第35話 怠惰の王、そして命がけの脱出#3
侵食領域......それはアビス王のみが生み出す特殊な瘴気フィールドだ。
その瘴気を浴びたものは、強制的に体内を魔力で侵食される、貪りつくされる、作り変えられる。
侵食領域は、アビス王ごとに効果が違うとされており、その効果は大罪の名の意味を引き継ぐ。
怠惰のアビス王リュドル=アケディアであれば、その名は「不精」。
魔力に触れたもののあらゆる気力を奪い、やがて生きる活力さえ奪う。
自分の生すらも投げ捨てさせるという「怠惰」の極み。
それがリュドルの侵食領域の効果である。
「しっかりしてください!」
「うぇ? なんだ~、邪魔すんな~。俺は眠いんだ.......ふぁ~~~」
そう言って、ノアが抱える男性隊員は口を大きく開けてあくびをした。
その表情は起き抜けに見せるような表情であり、とても先程まで死の恐怖に怯え走っていた人物とは思えない。
しかし、こうなってしまった原因は、先ほどの緑の死神――侵食領域のせいだ。
それがすぐに答え出るほどには、ノアはその瘴気の効果を実感していた。
緑の死神と対峙した時、ノアは(脳内の)急ブレーキの末、薄皮を掠めるだけで回避できた。
しかしその直後、体に襲い来る筆舌し難い虚脱感。
まるで足の骨が抜かれ、その上で肩から押さえつけられた感覚になった。
首を掠めただけでそうなったのだ。であれば、この男性は恐らく――
「首を刈り取られた......」
侵食領域は魔力であり、物質を透過するため一般的には対策は不可能だ。
しかし一応、魔脈を持つ者に限り、唯一の対策がある。
それは自身の魔力を強く維持することだ。
侵食の魔力は、他者の魔力を侵すことで同じ魔力に書き換える。
それ即ち、アビスと同じ魔力の型になると同義であり、結果、アビス化という現象が始まる。
しかし、魔力で自身の体を覆えば、侵食を防ぐことができる。
もっとも、出来てもせいぜい時間稼ぎ程度だが。
そして、侵食状態には三段階のステージがあり、症状が軽い方から「歪曲」「乱心」「発狂」だ。
言うまでもなく、「発狂」段階になってしまったら、もう復活は望めない。
個人差はあれど、いずれアビスへと成り果てる。
「この人はもう......!」
首が刈り取られた――見た目の状態からの判断で断言はできない。
しかし、進軍の道中で一人の女性が気だるさを訴えた時、見た目に異常はほとんどなかったのにイエローゾーンの手前と診断された。
それを考えれば、その可能性は非常に高く、もしそれが本当なら――それは「死」だ。
即ち、男性は「発狂」段階に入り、命が助かる見込みは無い。
どう助けたところで、この男性はいずれアビスになる。
「――っ!」
ノアの額からこめかみを脂汗が流れる。
恐怖と焦燥感、そして困惑が心の中をごちゃごちゃに引っ搔き回す。
しかし、その感情を整理している時間など無い。
「担ぎなさい!」
その時、一人の女性が叫ぶ声が聞こえた。
その声にノアが頭を跳ね上げると、自分が抱きかかえる男性以外にも数名の隊員が倒れている。
症状はいずれも生の気力を奪われ、夢現に彷徨う廃人だ。
「彼らは特魔隊です! そう簡単にアビスにはなりません!」
そう、声を震わせ、一人の女性隊員を肩に抱えたのは、青のパレス副代表――アリューゼだ。
彼女は誰の方向に向くわけでもなく、ただ自分達が進んできた道を真っ直ぐ見ながら――
「だからこそ、私達は彼らを担ぎ、この場を脱出して――人間としての死を与えます! それが特魔隊の弔い方です!」
「――っ!」
悲観的な発言にも関わらず、その声は力強かった。
鼓膜を突き抜け、魂魄に訴えかけるような言葉に、ノアは思わず息を呑む。
同時に、その言葉を聞いた体は脊髄反射の領域で、男性を小脇に抱え、地面を蹴る。
走る、走る、とにかく走る。一秒でも遠くへ、死の王から距離を通るように。
先程から脳内にオルぺナの声が届いているが、今のノアに反応する余裕はない。
思考が生に縋りつき、そのためだけに意識が割かれる。
「つれないなぁ。なら、面倒だけどこっちから出向くとするか」
ノア達特魔隊を遠くに見ながら、リュドルが呟く。
猫背の姿勢のまま両腕をダランと下げ、そのまま上半身の背骨が抜けたように左右にゆらりゆらり。
ゆらりゆらり、ぐらりぐらり。
まるで風の行方に身を任せるかのように、その体はそっと――消えた。
その場に残るのは蹴った衝撃でめくれたアスファルト、飛び散る土塊、巻き上がる砂煙のみ。
「ノア! 危ない!」
すぐ耳元からアストレアの切羽詰まる声が届く。
その声を聞くよりも速く、ノアはすでに気付いていた。
自分の背後に来る圧倒的「死」の重圧。
心臓が鷲掴みにされ、ただでさえ肺が潰れそうで痛いのに、心臓までキリキリと締め付けられる。
