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白い牙~「彪皓太郎」

 ――私は、いてもたってもいられなくなった。

 幹の身の上話を聞き終えた後、シャワーを借りることにした。彼女は了承すると、すぐに背を向けて寝てしまった。

 ……あんな激しい戦いがあった後で、彼女の右足のことを――《鳳仙》という家のことを、話してくれたのだ。無理に幹の辛い過去まで聞き出してしまって、体だけではなく――心まで疲弊させてしまっただろう。

 本当に申し訳ないと、その小さな背に向けて、頭を下げた。

 シャワーの使い方がよくわからず、なんとか出せて歓喜したのも束の間、頭からかぶった時には思わず声を上げそうになった。

 つ、冷たい……!

 二つレバーがあり、なんとか二つをひねって調整すると、ようやくちょうど良い湯が出てきてほっとした……ただ湯を出すだけだというのに、この一苦労とは。一般人は、このように常に頭を働かせながら生活しているのだろうか?……まったく恐れ入る。

 ――コンタクトレンズを取り、日ごろから持ち歩いている、()()()の特別な洗髪剤で頭を洗った。これが無くては、雨程度では落ちることのない()()()()()を落とすことができないからだ。

「キミの素性を明かせば、幹君にとって大きな重荷になる」

 ――蓮次からは、そう釘を刺されていた。

 私は、自身がどういう人間かを、あらかじめ伝えておくべきだと考えていた。護衛とは、万が一の時には命を懸けて私の命を守ってもらうことだ……そんな危険な仕事だというのに、私は自身の素性を隠し、そんな身勝手な関係を一方的に維持しなくてはいけないのが、心苦しいからだ。

 だが、蓮次にそう言われて考えを改め、思いとどまることができた。

 ……私の気持ちを優先して、彼女にプレッシャーを与えるのは、本意ではないからだ。幹も私の素性については、まったく深入りしてこなかった。

 だが今、誰にも語りたくなかったはずであろう、彼女の背負っている過去を聞かされて、考えが変わった。

 ――それなら私も、自身のことを話さなくては、筋が通らないというもの。彼女は、興味なんてないかもしれないけれどな。

 家族以外には今まで見せたことがない、私の生まれた時の姿で、ベッドで横たわる幹の前に立った……さすがに、この時ばかりは、私でも緊張した。

 幹は私の姿を見ると、目を丸くしていた。

「……え?誰?」

 彼女のその驚く表情を目にしたら、まるで一本取ったような、嬉しさが込み上げてしまった。

「私だ。コウだ」

 白い髪に、黄色い(まなこ)の私が――今度は、告白する番だ。

 


   ※

 


 ――皓太郎の変貌した姿に混乱する中、皓太郎は床に正座すると、いきなり頭を下げてきた。

「ちょ、ちょっと!いきなりなんですか!やめてください!!」

「いや、こうでもしないと、私の気が済まないのだ……!」

 皓太郎が私の過去を無理やりに暴いたと勘違いして、謝罪しているのかと思ったが……そうではないようだ。

「私も、今までお前に隠していたことがある!……これから私の話に、付き合ってはくれないだろうか?」

「……そんなの、別になんだっていいですよ。依頼人の事情に深入りするなんて、プロとして失格ですし……そもそも私は、知りたいとも思ってませんし、興味もありませんから……」

「いや!そこをどうか!話させてくれ!!」

 床に頭をこすりつけ、強く叫んだ。

 ……参ったな。こんなに懇願されては、拒絶するのも気が引けるし……。

「……ったく。それなら、勝手にしてください」

「!……ああ!ありがたい!」

「……ふん」

 しぶしぶだけど、了承することにした。

 皓太郎のその……屈託のない笑顔を直視しないよう、慌てて目を逸らしながら。




「幹は、《白牙嶺(しろがね)》、という名を、聞いたことはあるだろうか?」

「《白牙嶺》って……」

 皓太郎から、そんな思いもよらない名前が出てきたが、わざわざ記憶の底を探らなくとも、聞き覚えのあるものだったので、反射的に答える。

「そりゃあ、知ってますよ。こんな小国どころか、世界にも引けを取らないっていう、あの大財閥の《白牙嶺》、のことですよね?……そんなの、この国で知らない奴を探す方が、難しいんじゃないですか?」

