続くよ、どこまでも
朝一の授業で一番睡魔に襲われる教科――すなわち数学の授業が終わる十分前、ようやく皓太郎と教室に戻った。……ちょっとどころか、学校の隅から隅まで皓太郎に付き合わされ、こんな時間にまでなってしまった。
私も授業はまともに受けなくてもいいが、これはさすがに叱られるかなと思ったが、「……それなら、仕方ないか」と、禿げあがった年配の数学教師はあっさりと許した。皓太郎が何者なのか、教師たちも把握しているのだろうか。クラスメイトたちが、今まで何してたんだろうとざわめく中、私たちが席の間を横切っていくと、みんな黙った。
……まったく、困った人だ。
着席し、隣の皓太郎を見てみると満足そうな顔で、腕を組んでいた。やれやれ……。
休憩時間になり、ここからが厄介だった。
皓太郎は基本的には自由行動だ。私はただの護衛で、危険がない限りは彼に制限を強いるわけにはいかない。なので、皓太郎が離席しない限り、私は自席で寝たふりやケータイをいじるふりをして過ごす。当の本人も、まだ初日だからか大人しく教室にいてくれた。
クラスメイト達は皓太郎に話しかけていいのか迷っていたが、休憩時間のたびに皓太郎に話しかける人が段々と増えていき、昼休みになると多くの生徒が皓太郎を取り囲んでいた。皓太郎を放っておいて学食に一人で行くわけにはいかないので、まだ残ってたビーフジャーキーをよく咀嚼して空腹を満たした。皓太郎は、変なものを食べさせないためか、それらしく装った弁当を食していた。
みんなが皓太郎に話し掛けられるようになったのは、周りにいるのが私一人だけになったからだろう。厄介者のさつきなら、昼休みと放課後はいつも部室で過ごしている。
部活の名前は確か……「学校文化研究部」。もともと、「eスポーツ同好会」という、放課後に集まってゲームをするだけの溜まり場のようになっていた、活動場だった情報室を、全員追い出して奪った。それで、エアコンとパソコンが使い放題だとか。挙句の果てには、部員はさつき一名にもかかわらず、同好会ではなく部活として許可されているので、部費も貰っているらしい。当然、相当な裏回しは必要なはずだが、その頃には教師陣も何人か脅していたので、ありえないスピードで許諾された。……おそらく、校長までも何か弱みを握られていたに違いない。
可哀そうだが、弱みを握られるようなことをしていたのが、悪い。
一度、さつきに誘われて部室に行ったことがある。一年生の授業では来ることが無い教室なので、暇つぶしついでに興味本位でついていった。「じゃあ私、活動してますので、ご自由にくつろいでくださいねぇ~」と、いつも使っているであろう席へと座った……さつきに近寄る。
教室では見たことない、いつも閉じている瞳をここぞとばかりに開いていて、パソコンを凝視していた。何を真剣にと思い、彼女の視線の先に目をやるが、
「…………あのさぁ……なに、これ?」
「ん?これですかぁ?これは……『キミにムチュウ♡な、夢見るオトメッ!2(セカンド)~とろぴかるさまーばけーしょん☆~』ですけど、知りません?」
「知るわけないんだけど……」
水着を着た女たちが、モニター画面いっぱいに映し出されていた。それから、初めからずっと視界に入っていたけどあえて無視していた、女性の胸部を強調した絵が描かれた、マウスパッドを使っていた。
「あんた、学校で何やっての……」
「安心してください。学校でやるのは学園モノに限定してますからぁ。なんてったって、解像度が高くなりますからねぇ……。だから、学園文化研究部と名付けたわけですしぃ」
「聞いてないわ、そんなこと」
「宿木さんもやりますかぁ?この作品は、学園全体が性に対して寛容な校風の、イカれた設定ではあるんですけど……」
「誰がやるか!!」
珍しく目を開いていたさつきに、興味を持ってしまった私が、馬鹿だった。
普段なら気づけない、切れ長で、汚れを知らない、ビー玉のような瞳で、派手な配色の髪色の女たちを嬉々として眺めていた。
……正直なところ、さつきは見た目だけなら美少女……の部類だと思う。普段の悪行のせいで台無しにしているのだが、さつきはそれを気にも留めないだろう。
現に今も、彼女はその十八禁ゲームについて熱弁をふるっていた。
