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It's Gonna Rain

 しとねのストーカー男――もとい、『巨体の男』が、ゴリラのように太い腕を無造作に振り回して、暴れる。それはおよそ、洗礼された動きとは言えないが――しかし一発でも貰えば、大ダメージだ。……単純なパワーでは、敵いそうにないな。

 それならと、大振りの攻撃を避け、隙を見て腹に一撃カウンターを合わせてみるも、

「……ちっ!ダメか……!」

「キシシシシッ!!」

 まったく意に介していないようだ。

 身長差もあって、顔への攻撃は難しい上に、狙ってもこちらが隙をさらしてしまうだけだ。ガラ空きのボディや足を狙っても、びくともしない……金的もしたが、まったく通じていない。

 参ったな……!

 こちらの攻撃は通じない、避けるためのスタミナだって限度がある……このままじゃ、ジリ貧だ。

 工事現場にあった長い鉄パイプを手に取る。『巨体の男』に向けて思いっきり振りかぶったが……簡単に受け止められ、折り曲げられてしまった。……なら、どうすればいい……!?

「なんだなんだ?」「こっちからすっげー音がしたぞ!」

 逃げる通行人たちが多い中、こちらの騒ぎを聞きつけて、わざわざひしゃげたゲートに近寄ってくる野次馬たち。

「ったく……!近寄らないで!逃げてください!!」

「何あのバカデケーの!」「バトってんの?あの二人」「女が襲われてんだよ、どーみても」

 私の忠告を無視してケータイを取り出して、撮影する始末。……ああ、イラついてくる。

 こんな大変な時でも、誰も持っていないような貴重な瞬間を撮っておきたいというくだらない欲求と、危険がこちらまで及ぶかもしれないという記者もどきのスリル感が、そうさせるのだろう。反吐が出る。

 それよりも、私の写真や動画がネットに拡散されるのも、厄介だし……やるか。

「うわっ!」「なんだ!」「いでぇ!!」

 『巨体の男』の力任せの大振りの攻撃を避けながら、どさくさ紛れに石を拾い上げて、野次馬たちのケータイ目掛けて、なるべくバレないよう投げつけた。ケータイは吹き飛んで、地面に叩きつけられていた。私のノーコンで顔面に直撃したのもいたが……忠告を無視して近寄ってきた、バカが悪い。

 ようやく危険な目に遭ったことで、野次馬たちは蜘蛛の子を散らすように去っていった。

 ――だが、まだ状況は何一つ変わっていない。

「ケシシッ……!」

「……こいつ!」

 『巨体の男』が、今度はショルダータックルで、愚直に突っ込んでくる。こちらの攻撃は一切通じないので、それを止めるすべがない。建てられた鉄骨や資材、壁にぶつかっていき、時には破壊しても、何度でも体当たりしてくる。まるで気分は、暴れ牛を相手にするマタドールだ。

 ……まったく、ふざけた攻撃だ!まるで遊ばれているようで、腹が立つ――でもそれは、この状況を打開できない、自分自身に対しても、だ。

 だけど、今私がやるべきことは、コイツを倒すことじゃなくて、時間を稼ぐこと……だというのに!

「ちっ……!いつまで何やってるんですか!?二人とも、はやく逃げて!!」

 まだ、皓太郎たちがゲートの近くにいるのだ。何のために、私がこうして体を張ってると思ってるんだ!一秒でも、一刻でも早く、この場を立ち去ってほしいのに……!

 しとねが私の言葉にハッとして、皓太郎に必死に呼びかけた。

「コウ君!幹ちゃんの言う通り、逃げましょう!」

「……」

 しとねが皓太郎の腕を引くが、それでも動こうとしない。……足が竦んで動けないのか?