 《白牙峰》という存在を、誰に聞いたって私と同じくらいの情報しか持ち合わせていないだろうが、少なくともこの国の人間は、みんなその名を知っているはずだ。

 それが皓太郎と、何の関係があるのだろうかと、訝しんでいると、

「おお、それなら話が早いな。私はその《白牙嶺》なのだ」

「ああ、そうなんですか。そっかそっか………………って!!」

 手をベッドの端から滑らせ、顔から床に落ちた。 

「大丈夫か、幹!?」

「ううぅ~……!」

 痛みで顔を抑える……いや、それどころじゃない!

「だ、大財閥の御子息ってことですか!?」

「うむ。そういうことになるな」

「でも!だって!…………たしか、彪って!」

「私の本当の名前は、『白牙嶺皓』、だ。……それにお前だって、『宿木』と名乗っていたじゃないか」

 これには、ぐうの音も出ない。それに今思い返せば、初めの時に「彪は偽の名前だ」と、言っていた気がする……。

 今まで、皓太郎ではなく、「コウと呼べ」としつこく言っていたのも、本名だったからか……。いや、それならなおさらそう呼べるわけがない。それならわざわざ偽名をつけている意味がない。

「どうした?」

「い、いえ……なんでも……」

 今まで「コウ」と呼ばなくて本当によかったと、ひりひりする鼻頭を擦りながら皓太郎を睨んだ。

 大財閥、《白牙嶺》。

 本当に私が知ってる情報は、ほとんどない。

 現当主の顔を見たのだって、二、三回程度……それだってどんな顔だったかさえ覚えていない。私にとってそれが興味のある情報ではないから、というのもあるが、おそらく情報統制が敷かれているのだろう。《白牙嶺》が一体何をしているのか――ただ莫大な財産を有しているということ以外、知らないのだ。

 それにメディアも、迂闊に《白牙嶺》という名を使えば、どんな目に合うか分からない。会社が潰されるぐらいなら、いいほうかも。

 ――真の権力者ほど、表舞台には立たない。芸能人や政界人のように、人前に出ているうちは、真の権力者とは言えないのかもしれない。

 それに、私と同い年の息子がいる事すら、今まで知りもしなかった。

 それがこうして――袖すり会うどころか、護衛としてそばにいるなんて、考えられない事だ。

「……もしあなたが本当に《白牙嶺》だとして、庶民の学校なんかに通って、何がしたいっていうんですか?」

 《白牙嶺》だっていうなら、ちゃんとした金持ちたちの集う学校に通い、それこそ専属のボディガードをつけているはずだ。

 少なくとも、今日みたいな危険な目に巻き込まれることは、絶対にないはず。……あんな頭のネジのイカれた、ゴリラみたいなヤツと会うことなんて、一生涯なかっただろう。

 それに、だ。護衛をしたことがない、素人の私なんかじゃ、毎日不安でしかないはず。それなのに、そんな態度を見せたことは一度もないし、それどころか楽しんでいる様子だった。今にしてみれば心臓に毛が生えてるとしか思えない……大財閥の御子息ゆえに、人としての度量が違うのか?

 ……そもそも皓太郎は、私みたいな人間が軽々しく口を利いていい存在、なのだろうか?

 まだ、彼の素性については半信半疑だけど……彼のその、白い髪、黄色い瞳……目を引き付けるその出で立ちは、不思議な説得力がある。

 本当に、皓太郎は……。

「そうだな……少し話は長くなるが、いいか?」

 私はこくりと、頷いた。まだ、外は雨だ――時間なら、ある。

「……それではまず、《白牙嶺》の初代当主であり、私の曾祖父――『寅彦』の話をしよう」

 それは、《白牙嶺家》誕生の話だった。



   ※



「――私が生まれた時には、寅彦おじいさまはすでに亡くなっていて、直接話す機会はなかった。だから、これから話すことはすべて、人伝えだ。

 ……寅彦おじいさまが、今の私と同じくらいの歳の頃。

 一農民の子だった寅彦おじいさまは、十五歳で志願兵として戦地に行くことを決めた……国のため、そういう時代だったからとも言えるが、私がこれから戦地に赴かなければいけないと言われたら、とても考えられない話だ――死の恐怖と、常に戦っていたのかもしれない。