「でも、主人公が、ヒロインたちそれぞれの夢を応援して、叶えていく感動的なストーリー……なんですよぉ。これが泣いて笑って抜けての三拍子!……ストーリーもさることながら、キャラデザがムチャクソシコティッシュホールド、なんて……いやぁ、2が出るのも納得の前作だったのが、今回はみんなが水着で、もう今からどんなラッキースケベならぬラッキーセッ……」
「あーもーその話いいから」
白昼堂々、校内でエロゲをすな!……いや、それよりも……。
「この機材たちも、どうしたわけ?」
この情報室で、さつきの使っている周辺だけが異様だったのだ。パソコンもキーボードもマウスも、明らかに他の古ぼけた学校の機材とは違って、さつきのだけは新品なうえに高性能だ。それどころか、椅子もゲーミング用のいいやつ。なんならルーターも設置されていて、「あっ、ご自由に繋いでもらっていいですよぉ」と、パスワードまで教えられた。
「……さすがに、持ち込んだわけじゃないでしょ?」
「もちろん、全部部費ですよ部費ぃ~。ブヒブヒッ」
などと、両手で豚の蹄のポーズを取っていた。
どう見積もっても、三十万は軽く超えているはず。それが部費として簡単に下りるはずがない。……もしかしたら、脅した教員たちのポケットマネー……かも。
……。
……それからは二度と、情報室に立ち寄ることはなかった。
そして、闇のさつきに対する光――操は、珍しく今日の昼は来ていない。
いつもなら、「一緒に食べるぞ」と、自分で毎朝、寮の台所を借りて作ってくる弁当を提げて私の席までやってくるのだが、もうすぐ始まる春の大会についてのミーティングがあるらしく、「悪いが今日は一人で食べてくれ」と、休み時間の時に言われた。……そもそも一緒に食べようなどと頼んだことは一度もないので、ムカついた。二度と来るな。
昼休みの後は体育だった。どうしても避けられないことだが、皓太郎と離れてしまうので急いで着替え、男子更衣室の近くで待機していた。すると、先に操が出てきたのでこれ幸いに呼び止める。私のクラスは、操のクラスと体育の授業が合同だ。そこで、操にある頼みをした。
「あっ……ねえ、操」
「ん?幹か。……悪かったな、今日は一緒に昼食を取れなくて……どうしてもな……」
「いや、それはどうでもいいんだけど……悪いんだけどさ、皓太郎君に何かあったとき、助けてやってくんない?あんまり、体育とか得意じゃないらしいからさ」
「……あの転入生に、随分肩入れするんだな」
「色々と事情があんの。それに、隣の席の人間として面倒見てあげなきゃ」
「ますます怪しい……なぜ、お前がそんな殊勝な真似をしなくてはいけない?」
「……それなら貸しってことで、どう?」
「……そんなものは別にいい。お前の頼みなら、なんだって聞いてやる……だが」
ガラガラと扉を開け、ちょうどよく皓太郎が男子更衣室から出てきた。
「……お前に一つ言っておくぞ、転入生」
「ん?なんだ急に?……というか、お前は誰だ?」
「ちょっと!操!」
操が皓太郎に詰め寄る。
「幹は俺の女だ……間違っても、手は出すなよ……転入生っ!」
「俺の女?」
突然のことで何のことか分からない皓太郎が、私に視線を向けてくる。私は首を激しく横に振った。
「いやいや、そんなわけ……!」
「お前たちはつまり、恋仲だということか?」
「そうだ」
スパーンと、操の頭を引っ叩いた。
「……今のはいい一発だった、幹」
「ジョーダンだからコイツの!……まともに話聞かなくて良いからね!皓太郎くん!」
「?そうなのか」
とにかく、操に皓太郎のことを任せて、グランドに移った。
体育の時間、男子はサッカーで、女子はテニスだった。私は包帯を巻いた右足を言い訳に、いつも体育の授業はサボり――もとい見学をしていた。
普段はあんなでも、操なら並大抵のことなら大丈夫だと、信頼はしている。もちろん何かあればいつでも助けに入れるようにはしているが……しかし、アイツはバカだった。
操が皓太郎と同じチームになったまでは、いい。だが味方なのに、マークするようにずっと皓太郎に張り付いて、来たパスも全部操が取り、パワーシュートでゴールをあっさり決めた。……そのたびに私に笑顔を向けて手を振ってくるのが、サイコーにムカついた。女子たちは、さわやかな笑顔で手を振る操にわーきゃーと黄色い悲鳴を上げていた。