「と、とにかく、警察に連絡を……!」

 しとねがケータイを取り出そうとしたが、そこで皓太郎はしとねの動きを制した。

「……お前だけでも先に逃げろ。連絡は私がしておく。狙われているのはお前なのだ。私が一緒に行っても、お前の足手纏いになるだけだ……幹が引き留めている間に、早く行け」

 どうせもう通行人に警察は呼ばれているだろうが、少しでも警察の到着が遅れる可能性があるなら、皓太郎にしてはナイス判断だ。警察と関わるのは、できるだけ避けたい。

 ……けど、皓太郎(お前)も逃げろよ!

「で、でも、コウ君は?」

 私の気持ちを代弁するように、しとねが聞く。

 それに皓太郎は、何か覚悟を決めたように、震える声で答えた。

「……私には、最後まで見届ける義務がある。だから、お前は行け……!」

「えっ……あっ…………ッ!ごめんなさい!コウ君!幹ちゃん!」

 どうしても折れそうにない皓太郎を諦めたしとねは、一人駅の方角へ走り去っていった。……そう、それでいい。

 ……でも、意味が分からない!なんで、皓太郎は逃げないんだ!そこにいられちゃ、私の護衛の意味がない!

 苛立ちが募る。ここで彼を守るためには、手段を選んでる場合じゃないのか……?

 いつも右足の太ももにつけているリングに、ジーンズの上から触れる。

 でも、皓太郎がいたままじゃ……!

「ケシッ……!」

「はっ!」

 その一瞬の躊躇いが、仇となった。

 『巨体の男』は突進の動きを止め、工事現場の砂山に大きな手を突っ込んで一気に掬い上げると、私に目掛けて砂を振りまいた。

 これは……目くらまし!

「くっ!…………しまっ……!」

 視界を奪われた一瞬のうちに――またあの巨体では考えられないスピードで、背後を取られた。右足を掴まれると、軽々と持ち上げられて宙づりに。

 そして、力の限りに振り回された。

「ケシシシッ!!」

「…………くぅぅぅうっ!!」

 遠心力に逆らえず、体の自由が利かない――こうなってしまっては、私にできることはなにもない。

「キィィィ……シィャャャァァアア!!」

「……ッ!…………がぁっ!!」

 投げ飛ばされ、組み建てられていた鉄骨に叩きつけられる――一瞬、意識を持ってかれそうになったが、背中の激痛が何とか繋いでくれた。何かが軋む音が、体内で反響している。咳き込み、血反吐が出た。

「ゲ、ゲフッ!ゴホ…………がはっ!!」

 危なかった……!

 本当なら頭から当たっていたところを、常に頭と心臓を守る癖がついていたおかげで、背中でぶつかることができた。それでも、受けた代償は馬鹿デカい。

「ハァ、ハァ…………ん?」

 鉄骨がぶつかって響き渡っている不協和音の中に、ギィィと、別の音が混じっているのに気づいた。

 ま、まさか……!

「うっ……!」

 この場を急いで離れるために立ち上がろうとするが、右足に激痛が走る――どうやら右足が握りつぶされて、骨が折れてしまっているようだ……んの野郎!

 そして恐れていたことが――組まれていた鉄骨たちが、崩壊したのだ。

「ちくしょう……!」

 逃げ出すこともできず、私の頭上に落ちて来る鉄骨たちを、ただただ眺めることしかできなかった。



   ※



 身体に伝わる地鳴りのような振動と、重量物が崩れ落ちる音が辺りに響き渡り、私の心臓は一気に縮み上がってしまった――なぜならその発生源に、一人の少女が巻き込まれるのを、この目で見てしまったからだ。

「幹っ!!」

 私は今日一日で、これまでの自身の人生で、見聞きしたこと、学んできたこと――それらでは体験することのなかった、とてつもない光景の数々に衝撃を受けていた。

 あの男のせいだ――人をいとも簡単に吹き飛ばし、周囲の物を見境なく壊す、圧倒的な怪力。急に訪れた天災のような暴力の前に、いつもの日常は突然に消し飛ばされた。

 そんな相手に、果敢にも立ち向かう少女――宿木幹。

 しかし、彼女の攻撃が全く通じない、体の大きさが二回りも違う相手だ。それでも逃げ出すことはせず、しとねのために、懸命に戦っていた。勝てる見込みがあったのか、それとも、しとねを逃がすための時間を稼ぐためだったのか――素人の私では見当もつかない。