渦中に飲み込まれまいと必死に足掻くノアだが、それよりもアビス王の方が速い。
「氷針!」
ノアに担がれたままのアストレアが、右手を伸ばし、なけなしの魔力で氷の礫を放つ。
ただでさえギャリー戦の後の行使だ。通常よりも二回りも小さい。
それがリュドル相手にどこまで通じるか――
「最低限、キミだけは残ってもらうよ」
当然、無意味だ。
放たれた氷は全てリュドルに直撃しているものの、当たったそばからパリンと砕け散る。
細かくなった氷の破片は風に流れて、キラキラと光を反射させながら消えた。
それどこれろか、アストレアには眼中がないかのように、リュドルは右手を伸ばした。
その手の先にいるのは当然ノアだ。
ノアの背中に、長い袖が捲れて見える青年にしては細く白い腕が、今にも触れそうな距離で迫る。
手が届くまで残り三十センチ、二十センチ、十センチ――
「離れて!」
すぐ近くに迫る「死」にアストレアが鋭く睨みつけながら、右手でノアの服を掴み、左手を横に振ってリュドルの頭を殴る。
何度も何度も何度も、それこそ手から出血し、血で拳がにじむまで。
大きく振りかぶっては打ち付け、その拳の姉を傷つけた恨みを乗せては叩きつけ、怖いものを追い払うように叩き――
「邪魔」
「――あ"あ"あ"ぁぁぁぁ!」
リュドルが左手を軽く振るった瞬間、唐突にアストレアの口から絶叫が飛び出す。
それもそのはず、彼女の肘は曲がってはいけない方向に曲がっているから。
骨こそ飛び出していないものの、肘関節はすぐに内出血で青黒く滲んだ。
左腕から来る壮絶な痛みに、アストレアの顔に苦悶が広がり、大量の脂汗が額から頬を伝った。
「.......っ!」
耳をつんざく断末魔にも似た声に、ノアは奥歯をギリッと噛みしめた。
今にも振り返り、アストレアを傷つけた分の反撃をお見舞いしたい。
しかし、今の自分は両手が塞がっていれば、すぐに反撃に移れる状態じゃない。
焦りが、恐怖が、怒りが、じりじりと思考を、命を脅かしているのがわかる。
自分が今必死に前へと出している足は、特魔隊の責務を果たすためなのか、はたまた恐怖から逃れたい一心なのか、もはやわからない。
ただ、ただ、少しでも、遠くへ。こんな所じゃ終われない。
「落ち着こうぜ、兄弟」
すぐ背後からかけられる声に、ノアは反応しない。
極限の無酸素運動に今にも肺が潰れそうで、喘ぐように空気を吸いながら、眉間にしわ作って走り――
「あんまウチの新人をイジメんでくれ。
尊敬する先輩の隠し玉なんだからよ」
瞬間、アストレアの目の前で瞬きもせず人物が入れ替わる。
まるで最初からその場にいたように現れたのは、筋肉が浮かび上がるほどのピッチリとしたインナーを着て、白衣のようなコートに身を包んだ作戦隊長――マークベルトだ。
先程の一連の流れは、マークベルトが時を止め、その間にリュドルに近づき、攻撃を加えたものだ。
そして、斬り飛ばされたリュドルはというと、道中にあった民家に思いっきり激突しており、瓦礫に身を埋めていた。
辺りには砂煙が舞っている。
「マークベルトさん!」
背後から聞こえた声に、ノアは上半身を捻って振り返る。
ただでさえガタガタの上、火事場の馬鹿力のような状態で走るノアの視界は、もはや霞んでいた。
同時に、走っている影響で視界は上下にブレる。
しかしそれでも、確かに見えた。
同時に理解する――マークベルトの仕草の意味を。
「―――」
マークベルトはノアに向かって横を向き、それでいて右手をサムズアップを見せつけた。
言葉は無い。しかし、それ以上にその仕草が言葉以上の意味を持っていた。
「氷が.......」
アストレアがポツリと言葉を零し、ノアは視線を上に向けた。
上空二十メートル辺りだろうか。
その高さから氷がドーム状に広がっていく。
まるで水面がゆっくり凍り付く光景を早送りしているかのように、空中の水分が凍結し、地面へと降りる。
やがてその白い半球は、サムズアップするマークベルトまで内側へ閉ざし、完全な閉鎖空間を作った。
閉ざされた氷の檻。その中にマークベルト、クルーエル、リュドルの三人を残して。
「姉さん!」
そんな光景を目の前に、アストレアが悲痛な叫びをあげ、必死に右腕を伸ばす。
その表情にあったのは左腕の損傷による苦痛ではなく、一人家族を置いて帰ることになる無力さにも似た感情であった。
そんな彼女の隣で、ノアも同じく口を僅かに開けながら白い半球を眺めていた。
アレは白い形をした墓場だ。
そう感じてしまう自分はどこかおかしいのかもしれない。
しかし、だとすれば、あのマークベルトの死を覚悟した精一杯の虚勢はなんだというのか。
かつてシェナルーク相手に、ほとんどのS級の隊員は命を落としたという。
(マークベルトさん......!)