 寅彦おじいさまは、無口で、多くを語らない人だったようだ。戦地での辛い経験や武勇伝でさえ、後年誰にも話さなかったという。

 ――だから次から語るのは、そばで寅彦おじいさまを見ていた者の談だ。

 それは、ある日のことだ。

 寅彦おじいさまは戦地で、虎に襲われている、現地の少女と遭遇した。片足を深く噛まれ、追い打ちをかけられるように轢きづりまわされていた。彼女は、もう一人では逃げ出すことができない状況だった。

 それを寅彦おじいさまは――果敢にも立ち向かい、銃剣で噛んでいた虎の頭を殴り、見事、牙を折ってみせた。弾が少女に当たらないよう、わざわざ危険を冒してまで、虎に近づいたのだろう。戦意を失った虎は、少女を諦め、逃げていった。

 そしてその少女を治療するため、寅彦おじいさまは自身の野営地に連れていったそうだ。

 重症だった少女の足は、少し引きずる程の障害は残ってしまったが、歩けるようになった足で、良くしてくれた他国の兵たちのために、給仕やケガの手当までしたのだった。

 ――きっと彼女の存在が、辛く苦しい戦争の中でも、寅彦おじいさまや他の者たちの癒しになれていたのは間違いないだろう。

 それから寅彦おじいさまは、三年の兵役を終えると、少女を連れて日本に戻ることになった。それは彼女も、望んだことだった。寅彦おじいさまは戦争で片目を失っており、助けてくれた寅彦おじいさまをそばで支えるために、少女はその道を選んだのだ。

 そして、日本に帰化した少女を、寅彦おじいさまは、『スズ』と名付け、結婚をした――つまり、私の曾祖母にあたるのがその少女、スズおばあさまだったのだ。

 その後帰国した寅彦おじいさまは、一から事業を起こすと、みるみると成果を上げていき――そして彼が壮年期になるころには、《白牙嶺財閥》にまでなっていた。よほどの根気と努力と――天運がなければ、ここまでのことにはなるまい。

 ではなぜ、一庶民だった寅彦おじいさまが、ここまで成功したのか?――それは、スズおばあさまのおかげらしい。

 その意味するところを、私は分かっていなかった。

 忙しい寅彦おじいさまをそばで支え続けていたから、だと思った――だが、そう言う意味ではなかった。

 スズおばあさまは、自分の子ども――つまり私の祖父に、こう言った。

 『私は、白い虎の生まれ変わりなの』……と。

 ――白牙嶺家に生まれる者は総じて、私のような、「白髪」に、「黄色い眼」――まるで白虎を連想させる出で立ちをしている。寅彦おじいさまとスズおばあさまは、黒い髪と眼なのだが……突然変異なのか、それとも、アルビノと呼ばれる症状なのか。現状、祖父から私までの三代が受け継がれている。

 アルビノというのは劣性遺伝であり、結婚した相手にも、アルビノの遺伝子があれば、アルビノの子が生まれる確率は高まる――だが、その二人がたまたま出会い、ましてや結ばれる可能性は、極めて低い。わざわざ相手の遺伝子を調べてから結婚しているわけでもない。

 ……それなのに、だ。三代にわたって特別な子が産まれるのは、よほどの運に恵まれているのか――それとも、本当にスズおばあさまが言う通り、我々に白虎の血が流れているのだろうか。

 そもそもなぜ、スズおばあさまは自分が白虎の生まれ変わりだと、言ったのか?