 だが、必死に戦う幹の姿勢を目の当たりにしたことで、私も腹を括ることができた。

 幹のそばから離れた時点で、私に安全な場所はない。この町のどこに逃げればいいか、どういう手段で逃げればいいか、把握しきれていない。だから幹が負ければ、私もここで終わり――一蓮托生なのだ。私一人だけが助かろうなどとは、初めから思ってはいない。

 幹がこちらを何度か気にする素振りを見せていたのは分かっていた。

 それでも、私には幹を見届けなくてはいけない義務がある——ただの邪魔でしかないのは承知で、何もできない歯がゆさと恥ずかしさに耐え、しとねを逃がして、私だけが居残った。

 彼女なら――宿木幹なら、この状況を打破できるのではないかと、一縷の望みにかけて。

 ――だが、今となっては、そんな自分の無知と、自分勝手な義務感に、憤りを覚える。

 唯一の頼みであった幹が、『大男』に足を掴まれて持ち上げられると、まるで子供に振り回される玩具のように、簡単に投げ飛ばされた。

 ――そして今、彼女が鉄骨の下敷きになる絶望を、まざまざと見せつけられた。

 やはりあんな『大男』に、幹のような少女が勝てるはずなどなかった!

 ……私がストーカーを退治しようなどと、提案したのがいけなかったのか?

 どこでもいいから私も逃げて、幹も逃げられるようにすべきだったのか?

 それら、自身の下したすべての選択に、後悔した。

 『大男』の様子に目を向ける。幹を投げ飛ばした後、『大男』はじっと、自身の掌を見つめていた。投げたその手には、破れたジーンズの裾と、いつも幹が右足に巻いている包帯が、絡みついていた。『大男』はその手を乱暴に振り払って取り除くと、幹が飛ばされた方向へと歩み始めた。

「!……ま、待て!」

 考えるよりも先に、足が動いた。二人の間に入るように、両手を広げて大男の前に出た……みっともなく両膝が震え、何度も転びそうになりながら。

 私に、何ができる?――何もできない。

 なぜ、前に出た?――これ以上、幹を傷つけさせるわけにはいかない。

 だけど、非力な私では、この男を足止めすることすらできない。……それに、ただでは済まされないだろう。

 ……すまない、幹。せっかくの護衛の仕事を、無駄にしてしまって。

「……ケシシッ」

 『大男』は手を伸ばして、私に掴みかかろうとしてくる。

 私は観念して、目を瞑った。――だが、

「そこ、どいて」

「……!!み、幹っ!!」

 何と幹が、背後の瓦礫の中から這いあがり、立ち上がっていた!

 その声を聞いた瞬間、安堵で腰を抜かすところだった。

 ……だが、あの何トンもするであろう鉄骨につぶされて、なぜ無事なのか?それにどうやって、そこから這い出ることができた?

 そんな疑問が浮かぶも、頭を振って消す――そんなことはどうでもよい。

 幹の無事を喜びたいところではあるが、まだ状況は何一つ変わっていない――この『大男』から、早く逃げなくては……!

「……」

「……ケシ?」

 金属が落ちる音が鳴った。それは、鉄骨が落ちた時の音とは違う、すごく微かな響きだ。

 それは、幹の右足につけられていた、金色のリング――。

「幹、そ、その足……!」

 ――私は、目を見開いた。

 いつもの包帯がなくなり、破れたジーンズから覗く、幹のその白い右足には、紅い花びらが――まるで鳳仙花のような、紅い痣が無数に広がっていた。膝から足首に行くにしたがい、その紅い痣で埋め尽くされていた。リングをつけていた太ももは、いつもきつく締め付けていたためか、リング状にひどいうっ血の跡ができていた。

 いつも巻かれていた包帯の下は、こんなことに……!