「……目立ってんだよ、バカ」
アレの、どこがいいんだか……。
終礼のチャイムが鳴ると同時に、他の生徒たちはそれぞれの部活や委員会の仕事のため、我先にと教室を出て行った。残っているのは帰宅部の面々と、私と皓太郎だけだ。
「ふぅ……」
思わず、息が漏れていた。
……なんとか、一日目が終わった。終わってみれば、あっという間だった。皓太郎もトイレの時以外は無駄に教室から出ず、非常に助かった。変な生徒に絡まれることもなく、これと言った危険もなかった。当然女子が近づいてくることもあったが、まだ初対面だからかぎこちなく、色目を使うような生徒もいないので、勝手な判断で見逃していた。誰一人女を近づけさせないようにするのは、さすがに不自然すぎるだろう。……あとで蓮次に確認は取るが、もしそうしろと言われれば、彼女のフリでもしなければいけなくなるだろうな。
とにかく、まあ、学校での護衛なんてこんなものかと、拍子抜けしたくらいだ。無事にやり遂げることができた……と、思っていたのだが、
「…………いや、その……ちょっと待ってください」
「どうした?幹」
校門付近で待っていても、皓太郎の迎えの車が、一向にやってこなかった。かれこれ三十分も、待った。皓太郎は、グラウンドを使っている部活動を、面白そうに眺めていたから良かったけど。
皓太郎に何か聞いていないかと尋ねると、当然のように返答されたのが、
「どーして送り迎えも、私がすることになってるんですか!?」
冗談じゃない!!
私の仕事は校内での護衛であって、登下校までも一緒にするなんて、聞いてない!!
「ん?蓮次にはそう取り計らってもらえるよう事前に許可してもらったのだが……またもや聞いていないのか?」
「……」
アイツ……報連相はしっかりしろよ、大人のくせに。
皓太郎から詳しく聞くと、明日からは朝の登校からも護衛すること。会社まで送り届ければ、そこからは他の社員が車で送り届ける手筈になっている、だとか。会社は、私の社宅でもあるので帰り道は同じだ。車での送迎では駄目なのかと聞いても、毎日そんなことをしていては目立ってしまう、と。……もっともらしいけど、皓太郎がどういう育ちの人間かバレるのも、時間の問題な気がする、が……。
いまいち納得しきれないけど、仕事を放棄して自分一人だけで帰るわけにもいかないので、不承不承、一緒に学校を出た。
「……」
「……」
参ったなぁ。
学校はほとんど授業だし、聞かれたことに応えればいいので、話題には困らなかった。これから毎日、金持ちのボンボンと何を会話しながら、登下校すればいいのやら……。
だけど、そんな心配は無用のことだった。
「幹、アレはなんだ?」
皓太郎が、指をさして聞いてきた。
「……いや、あれは……」
「ホテル『アモーレ』……愛のある接客をする、素晴らしいホテル、ということか……ラブホテル……直接名前にまでつけるとは、見習いたいものだ」
「絶……対にっ!あそこには行かないでくださいね!」
「あの、男性募集、という張り紙はなんだ?男手が必要な仕事、ということか?」
「それも気にしなくていいですから……!」
通りにあるもの一つ一つに反応するから、まったく前に進めない。さっさと帰ろうと近道を選んだのが間違いだった。普段は気にせず通っていたが、ここはあまり学生の通るべき場所ではなかった。
その、無邪気に何でも聞いてくるのには、小さな子を持つ親の気持ちが、少しだけ分かった。……そのうち、空はなぜ青いのか、なんて聞かれでもしたら困る。
「なあ、幹。あの店はなんだ?」
「……ああ、アレは」
皓太郎が指さしたのは、昭和の香りがいまだ残る、昔ながらの建物。
「駄菓子屋ですよ。子供向けのお菓子がたくさん売られてるお店です」
「おお!アレがそうか!」
つかつかと、皓太郎が駄菓子屋に歩み寄っていくので、慌てて止める。
「待ってください!今は無事に送り届けるのが仕事なんですから、寄り道なんてしてられませんよ!」
学校の中ならまだしも、いつどこで誰に襲われるか予想できない、町中での護衛だ。経験不足の私には、荷が重すぎる。だからすぐにでも会社まで送り届けて、無事に終わらせたい。
「いいではないか、少しぐらい。見るだけだ」
「皓太郎様っ!」
「だから、私のことはコウと呼べ。様はいらない」
だぁー!もう!!
