テラスへと続く大扉の前で、彼女は足を止める。中からは、ひそやかな男女の話し声が聞こえてきた。

 聞き慣れた、婚約者の声だ。

「……だから、心配することはない。君こそが、私の真実の愛だ、イザベラ」

「まあ、エドワード様、嬉しい……。では、あの赤髪の、気の強い方とは、いつお別れになってくださるの?」

 甘く、まとわりつくような女の声。

「リリアーナか。あれは父上が決めた、ただの政略の駒だ。ヴァインベルクの力は魅力的だがね。私の心は、常に君だけのものだよ。第一、あんな可愛げのない女、抱く気にもなれん」

 世界から、音が消えた。

 ワルツの旋律も、人々の喧騒も、すべてが、遠い世界の出来事になった。リリアーナの耳に届くのは、自分の心臓が、ガラス細工のように、粉々に砕けていく音だけだった。

 ああ、そう。そうだったのね。

 わたくしは、ただの駒。彼の心は、一度たりとも、わたくしのものではなかった。

 今まで彼が囁いた甘い言葉も、贈られた宝飾品も、全ては偽り。ヴァインベルク公爵家を繋ぎとめるための、ただの道具。

 怒りよりも先に、どうしようもないほどの屈辱と、骨身に沁みるような、冷たい悲しみが、彼女の全身を支配した。信じていた自分が、愚かで、惨めで、たまらない。

 しかし、リリアーナ・フォン・ヴァインベルクは、ここで泣き崩れるような、か弱いだけの女ではない。

 彼女は、ゆっくりと、深く、息を吸った。そして、凍てついた心を、鋼のプライドで、塗り固めた。震える指先を強く握りしめ、音も立てずに、大理石の床を踏みしめ、月光の舞台へと、足を踏み入れる。

「お楽しみのところ、大変、失礼いたしますわね。王太子殿下、そして、ラングハイム伯爵令嬢」

 月光を背に、まるで復讐の女神のように立つリリアーナの姿に、寄り添っていた二つの影が、弾かれたように離れた。エドワードは金色の髪を乱し、見たこともないほど狼狽した顔で、目を白黒させている。隣のイザベラは、一瞬驚いたものの、すぐに、勝ち誇ったような、意地の悪い笑みを唇に浮かべた。

「リ、リリアーナ! なぜ、ここに……! いや、違うんだ、これは、その、誤解だ!」

 エドワードが紡ぐ、陳腐極まりない言い訳。それに、リリアーナは、氷点下の微笑を返した。

「誤解? 『真実の愛』という言葉の意味を、わたくし、これまで、違って覚えていたようですわね。ご教授いただき、感謝いたします」

 嫌味をたっぷりと込めた言葉に、エドワードの顔が、青から赤へと、みるみるうちに変わっていく。

 異変に気づいたのだろう。ホールにいた貴族たちが、何事かと、テラスの入り口に集まり始め、ざわめきが、波のように広がっていく。最高の舞台が、整った。

 リリアーナは、もう、慌てふためくエドワードの顔を見なかった。代わりに、自分の左手を見つめ、薬指にはめられた、大粒のダイヤモンドの指輪に、指をかける。これもまた、彼の偽りの愛の、証。

 ゆっくりと、しかし、確かな仕草で指輪を抜き取ると、彼女はそれを、シャンデリアの光に翳し、集まった全ての貴族たちに聞こえるよう、凛とした、鈴の音のような声を、響かせた。

「エドワード・フォン・エルシュタイン王太子殿下!」

 その声の覇気に、会場のざわめきが、ぴたりと止む。皆が固唾を飲んで、この前代未聞の修羅場の行く末を、見守っていた。

 リリアーナは、真っ直ぐに、エドワードの臆病な瞳を見据え、一語一句、明確に告げた。

「この場をお借りしまして、貴方様との婚約を、正式に、破棄させていただきますわ!」

 宣言と共に、リリアーナは、指輪をエドワードの胸元めがけて、投げつけた。銀色の軌跡を描いた指輪は、彼の豪奢な礼服に当たって、カチン、と乾いた、虚しい音を立て、大理石の床へと転がった。

 時が、止まった。

 エドワードの真っ青な顔。イザベラの引きつった笑顔。そして、遠巻きに見守る貴族たちの、驚愕と興奮が入り混じった、無数の視線。

 嘲笑、同情、憐憫、侮蔑。あらゆる感情が渦巻く視線が、槍のように、リリアーナの背中に突き刺さる。

 それでも彼女は、決して、振り返らなかった。

 公爵令嬢として、その身に叩き込まれた、完璧な作法で、優雅に踵を返す。背筋を、天に伸ばすかのように、まっすぐに保ったまま、その場を、去る。

 一歩、また、一歩。まるで、モーゼの奇跡のように、彼女が歩む先の人垣が、割れていく。誰一人、彼女に、声をかける者はいない。

 涙など、見せてやるものか。

 この、リリアーナ・フォン・ヴァインベルクが、衆目の前で、みっともなく、泣き崩れるなど、あってはならない。プライドが、彼女の体を支える、唯一の骨だった。

 どれほどの時間が経っただろうか。

 ようやく、王城内に与えられた自室にたどり着いた瞬間、重い扉を閉ざした背後で、張り詰めていた、全ての糸が、ぷつりと、切れた。

 がくん、と膝から力が抜け、リリアーナは、その場に、崩れ落ちる。

 堪えて、堪えて、堪えきっていたものが、堰を切ったように、頬を伝った。

「……っ、う……ぅぅ……っく……」

 最初は、小さな嗚咽だったものが、やがて、抑えきれない、慟哭に変わる。悔しい。悲しい。虚しい。そして、何より、あんな男を、信じていた自分が、愚かで、惨めで、許せなかった。

 乱暴にドレスの背中の紐を引きちぎるように解き、重い宝飾品を、床に叩きつける。鏡の前に立てば、そこに映るのは、泣き腫らして、見る影もない、みじめな女の顔。

 リリアーナは、鏡の中の、自分を、睨みつけた。濡れた翠玉の瞳の奥で、何かが、燃え上がっていた。それは、悲しみとは違う、もっと、熱く、もっと、激しい、感情の炎だった。

 その時、激しい頭痛と共に、脳裏に見知らぬ光景が、洪水のように流れ込んできた。ビル、自動車、パソコン……そうだ、わたくしは――この世界では失われたはずの、古代の知識を知っている……!

「もう……もう、たくさんよ……!」

 拳を、強く、強く、握りしめる。爪が食い込む掌の痛みが、かえって、彼女の意識を、はっきりとさせた。

「もう、二度と、誰かのために、泣いたりしない……! 男の言葉に、一喜一憂したりなんて、してやらないんだから……!」

 涙はまだ、後から、後から、溢れてくる。けれど、彼女の声は、もう、震えていなかった。

「男なんて、恋愛なんて、こりごりよ! これからは、わたくしのためだけに、生きてやるわ! そうよ、わたくしには知識がある! 土地を蘇らせ、人を豊かにする、この世界では忘れ去られた知識が……! 見てなさい。誰にも媚びず、誰にも頼らず、わたくし自身の力だけで、あの何もない不毛の地さえも、この大陸一の楽園に変えてみせるんだから……!」

 そう宣言したリリアーナの瞳には、過去への決別と、未来への誓いを込めた、荒々しくも、しかし、どうしようもなく、美しい炎が、確かに、燃え盛っていた。

 偽りの愛が死んだ夜、一人の女が、本当の自分として、生きることを誓った、始まりの瞬間だった。

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