 ――それはな、自分の子のためについた、「優しい嘘」だったのだ。

 「白髪」と「黄色い眼」は、必然、他人との違いに気づかされてしまう。……特に祖父が子どもだった頃は、今よりも偏見や差別で避けられる傾向が強い時代だ。奇異の目で見られ、周囲から避けられたりもしただろう……子どもにとってそれは、存在をすべて否定されているのと同じだ。不憫だったろう。

 だからスズおばあさまは――白虎の血を継いでいるから、白い髪と黄色い眼を持つのであり、それは何らおかしいことではなく、とても光栄なこと――他人とは違う、特別な子なのだと、自身の子を励ますつもりで、そう嘘をついたのだ。

 ……スズおばあさまはその後も決して、自分が白虎の生まれ変わりなどではないと、訂正しなかった。我が子のためについた嘘を、死ぬまで貫き通すつもりだったのだ。

 一方で寅彦おじいさまも、おばあさまのその発言に、否定も肯定もしなかった。普段から無口で厳格ゆえに、私の祖父と父は怖くてほとんど口もきけなかったらしい。

 寅彦おじいさまの事業はどんどんと拡大していき、ついには大財閥と呼ばれるまでにのし上がれたのは、すべてはスズおばあさまの――白虎のおかげなのではないのかと、祖父や父は考えるようになってしまった。

 ――スズおばあさまが子どもを安心させるためについた方便が、いつしか真実味を帯びた噂となって、《白牙嶺》家に伝わることになった。

 それがまるで――呪いのように、《白牙嶺》の人間の心を縛り付けてしまうとは、スズおばあさまは思いもしなかっただろう。

 祖父や父は、次第にスズおばあさまを恐れるようになってしまった。スズおばあさまも気を使って、一人、敷地にある離れで暮らすようになった。

 ……私からすれば、それはただただ、寂しく思えた。血を紡いだ、肉親だというのに。

 だから幼い頃の私は、祖父や父からの言いつけを守らず、スズおばあさまによく会いに行った。スズおばあさまは、昔虎に襲われた影響で足が悪く、年齢のせいもあって一人では生活できず、昔から仕えている者が一人、スズおばあさまの面倒を見ていた。

 ――スズおばあさまはな、皆が恐れるような人では決してなく、とてもお茶目な人だった。

 人と話すのが好きで、私によく、たくさんの話を聞かせてくれた。昔話や物語、それに、即興とは思えない作り話でさえ、面白おかしかった。 

 そんなスズおばあさまのことが、私は大好きだったよ。

 ……だからこそ、皆がスズおばあさまのことを恐れていることが、理解できなかった。

 他人の評価など当てにはならない。自分の目で確かめてから物事は判断すべきなのだと、学ぶことができたな。

 ……少し話が逸れたな。話を戻そう。

 「白虎」というのは、商売繁盛や家内安全の象徴とされているそうだ。

 だから、スズおばあさまの存在が、《白牙嶺》を大財閥にまで成長させたと、一概に考えられなくもない。……本当に、白虎の生まれ変わりなどと、信じるのであればな。

 私はそんなこと、馬鹿馬鹿しいと、信じて疑わなかった。

 スズおばあさまはやさしい、普通の人間だ。《白牙嶺》が財閥になったのは、寅彦おじいさまの日々の励みと、それを支え続けたスズおばあさま、二人で成し得たことだ。

 私は、それが真実だと、確信している。

 ……随分遠回りをしたが、ようやくお前の問いに答えられるな。

 なぜ、私が、一般生徒の集う高校に通うことになったかを。

 ――私たち、《白牙嶺》の人間に、自由な時間などない。一分一秒でも、一族のために生き、生涯を捧げなくてはいけない。

 しかし生前、寅彦おじいさまは――ある決まり事を立てた。

 『十五歳からの三年間、《白牙嶺》家を離れ、一般家庭の子に混ざり、社会を見聞し、世界を学べ』。

 もともと商売人だった寅彦おじいさまだからこそ、世間の人たちがどのようにくらし、何を求めるのかを知ることが、貴重な財産になると考えたわけだ。三年という期間を設けてでも、《白牙嶺》にいたままではできないことを、ぜひとも子孫たちに経験してほしかったのかもしれない。

 可愛い子には旅をさせよ……いや、白虎だからこの場合、獅子は我が子を千尋の谷に落とす、かもな。

 ……だが、それだけではないと、私は思うのだ。

 寅彦おじいさまが十五歳から、戦争に行った三年の間に――スズおばあさまと巡り合い、結婚をした。

 つまり――寅彦おじいさまにとって、スズおばあさまに出会えたことは、何よりも得難いことだった。

 どんな出会いが待っているのか、誰も知る由はない。

 だから寅彦おじいさまは、我々にもその機会を、少しでも与えたかったのだと。

 ……この三年間が終われば、私は残りの生涯を、《白牙嶺》に尽くすつもりだ。

 《白牙嶺》の繁栄を維持するために。さらなる発展をめざすために。

 ――私はそれを、一度たりとも恨んだことはないし、当然のことだと考えている。寅彦おじいさまたちも皆、そうしてきたのだからな。そしていつかは、私も自分の子のため、《白牙嶺》の舵を取る立場になるだろう。私はその責務から、逃れようとは思わない。