今は皓太郎の安全を優先するべきだ。わがままを聞いている場合じゃない!
力づくでも、連れて帰ってやろうかと思った時、
「…………今まで買い食いなど、したことが無くてな……仲のいい者同士なら、一緒によくする事なのだろう?……憧れなのだ……」
「……っ!」
シュンとしたって、ダメ!
……ここは心を鬼にして、帰ろう。絶対に。……そう心に強く誓うが、
「……まあ、ちょっとぐらいなら、良いですけど……」
どうして私、こうも弱いかなぁ!
まあ?学校で大人しくしてくれて、かなり助かったのは事実だし、これぐらいなら、なぁ……。なんて後付けの言い訳をして、すぐに折れてしまった私。
そんな葛藤している私を放っておいて、皓太郎は、「なんなのだ!いったいコレは!?」と、外に置かれている古びたガチャに目を輝かせていた。
駄菓子屋の中に入ると、「おおお!」と、皓太郎は並べられた駄菓子に感嘆の声を上げていた。一つ一つじっくりと見ていくその姿は、まるで宝石店のショーケースを覗くお客のようだ。……そんな興味を示していたが、とても残念な事実を知り、ションボリとすることになる。
「ごめんなさいね。うち、現金だけなのよぉ」
皓太郎は現金の類は一切持っておらず、蓮次に持たされたケータイの電子マネーのみ。自動販売機での飲み物の購入や電車利用など、今の時代なら大概のことはできるから、それで不便はなかった。ちなみに、「現金もケータイも使ったことが一度もなかった」との、皓太郎本人の談で……いったい今までどんな生活を送ってきたのやら。
住む世界が、根本的に違う人なんだなと、改めて思い知らされた。
だが、この駄菓子屋はおばあさん一人の経営で、時代に取り残された現金オンリーの店だ。どれだけ金持ちだろうと、何一つ商品は買えないという、面白い状況。
「そ、そんな……殺生な……!」
「……はぁ」
仕方ないので、奢ることにしてあげた。駄菓子なら、値段はたかが知れてる。でも、
「そんなわけにはいかん!こんなことまで迷惑はかけられん!」
変なとこで、意地を張ってきた。……この人、意外と面倒くさいな。
後で蓮次に請求するからと伝えたら、「……なら、頼む」と、ようやく折れて、コーラの瓶を受け取る。どうやらそれが、一番気になった物らしい。私は昼飯が抜きだったので、腹に溜まりそうなムギのお菓子と牛乳瓶を手に取り、番台にいるニコニコしたおばあさんに渡した。
「あらあら、素敵なカップルさんだねぇ」
「……あははっ、どーも」
適当に流して買った物を受け取ると、外にあるベンチに並んで腰かけた。
「はい、どうぞ」
「すまないな。私のわがままに付き合ってもらって」
「いえいえ」
瓶の蓋を外したコーラを皓太郎に渡し、私は行儀が悪いが、ムギ菓子の袋を開けて直接口に流し込む。砂糖の甘みとなかなか噛み応えのあるムギで、すぐに腹が膨れた気がした。さらにそこに牛乳を流し込むと、コーンフレークのようにシミシミになって、おいしい。
隣で皓太郎は、恐る恐るコーラに、口をつけていた。
「……初めての味で何と形容すればいいか分からないが……うん、美味いな。これは気に入ったぞ」
「コーラ、飲んだことないんですか?」
「ああ、耳にしたことはあるんだが……くぅぅぅ!喉がキツくなるな!ははは!」
炭酸に慣れていなくて、ちびちび飲んでは顔をキュッとさせる姿が、可笑しかった。
……これで本当に、本っ……当に!……今日が終わる!