「……」

「幹……」

 幹が私を一瞥した。それは諦めにも似た、悲しみをはらんだ虚ろな瞳を、私は見逃さなかった。

「なっ……!?」

 ――瞬間、私の背後にいた幹が跳躍した。『大男』との間には距離があるにもかかわらず、なんとひとっ跳びで『大男』に飛びつくと、鼻っ柱に膝をねじ込んだ!

「ケ、ケ……ケシィィィ!?」

 あれほど攻撃が通じていなかった、『大男』の顔面がめり込み、そして体がゴム毬のように、弾き飛んでいった。

「……!!」

 驚きで、息を飲んだ。……私は今、夢を見ているのか?

 私とそう体格の変わらない幹が、あの二メートルもする男の体を、目の前で吹き飛ばしてみせたのだから。

 その巨体を吹き飛ばした当の本人は、表情一つ変えずに、ただ土煙が立つ方向をじっと睨みつけていた。

 まだ、終わってはいないのだ。

「……ケケケケケッ!!」

 幹から、初めて受けた痛み――鼻は陥没し、血が流れていた。『大男』はそんな鼻の痛みなど無視して、すぐに立ち上がり、幹に立ち向かった。

「……」

 それを幹は冷ややかな表情のまま、静かに対峙する。

 『大男』は大きな両腕を広げて襲い掛かる――幹を、握りつぶすつもりか。

「よ、避けろっ、幹っ!」

「……」

 だが幹は、『大男』に応えるように、両手で受け止めて組み合う形になった。ただの力比べなら『大男』の方に分があるはず——誰もがそう思うだろうが、

「……ギ、ギシャアアアアアァァァッ!!」

 叫び声を上げたのは、なんと『大男』の方だった。

 幹の指が男の掌をつぶし、『大男』は力負けして指がだらしなく広がっていた――そこに幹は追撃をかける。脛を蹴って『大男』に膝をつかせると、頭突き――一撃で『大男』の額を割り、鮮血が飛び散った。しかし同時に、幹の額も割れてしまっていた。

 ……幹のこの力は、何なのだ?

 初めは一方的だった、あの『大男』を圧倒してしまう力は、一体どこから?

 そして自傷してしまうほどに、自分の力がまだ制御できていないのか?

 数々の疑問が再び生じるも、それを考えている余裕はない――幹が、また動き出す。

「……」

「ガ、ガガガ、ガッ……!」

 幹は『大男』の両手を掴んだまま、大男の胸に両足を掛ける。足に目一杯力を籠めて伸ばし、『大男』の両腕が無理やり引き延ばされる。『大男』は最後まで抗おうとしたが、抵抗むなしく、両の肩が外された。

「……ギ、ギャアアアアアアアアアアア!!」

 両肩が外れた時に鹿威しのような音を響かせると、『大男』がたまらず絶叫した。そこでようやく幹が両手を離すと、『大男』は一直線に吹き飛んでいった。

「な、なんとすさまじい……!」

 ――すでにもう、形勢は逆転していた。あまりにも、幹の一方的だ。パワーが違いすぎる。

 幹はその一連の行動を、さも当たり前のようにやってみせた――彼女の怪力が、以前から備えていた力なのは、間違いないと見える。

 『大男』が飛ばされた方向を見る。土煙が立ち込める中、藻掻く影が浮かびあがり、段々と姿が見えてくる――『大男』の両腕は使い物にならず、頭を使いながら必死に起き上がろうとしていた。

 幹は、一歩一歩ゆっくり、『大男』に近づく。

 それは『大男』にとって、どうすることもできない、「天災」が襲ってくるのに等しい。

「ヒッ、ヒィィィィィ!!」

 あれほど闘争心を見せていた大男が――圧倒的な力の前に、逃走を選んだ。恐怖に歪む表情は、逃げ惑う通行人たちと同じだ。

 ――だが、それでも幹は容赦しない。

 勝てないと悟り、『大男』が立ち上がってすぐさま背を向けた。

 それにすばやく反応した幹は、クラウチングスタートのような構えを取り、跳躍。空中で前回りして態勢を変えると、両足を大きく広げる。そして、『大男』の頭を挟み込んだ!