あのアビス王がシェナルークの同じ実力を持っているかは定かではない。
だがしかし、それでもたったS級二人で勝てるような存在じゃないことは理解できる。
実際に見て、存在を知って、纏う重圧を感じて、本能が理性を追い越して理解した。
ギャリーと戦っていた時とは違う、勝ち筋の見えない。
いや、厳密に言えば、ギャリーと戦っていた時もしっかり見えていたわけじゃない。
しかし、隣にアストレアが居て、抗えていたからこそ、見えた希望だった。
だがどうだ? あの存在に、今のこの状態で何が見える?
真っ暗だ。どこまでも続く闇だ。一歩踏み出すのでさえ恐ろしい。
そんな相手にたった二人、正気じゃない。
「う、ぐぅ.....」
ノアが今にも喉が張り裂けそうになるほど叫びたい声を、奥歯で噛み殺した。
もし叫べば、きっと足は前ではなく後ろに向いてしまうだろう。
しかし、それは残った二人の望むところじゃない。
そして同時に、ノアは二人の真の目的を理解している。
作戦としては、誰か一人でも生きて情報を残すことが与えられた任務だ。
これから迫る脅威に対策するためにも、極めて重要な任務には違いない。
だがそれ以上に、あの二人はきっと隊員が少しでも多く生き延びることを願っている。
だからこそ、その確率を少しでも上げるように、たった二人で殿に出たのだ。
「クソ! クソ! クソオオオオォォォォ!」
逃げ出すしかできない弱さ、何もできない不甲斐なさ、命令に従うしかできない無力感。
自分の体たらくさに怒りが止まらない。そして、涙が止まらない。
目から零れ落ちる涙は、頬を伝うよりも多く、目じりから風に流れ飛んでいく。
ただでさえ霞んでいた視界が、さらに涙でぐじゅぐじゅになって見えづらくなる。
「「「「「ギギャアアアア!!」」」」」
そんな状況の中で、現実は実に厳しい。
怠惰の魔力、そして特魔隊の物音に引き寄せられ、建物の上から、中から、建物同士の細道から、仕舞には建物をぶっ壊して大量のアビスが特魔隊に襲い掛かる。
「倒すことは考えないで! ただ前へ進むことだけを考えなさい!」
先頭を走るアリューゼが、隊員を抱えた状態で正面から襲い掛かるアビスを蹴り飛ばした。
そして背後へと肩越しに振り返ると、全体へ声をかけた。
その声を聞き、両手が塞がって動けないノアはただ避けることだけ専念することに。
左右から容赦なく飛び掛かるアビスを躱し、躱し、時にアストレアにカバーされながら、走り続けた。
止まってはいけない。今止まれば、きっとこの足は止まってしまう。
だから、考えるよりも前へ。疲労で重さを感じるよりも先へ。意思で動かすよりも遠くへ。
「見えた......!」
正面に、最初に入って来た巨大な鉄の扉が見える。
その扉の正面には、先に離脱し門に辿り着いていた隊員達が横並びに立っていた。
「もう少しだ!」「走ることだけに集中して!」「アビスどもは任せろ!」
隊員達の色々な声が飛び交い、一緒に氷の礫や水弾も放たれる。
空中を瞬く間に駆け抜けていくそれらは、容易くアビスの頭部を打ち抜いたり、上半身と下半身を切り離したりして、肉体を維持できなくなったアビスが空中で霧散した。
空中で爆撃が広がる中をノアは駆け抜け、そのまま扉を通過。
隊長と副隊長のおかげで生き残った全員が扉を抜けると、先に戻っていた隊員がアビスを牽制しつつ、扉を閉目始める。
「がっは.......うぇっ、ゴッホゴホ......」
扉を抜けたノアの足はゆっくり速度を落とし、やがて止まった。
瞬間、胸というよりもはや胃から込み上げる激しい痛みに、嗚咽混じりの咳をしつつ、喘ぐように息を吸う。
心臓はもはや触れて確かめるまでもなくバクバクしてることがわかり、足は棒となって動きそうにない。
それでも座り込むこともしなければ、背中を丸めることもしなかったが。
ノアの意識は薄く、両手は痺れ、指先に関しては感覚も乏しい。
力なくダランと下がる腕――右腕からはダラけた男性隊員を落とし、左腕からは魂の抜けたアストレアが滑り降りた。
「っあぐ、ゴホゴホ.......」
逃げ切ったことに達する情けない達成感を感じながら、そっと振り返った。
操作パネルによって自動で閉まる巨大な扉、その隙間から見える大量のアビスのその先――今だ崩れることのない白いドームを見える。
しかしやがて、無慈悲に扉は閉まり、何も見えなくなる。一切を、内側に閉じ込めて。
自分が叶えようとしている夢が如何に高望みか、ノアは現実を突きつけられた気がした。
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