駅に到着して、ホームで電車を待っている時、ようやくそう実感できた。……でも、まだ安心はしてられない。
駅は人の数も、当然多くなる。狭い空間のうえ、全方位に警戒の目を向けなくてはいけない。危険物はないか、挙動不審な人間はいないか……あらかじめ、皓太郎と登下校するのだと教えられていれば、こんなに気を張らずに済んだのにと、遠くハワイにいる蓮次に向けて舌打ちをした。
いつもなら学校を出て欠伸でもしてれば、いつの間にか会社に到着していたのに、今日は一分一秒が、長い。ようやく電車がホームに入ってきた時は、たまらなく嬉しかった。隣で皓太郎は、「おお!こんなに近くで見たのは初めてだ……!」と感嘆していた。
私たちを乗せて、電車が出発する。皓太郎は、初めて乗る電車に興奮気味だった。
人の気も知らないで……。ま、これも護衛の仕事だから、仕方ないけど。
揺れる電車が、少し眠気を誘う。さらに日も当たって、ポカポカする。ああ、私、思った以上に疲れてるんだな。重たい目を擦る。
なんにせよ、何事もなくて、良かっ――。
「……や、やめてくださいっ……!」
――ん?なんだ?
車内のどこからか、若い女性の声が聞こえてきて、眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「ねえ、いいじゃーん。ちょっと俺らと遊びに行かね?カラオケとか、ゲーセンとかさぁ……腹空いてんなら、ハンバーガーでもどおよ?」
続いて聞こえてきたのは、声からすでに知性の程が分かる若い男の声。
そちらに、視線を向けた。
メガネをかけた女子高生が、別の学校の男子生徒三人組に絡まれていた。あの女子高生の制服は、この沿線にある「アルストロメリア女学院」、だったか。いわゆる、お嬢様学校だ。男性からのナンパに慣れていないのか、終始おどおどして、非常に困っているようだった。
「あ、あのっ……!」
「うわっ、すっげ―いい匂いするぅー。……何のシャンプー使ってんの?」
「……っ!!」
金髪頭の男が、嫌がる女子高生の腰に手を回してべったりとくっつく。他の二人は彼女が逃げられないよう、壁になって立っていた。彼女は、恐怖のせいか声が出なくなっていた。
こんな時に、参ったな……。
他の乗客たちは、ちらちらと様子見はしているが、誰も助けに入らない。面倒ごとに巻き込まれたくないのは、みんな一緒だ。
私は、違う理由で悩んでいた。普段ならあんな卑劣な奴ら、引き剥がしに行っても良かったのだが、なにせ今は状況が違う。皓太郎がいる――護衛の仕事を、優先させるべきだ。皓太郎から離れるわけにもいかないし、変に巻き込んで、トラブルを起こすわけにもいかない。とりあえず、皓太郎に注意だけはしておこう……。
「彪様……ああいうのは、気にしないでください。厄介事になるだけ……ってあれ?」
「あ?何だテメェは!!」
さっきの方から、怒号が聞こえてきた。
まさか……!
「彼女が嫌がっている。その行為を直ちにやめろと言っているのだ」
暴漢三人組の前に勇敢にも立ちふさがったのは、何を隠そう御方――彪皓太郎、その人だった。
ちょっと目を離した隙に、隣にいた皓太郎がいなくなっていることに、気づけなかった。
ちょっと!勘弁してよ!
「すいませんっ!……ちょっと通ります!」
慌てて乗客たちの間を通っていく。
「カッコつけてんじゃねーぞ、オラ!」
金髪が女子高生から離れ、皓太郎の襟首を乱暴につかむ。……マズイ!マズイ!