「……ヒギャッ!?」

 両足で『大男』の頭を掴んだまま、上体を反らし――なんと、あの巨体を足の力だけで、浮かせ、宙に舞った――そして、

「ギィヤッ!!」

 顔面から、地面に叩きつけた!

 『大男』の潰れた手では、受け身を取ることもできずに、直撃。『大男』は血の(あぶく)を吹いて気を失い、大の字になって横たわった。

 ――これは、幹の勝ちだ!




「……ああ、そう言うことだ。幹のおかげで私は無事だ……ああ、すまないが、後のことはよろしく頼む」

 ケータイで蓮次の会社――《イクイプメント》の人間に連絡を取った。これでもう、『大男』のことは任せてしまっていいだろう。

 雨が降り出して来た。通り雨だろうが、これから少し強くなりそうだ。早くこの場から、立ち去ろう。

「……幹!」

 彼女の勝利に歓喜しながら、落ちていた彼女のリングを拾いあげて、歩み寄る。彼女は『大男』を倒した後、ただ立ち尽くしていた――無理もない、疲れてしまったのだろう。

「やったな、幹!まさかあんな大男を倒してしまうとは……さすが蓮次が見込んだ護衛……」

「……ッ!近づくな!!」

「!……ど、どうしたのだ?幹?」

 突然の幹の拒絶に、足が止まる。その張り上げた声が、雨の合間を縫ってハッキリと届くほどだったので、驚いてしまった。

 幹の体に雨粒が当たる。だが、当たった瞬間に雨は水蒸気へと変わり、彼女の周りが煙った。彼女の服は濡れることなく、乾いたまま――幹の体は今、猛烈な熱を帯びていた――小さな体で、あの『大男』を凌駕してみせた力と、何か関係があるのかもしれない。

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……!」

 幹が両膝を地面につく。息苦しそうに、何度も何度も呼吸を繰り返す。このままでは過呼吸になってしまうのではないかと、心配になるほど。

「み、幹っ!」

「……頼むから…………放って、おいて…………どっかに……行っ、て……よ」

 雨で額の血が流された彼女の顔を見た。もうすでに、割れていた額の出血が止まっていた。

 ……今はそんなこと、どうでも良い。

 上着を脱いで近づき、彼女の頭にかける。彼女は何を恐れているのか、必死に右足の紅い痣を、覆いかぶさるようにして隠していた。

 ――辛そうな表情を浮かべている彼女を、見捨てることなどできない。例え、拒絶されようとも……。

「……ッ!ち、近寄るなっ!!」

「安心しろ、これ以上はお前に近づかない……とにかく、ここから離れよう。しとねもすでに逃げた。蓮次の会社の者にすでに連絡も通した……あとは何とかしてくれることだろう」

「……う、うぅ……」

 さっきまで鬼神のごとき強さを発揮していた幹は、もうどこにもいない。そこには弱弱しく、触れれば崩れてしまいそうな、脆い少女がいるだけ。

 ……私は、彼女のことを、何一つも知らないのだな。

「お前のおかげで、助かった。ありがとう」

「……」

 これ以上は何を言っても、今の彼女には何も届かないだろう。ひとまず落ち着けるところに、移動しなくては……。幹の前にリングを差し出すと、彼女はそれをひったくるように取った。そして私に誘導されるよう、幹は移動を始めた。

「「……」」

 戦いに勝利した喜びなどなく、虚しさだけが残った。彼女が倒したはずなのに、この場のどこにも、勝者などいなかった。争いは、娯楽などではない。

 ……それだというのに、彼女の気持ちも推し量らずに、無邪気に喜んでいた私は、愚か者だ。

「……すまなかった、幹」

「……」

 雨足が、強くなってきた。

 いまはただ、どこか雨宿りできる場所に、急ごう。

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