 …………。

 だからな、幹……今がとても、楽しくて仕方がないのだ!毎日毎日、心が躍ることばかり。学校や街に電車……それに駄菓子屋!この世界は、まだまだ私が知らないことばかりだ!それらを見て回ることができるのは、本当に貴重な経験だ。

 今日のように、お前やしとねと一緒に街に出掛けたことも……生まれて初めての経験だった。

 ……まさかあんなことがあって、幹がいなければ、今頃私としとねは、どうなっていただろうな。お前は、命の恩人だよ。

 ……。

 なあ、幹。

 この期に及んで、どうしてもお前に、頼みたいことがある。

 私の――《白牙嶺》の話を聞いてもなお……」



   ※



「……やってもいいと思えるなら、私の護衛を、続けてはくれないだろうか?」

「……はぁ?」

 彼――「白牙嶺皓」の話を聞き終え、最初に出た一声がそれだった。

「あの……意味が、分からないんですけど……」 

「……初めに会った時に、この話をするつもりだった。私の素性も知らせずに護衛をしてもらうのは、いかがなものかと……だが、蓮次から『プレッシャーを与えるだけだ』と言われてな……私もそうかと思って、秘することにした。……そして蓮次から与えられた名で生活を送り、お前に守られ続けた」

「……だって、それが仕事ですから」

 蓮次が余計な気を回していたことを初めて知り、少し動揺した。

 だけど、私が彼の素性を知ることで、得することが一つもないことは、確かだ。それに、彼の素性を――彼が《白牙嶺》の人間だと知る者は少ない方がいいに決まってる。私に教えるメリットは、彼にとってもないはずだ。なのに、

「……今になってこのことを話したのは、公平ではないと思ったからだ。お前が、打ち明けたくない、胸襟を開いたというのに、私はいつまでも隠したまま――それでは信頼関係など、到底構築できるはずがない」

「……」

 彼の言い分は分かった。彼がそういう気持ちになるのも、そばにいたから分かる。

 けど私は、信頼関係がどうのこうのなんて思って、私の過去を教えたんじゃなく――突き放すために、話してやったんだ!

 ――彼はまた、信じられないことを言い始める。

「……もし、私の事情を聞いて、護衛を辞めたいと言うなら、いつでも言ってくれ。……蓮次には、悪くないように取り計らってもらおう。それに、幹が兄の捜索を続けられるようにも、頼んでみよう」

「……どうして……!」

 なんと彼は、自分の方が見限られてしまうと思いながら、私の心配までしてくれている。

 そうじゃないだろ!……なんなんだよ、こいつは!

「さっきの私の話を、聞いてなかったんですか!私は、穢れた一族の人間なんです!身分の高いあなたとは、生まれも……育ちだって違う!……だから!こんなやつを、そばに置いとくなんて嫌でしょうって言ってんの!!」

 私は、皓太郎から護衛を外されるものだと、覚悟していた。

 ――それに、皓太郎の話を聞いて確信した。こんな、純粋な人の近くに、私のような不純な人間、いていいはずがない――私は、皓太郎のそばにいていい人間じゃないのだ。

 それなのに……!