「やっちゃえ、やっちゃえ!」
「ぎゃははっ!なにこいつー」
残る坊主頭と長髪の取り巻きが、騒ぎ立てていた。
だけど皓太郎は、金髪の威嚇にも全く怯まず、真っ直ぐ目を逸らさずに言う。
「お前たち、恥ずかしくはないのか?」
「……なんだぁ?」
「大の男が三人も、寄ってたかって彼女をいたぶる……その行いは獣以下だ!貴様らには人としての尊厳はないのか!みっともない!」
「……ッ!うるせぇ!黙れやお前ェ!!」
金髪は怒りに任せて、拳を振り上げた。
……けどまあ、たらたらと会話してくれたおかげで、助かった。
「はぁい!ケンカはやめてください……ネ!一旦離れま……ショ!!」
「!イダッ……!――ゴ、ゴホッ、グォホォ……!!」
間一髪で、金髪の拳を両手で受け止めた。「ネ!」で握られた拳に私の指を無理ねじ込み、金髪の親指を無理やり折り曲げた。悲鳴を上げそうになるので、二人を引き剥がすふりをしながら、「ショ!」で男の喉に肘をねじり込み、咳き込ませた。――なるべくほかの客にバレずに無力化しようと試みたが、思いのほか上手くいったみたいだ。
金髪は激しく咳き込み、折られた指を抑えながらその場にうずくまった。
「あ、大丈夫ですかー?……どこか、ぶつかっちゃいましたかね?」
わざとらしく高い声を出して、心配する素振りをして金髪に顔を寄せた。
「……おい」
「……っ!」
金髪だけに聞こえるよう耳元で話しかけると、金髪は化け物でも見るような目で、私を見た。そりゃあ、いきなり指を折られたら、そんな顔もするだろう。
「……そのまま黙ってた方がいいよー。次に何かしゃべったら、二度とお前のそのイキリ勃ったムスコが握れないよう、全部の指ひん曲げるから…………ね?」
「……ゥン!ゥン!」
首を思いっきり縦に振って答えていた。よしよし。
「おいテメェ!何しやがった!」
「いやぁ、ちょっとぶつかったみたいで……このお兄さん、次の駅で降りたいみたいですよぉ」
「はあ!?……こうなりゃあ慰謝料だ!慰謝料出しやがれよ!!」
坊主頭が突っかかってくる……メンドクセーなー。
残る二人をぶっ潰すのも簡単だけど、乗客の手前、さすがにこれ以上は目立てない。皓太郎が無事なら、いい。
「み、幹……!」
心配そうな顔で、私を見ていた。……困った人だよ。
私が殴られる分には、別に構わない。こうなったら気が済むまで、殴られてやろうか。
坊主は躊躇なく、拳を振り上げた。
「……あれ?あれあれあれ?……もしかしてムネタニ君、ですか?小学校の時の同級生の、ムネタニリュウ君」
坊主が声を掛けられ、拳を止めて後ろを振り向く。
そこにいたのは、私にはよく聞きなれた声の――さつきだった。
「さ、さつき?なんで……」
「……あ?誰だオマエ?」
「忘れました?そうですよねぇ……私、随分垢抜けましたからぁ……こんな美少女、出会ったら忘れるはず、ありませんもんねぇ」
いつもの様に目を閉じているのに、随分と人を小馬鹿にした笑みを浮かべていた。
「そういうムネタニ君の方は、相変わらず……息災みたいですねぇ」
「……なに?」
「あの頃だって、よく好きな女の子のリコーダーをチュパチュパしたりぃ……体育で着替えた女子の服をこっそりクンカクンカしてましたもんねぇ。……女の子への探求心は変わらないようで、安心しましたぁ」
さつきの爆弾発言に、お客たちは――特に女性陣たちが、坊主を軽蔑するような目で見ていた。
当のムネタニ君は……顔を真っ赤にして、肩を震わせていた。
「……オイ!テメェ、デタラメ抜かしてんじゃねぇっ!!」
間髪入れず、さつきの顔面に向けて拳を振るった。……だが、
「なっ……!」
「あら、余計な真似を」
「……」
坊主の拳を、柔道着を着た大男――操が、受け止めた。坊主の拳を、大きな手で包み込むように握りしめる。
「操、なんでアンタまでいるのよ……!」
「……お前ら、万死に値するぞ」
「なんだよっ!……お前っ!……はっ!」
坊主は必死に拳を抜こうとするが、びくともしない。怒りの操が、力を籠めて握る。
「イッ、イデええぇぇぇ!!イデぇぇぇ……イデええぇよぉ……!!」
坊主頭の悲痛な声が、車両に響いた。
「……幹を口説き、嫌がる幹の体をその薄汚い手で撫でまわし……挙句の果てにはっ……!手を握らせる、だとぉ!!……言語道断だ!!」
操の脳内では、ナンパされていた女子高生と私が勝手に変換されていた。……それに、手は握ってない。指折っただけだから。それでも操には、そう見えたらしい。畳に頭をぶつけすぎて、頭がおかしくなったのだろう。
「ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!……ごめんなさいぃぃぃ……!!」
操に力の限りに握りつぶされた拳の痛みに耐えきれず、坊主は涙を流して膝を折り、ひたすら謝り続けていた。あれはもう……手が使い物にならないかもしれない。
「ああそうだ、タニムネ君。学生証、落としてましたよぉ?……はいどーぞ……そそっかしい所も、相変わらずなんですからぁ。……でも、そういう所、チャームポイントって言うんでしょうかねぇ……母性本能くすぐられちゃいましたぁ。……この、無自覚さんっ」
そう言ってさつきは、坊主の制服の胸ポケットに、学生証をするりと入れた。たぶん、気づかぬ間にスったのだろう。先ほどの発言も全部、デタラメだろう。……だって名前だってもう間違えてるし。本当の変態じゃなくて良かった、タニムネ君。
「……」
残された長髪は、もう勝ち目がないと悟り、後ずさって逃げようとしたが、
「おっと、ごめんなさぁい」
いつの間にか長髪の後ろに回り込んでいたさつきとぶつかっていた。……どんな芸当だよ。私でも追えなかったぞ。
「うっ…………ンクッ……!」
長髪が驚いて口を開けた瞬間に、すかさず何かを放り込み、飲み込ませていた。
「あら、私が今まさに飲もうとしてた、お薬がぁ……」
「お、俺は今……何を……?」
怯えている長髪に、さつきはわざとらしい説明口調で答えた。
「いやー、困りましたねぇ……これは私のために調整された特別なお薬で、どうも他人が飲むととても危険で、大変なことになるらしいんですよぉ。なんでも、体調が悪くなって、具合も良くなくなるらしいんですよぉ……ええ、お医者様が、そうおっしゃってましたからぁ……早急に、診てもらわなくてはぁ……」
「えっ……あっ……うぅ……」
……何一つ、具体的なこと言ってねぇや。でも、長髪はさつきのデタラメを真に受けたようで、顔を真っ青にしていた。
「こうしてはいられませんねぇ!……とりあえず、次の駅で降りましょうかぁ。お友達の方も体調が悪いようですから、一緒に病院で診てもらいましょう。……ねぇ?」
何であれ、三人組をここから引き離してくれるのなら、ありがたい。
さつきが私に近寄ってくる。
「宿木さぁん……コレ、みなさんで食べてくださいなぁ」
さつきから手渡されたのは、八の字の形をした入れ物で、錠剤のように押し出して銀紙から取り出す、カラフルなチョコだった。……長髪に飲ませたのは、これか。
「あー、さつき」
「なんですかぁ?」
「……アイツに、やり過ぎないようにだけ言っといて」
操の方に、目を向けて言った。この後アイツが、何をしでかすか分からない。
「んー。一応、伝えといてもいいですが……あの人に聞く耳があれば、ですけどねぇ」
それもそうか。
そして電車がアナウンスを告げ、駅で停車する。
「行くぞ、猿」
「それでは、宿木さん、彪さん……また明日ぁ」
金髪と坊主を、操が襟首をつかんで立たせて、電車を降りていった。さつきにチョコを飲まされただけの長髪も、黙って後をついていった。さつきも追いかけていく。
「病院に行った後、どうされますぅ?カラオケなんてどうでしょうかぁ?なんといっても、大人数の方が盛り上がりますしぃ。ゲーセンでもいいですよぉ?プリクラ、みんな可愛く盛っちゃいますからぁ。……あっ、ハンバーガーなんてのもいいですねぇ。私小食なので、ポテトはシェアでお願い……」
プシュゥと、電車の扉が閉まり、動き出した。お客含め、誰一人言葉を発せず、車内に静寂が訪れた。……なんか、気まずいな。
あー……どっと疲れた。
てか、操とさつき、当たり前みたいにいたけど、私たちを尾行していたな?……後で問い詰めて説教だ。だけど、それよりも先に……、
「助かった、幹……彼らにも、後で礼を言わなくてはな……」
――キッ!と、背後の皓太郎に振り返る。
「……あのっ!!」
「どうした?何を怒っている……すまない、何か、間違ったことをしてしまっただろうか?」
「そうじゃないですけど……そうじゃなくて……!」
皓太郎に詰め寄り、他人に聞かれないように小声で怒った。
「……何を考えているんですか!無茶なことは、もう二度とやめてください!……ご自身の立場を考えて行動してください!!」
皓太郎のしたことは立派でも、自分の身を危険にさらしたようなものだ。
そんなの、私が許せるはずがない!