「ああ、しっかりと聞かせてもらった。確かに私とお前、生まれも育ちも、全く違うな」

「それなら……」

「――だが私は、実際にお前の過去を見てきたわけではない」

 彼は、私の目を真っ直ぐに見つめて、そう言い放った。

「他人から聞いた評価でその人物を決めつけるなど、私はしたくない。自身のことを穢れているなどと、本人がそう評していてもな……私は、自分で見たものを、信じていきたいのだ」

「……どうして」

 どうして、皓太郎はそんな風に考えられるのか、知りたかった――私が見失ってしまった、真っすぐに歩み続ける、意志を。

「……スズおばあさまのことをよく知ろうともせず、ただ恐れられ、遠ざけられている姿を見て、私はそう学んだ。……そして寅彦おじいさまは、こうして直接世界を、自分の目で見る機会をくださった」

「……あっ」

 先代の《白牙嶺》――彼の曽祖父である寅彦と、曾祖母のスズ。

 彼らが、皓太郎をこんな風に育てたのだ。

 ――彼の意志は、本来の《白牙嶺》から受け継いだものなのだ。

「今のお前のことなら、私はよく知っている。この目でしかと見てきたからだ。……弱き者を助ける力を持ち、悪をくじく強き心を併せ持った、立派な人間だと」

「な、なにを馬鹿げことを……私はそんなんじゃ」

「私にとって宿木幹とは、十分信用に足る人物だと言うことだ。いまさら、お前の家のことや、過去の何をしたかなど、関係ない。重要なのは、今のお前が何をしていて、そして信頼を得る行動をしていることだ」

「……っ」

 一切ごまかしのない、強い意志の宿るその目に、たじろいでしまう。

「……なあ、幹。例えば昨日、誰かに酷いことをしてしまったとして、今日も誰かに酷いことをしなくてはいけない決まりなど、どこにもないだろう?今日は誰かに、優しくしたっていいのだ。悪人はずっと、悪人でいる必要などないのだから。善人だって時には……息抜きぐらいなら、いいかもしれないな」

 つまりはなと、続ける。

「いつからだろうと、人は、変わろうとしていいのだ。……幹、お前だって、お前のなりたいように、今日を生きていいのだぞ」

「…………!」

 ……こいつは、いつもいつも、私の心をかき乱す。

 それは、憧れだったのかもしれない。言い換えれば、嫉妬――彼の飾らない、真っ直ぐな生き方に、だ。

 どうして、こんな掃きだめのような汚い世界で、そんなに気高く、生きられるのだろう。

 私が見慣れて、興味すら失ったこの街の風景に、目を輝かせたかと思えば、しとねに絡んでいた不良たちを恐れずに咎めた。知らないことを学ぶのが楽しいと言い、悪いことを悪いと断言する――それは、簡単そうで、だけど、誰もがためらってしまうことだ。子どものころに大人からそう教わったはずなのに、誰もがそうしなくなった。なぜならそう言っていた大人たちも、子どもに理想を押し付けて、自分たちはそうしていなかったから。子どもは賢いから、言葉よりも行動を見てマネをする。だから子どもたちもいつか、大人になったら次の子どもたちに、同じことを繰り返していくのだろう。