「護衛の立場としては、勝手にトラブルに首を突っ込まれたら、たまったもんじゃありません!」
「……なあ、幹。ここで暮らす人たちは、立場によって行動を決めなくては、いけないのか?」
「……そうですよ」
「悪いことをしている人間に、やめろと言うこともできない、決まりになっているのか?なら、あの場合はどうしたらいい?どうやって助けたらいいのだ?」
「それは……」
「私は、まだこの社会の決まり事を、まだ知らなくてな……とっさに、体が動いてしまっていた。あの者たちを見過ごすことができなかった。だがそれが、間違った行いだったとは、思えないのだ。それが、立場によってしてはいけないことだというのも、私にはよく分からない……人を助けることに、動いてはいけない理由とは、いったい何なのだ?」
「……」
その問いに答えられず、私は沈黙してしまった。
「しかし、勝手な行動をしてしまったことは、謝る。すまなかった。……今度からはちゃんと、相談してから動くことにしよう」
「……いえ」
……なんなんだよ、ったく……。
説教するはずが、逆に諭されてしまった。だけど、私は何も間違っていない、はずだ。護衛として、皓太郎を守るのが、仕事なのだから。……でも、皓太郎の言っていることも、間違っていない。
だから私は、何も言えなかった。
皓太郎は振り返り、背後でずっと怯えていた女子高生に、声を掛ける。
「安心しろ、もう大丈夫だ」
「……っ、っ!」
声がまだ出ないのか、コクコクと必死に頷き返していた。
まだ肩が震えていて、それでも健気に安心した表情を浮かべていて……もっと早く助けるべきだったと、さっきの皓太郎の言葉とセットで、胸が締め付けられた。
「……ん?なんだ」
そこでお客の一人がパチパチ……と、拍手をしだした。それにつられるように、もう一人、また一人と増えていく。そして仕舞いには、車両全体にまで広がって、大喝采。……さすがにバツが悪いので、お客の間を頭を下げながら通り、隣の車両へと移った。隣の車両で謎の拍手が起こっているので何事かと、こちらのお客全員の目が向けられていた。知らぬふりをして、開いているスペースに移動する。
皓太郎とついでに、ナンパされていたメガネの女子高生も引き連れてきてしまった。そこでしまったと、掴んでいた腕を放した。
「あっ、すみません。つい……」
「……あ、あ、あ……」
女子高生が、声を詰まらせながら、何かを言おうとしていた。
「あ?」
「あっ……ありがどおぉぉぉ!!」
「うおっ」
女子高生がいきなり抱き着いてきた。着痩せして分からなかった、豊満な胸が当たった。
「ほんとにっ!ほん、とにっ!……助かりましたぁー!!」
震える声で必死に感謝を述べ、メガネの奥に大粒の涙を浮かべていた。……小さな顔にしては大きなメガネをかけているせいで、この距離でようやく、彼女が美人だと分かった。大きなたれ目につややかな唇、すべすべの白い肌、そして完璧な配置の泣き黒子、それに良い匂い……アイツ等、見る目だけはあったな。
普段女子ばかりに囲まれた生活で、いきなり知らない男たち言い寄られれば、生きた心地もしなかったろう。……こんな綺麗な人を泣かせたアイツ等には、あれぐらいじゃ足りなかっただろうか?
ひとまず、彼女を落ち着かせるには、どうすればいいかだろうか?……ない頭をひねり出す。
「……あの、食べます?これ、チョコレート……」
そして考えた結果が、手に持っていた八の字を顔の前に当て、メガネのようにしておちゃらけることだった……。皓太郎が隣で、「なんだそれは!?」と、はしゃいでいた。
……黙っとけ。