 そんな、自分自身が生きるのに精いっぱいなこの世界で――彼は、人のあるべき姿をしているのだ。

 彼のそんな無自覚なカリスマが、自然と人を引き付け、憧れざるを得なくなるのだろう、きっと。

「だから、改めて言わせてもらうぞ、幹」

 何度でも諦めず、手を差し出してくる。

「お前さえ良ければ……私の護衛を、引き続き頼めないだろうか?」

「……」

「私は……幹が、いいのだ」

 依頼人の事情には深入りしないだとかなんとか言っておきながら、もう散々彼のことを聞いてしまった。事が大きすぎて、プロとしてだとか、どうでも良くなった。

 ――私は、彼のことを知りすぎてしまった。

 これが、彼の計算ではなく、無自覚にしていることなのだとしたら、本当に腹が立つ。

 私の性格上、ここまで聞いておいて、一抜けしようなどと、できるはずもない。

 そして、彼の言葉を、聞いて思ってしまった――何もかも中途半端な私だけど、この仕事だけは、何が何でもやり遂げたい、と。

 皓太郎を、守りたい。

 こんな私を、変えたい。

 そう強く、願ってしまった。

 前に、蓮次に言われた言葉を思い出す。

 『客は神様ではなく、仕事を引き受けた自分は道具ではない。相手も人間であり、こちらも人間』、と。……それが今、少しだけ分かった気がした。

 今になって初めて、白牙嶺皓を――いや、彪皓太郎を、真正面から見ることができた。

 もう、逃げたくはない。

「やはり駄目、だろうか?……お前以上のものは、どこにもいないのだが……」

「……まったく、そうやって人の心にズケズケと……」

「はっ……幹!」

 手を伸ばし、彼の手を強く握り返した。

 ……まだ少し、人と触れ合うのは怖いけど、それでも、ここで一歩踏み出さずにはいられない、衝動にかられてしまった。

「……ちゃんと最後まで、アンタに付き合ってあげるよ……コータロー」

 《白牙嶺》なんて関係ない――彼は、彪皓太郎というただの依頼人……それでいい。

「む、だから、私のことはコウと……」

「それはもういいってば……!!」 

 ……あはは、と。

 この薄暗く、私たちだけの狭い部屋で、心から笑い合い、そして改めて、契約を結んだのだった。




「ところで、幹。実はさっきから気になっていたことがあるのだが……」

「なに?」

「この、枕元にある物だ……四角い薄い包みに入った、コレだ!」

 皓太郎はそう言いながら、ラブホテルには当然置いてある()()を手に取ってみせた。

「……」

「見たことあるぞ、これは……あの駄菓子屋にも似たような物があったからな……そうだろう?」

「……いやそれは、そんなんじゃなくって……」

「いや、多くは聞くまい。何事も聞いてばかりではなく、実際に試してみるべきだ……これは菓子か?ちょうど腹も空いていたところだ、一ついただこう……幹もいるか?」

「いらんわ!!……それ、絶っ対に開けんなよ!!」



   ※



 雨が降る街角から、派手な建物を、自販機の陰からこっそりと見上げる。それはいやらしい、下卑た場所だ。近くにいるだけで、すでに気分が悪い。

「……」

 あの薄気味悪い、異常に体の発達した男――デノアから連絡が途絶え、もしやと思い、ここまでやってきた。やつらがいる場所なら、こちらで把握できる。

 ……あの女が、まさかあのデノアを倒したのか?

 あれは、プロの殺し屋などではなく、所詮はただの犯罪者だが――ただの小娘にやられるほど、弱いわけがない。

 デノアは、母国で八回の強盗殺人と、その他百数回に及ぶ犯罪行為で捕まり、そして刑務所で六人の死傷者を出して脱獄までした男だ。

 人並の知能もなく、盗みでしか生きられない、哀れな男だ。法律を破ればどうなるか、明日がどうなるかなど、考えられる脳がない。今が苦しいから逃げ、やりたいことだけをやる――そんな獣のような男。

 せっかく、母国に居場所のなくなったそんな奴を飼いならせたというのに……使えない。ガキにやられる程度だったなんて、ふざけている。

 目標には逃げられ、返り討ちにあって、目的も果たせないとは……心底、がっかりだ。

「宿木、幹……」

 アイツは、不確定要素だった。

 ――早急に、叩き潰す必要がある。

 先ほど、デノアを回収しようと現場に人をやったが、すでに姿が見えないとの報告が入った。怠慢で無能な警察連中でさえ、遅れて今頃到着したようだから、彼らに確保されたわけではない。

 デノアに、この国で他に行き場などあるわけがない。きちんとしつけたので、勝手にどこかに逃げ出すはずもない……。余計な情報を漏らさないうちに、見つけ次第、始末するべきか?あの巨体じゃ、死体を処理するのも一苦労だろうが……本当に、手間のかかる奴。

 ……だがなによりも、もっと許せないことがある。はらわたが煮えくり返ってしまうほど、だ。

「クソッ……クソッ…………クソがっ……!!」

 自販機の横に設置されているゴミ箱を、力任せに蹴り飛ばして、中身をぶちまけた。

 こんな時に、のんきにラブホテル、だと?…………ふざけやがって!!

 雨に濡れて全身が冷たくなり、気持ちまでみすぼらしくなる。

 ああ、なんという、悲劇……!こんな屈辱、生まれて初めてだ!

 ……これはもう、悠長に事を進めている場合ではない。あのアバズレのせいで、長い年月をかけた大事な計画を、台無しにされてしまう……。

 今すぐにでも、あんな汚らしい女、排除してしまいたい……!

「もうすぐ……もうすぐ…………あははっ!!」

 何が何でも……悲願を成就させてみせる!!

 ……。

 ああ……。

 もうこれ以上は、待てそうにない。

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