交差する日々
下駄箱で靴を取り換えていると、朝のチャイムが鳴った。やべぇっと、遅刻している他の生徒たちに紛れ、私も足早で教室に向かった。教室に到着しても、担任の教師はまだ到着しておらず、クラスメイトたちも呑気に駄弁っていた。ギリギリセーフ。
……遅れているのは、おそらくあの事だろうな。
素知らぬ顔で、机で頬杖をついて待っていると、
「……おーすまん、すまん。みんな、席に就けー」
遅れて数分後、急いで教室に入ってきた担任の長倉が、まだしゃべり続けている生徒たちに着席を促した。それで蜘蛛の子を散らすように、それぞれの席へと戻っていった。
「よーし、それじゃあ朝礼……の前に……実は今日からな、このクラスに、新しい生徒が増えまーす」
「「えーーー!?」」
急な長倉の発言に気だるげなこの月曜の朝から、クラスメイト達が一斉にざわめき出した。誰一人、前もってその情報を知らされていなかったのだから、当然だろう。おそらく、担任の長倉も、この土日にそのことを聞かされたはずだ。だから、朝から慌ただしくしていたに違いない。
――それぐらい、今日のことは、秘密裏に進められていたことなのだから。
「さっそくだけど、入ってきてー」
「……はい」
ガラガラと、扉を開けて教室に入ってきたのは――男子生徒だ。
「…………ヤッバ…………」
前の方の席に座っている女子生徒が、小さな声を漏らしていた。
それもそうだ。彼は端正な顔立ちをしていて。長く豊かなまつげ、大きく切れ長の目、小さな口と綺麗な鼻筋……まるで西洋のドールみたいだ。他のクラスメイトたちも、ため息をつくように呆けた顔で彼を見つめていた。
クラスメイトは、まだ一年生でこれから成長するだろうと、少しブカブカの制服を着ているが、彼の制服はきっちりと体格にあった、シワ一つない制服。同じ制服のはずでも、彼だけがきちんと学生服を着こなしていた。……まるで、ドラマや映画の舞台衣装を着る俳優のように。
それでいて、動揺や緊張の類は微塵もない、実に堂々とした佇まいだ。
「彼は……彪皓太郎君だ。彼は……えー、イギリスからの帰国子女で、日本には慣れていないそうなんだ。だから、みんな仲良く頼むなー……さ、彪君」
「……よろしく、頼みます」
「はい、拍手―」
彼――彪皓太郎は軽く頭を下げ、クラスメイトたちは長倉の言葉で思い出したように拍手をした。
……帰国子女、というのは、設定なのかどうかは分からないが、それにしたって、気品が溢れ過ぎている。世間知らずというのを、それで誤魔化せるだろうか。
皓太郎は長倉の指示に従い、ちょうど良く空いている、私の隣の席まで歩いてくる。その間も、生徒たちは皓太郎の端正な顔立ちに視線を注いでいた。
そして、ファーストインプレッション……ここは愛想よく、声掛けをしよう。
「よろしくね、彪君」
「……ああ、よろしく頼む」
私は知らぬ顔で、何も知らない皓太郎との、初対面を果たした。
こうなることは、ずっと前から、決まっていた。
――そう。それは、今年の一月にまで遡る。
※
「……対象の名前は、彪皓太郎……ま、とある金持ちの御子息とだけ、伝えておきましょうか。それでお嬢には高校三年間、彼のクラスメイトとして学校に通い……彼の護衛をしてほしいのですよ」
白のリムジンの中でそう言ったのは、スーツから靴まで全身白ずくめの、趣味の悪い男――鷺沼蓮次だった。彼は、私の父親の知り合いで、昔から何度か我が家に訪ねてきていた。そしてその日も、たまたま彼が来ていて、帰る所を引き留めたところだった。
「ね?ものすごく簡単で、子どもにも分かりやすい仕事……」
「ちょっと待ってください!おじさん!」
私は、中学三年生。もうすぐで、中学校を卒業する時期だった。
蓮次を引き留めていたのはある願い事があって、彼に相談を持ち掛けていたからだ。……それがどうして、高校に入学する話になるのだ!
「私、進学するつもりなんて、ありません!」
「ボクって、学のない奴は苦手なんだよなぁ」
蓮次の、急に突き放すような態度に、ビクリとする。だけど、次には砕けた様子で、
「……というのは、冗談で……これはお嬢にしかできない、重要な仕事なんです。だから、そんなこと言わずにお願いしますよ。……たった三年、我慢すればいい話なんですから……ね?」
「で、でも……」
蓮次に言った通り、高校に進学するつもりはさらさらなかった。私には、今すぐにでもしなくてはいけないことがある。――そのために、この家から出て一人になり、ある程度の収入を稼ぎ、目的に費やす時間がほしかった。高校に通っていたら、毎日の貴重な時間を、無駄に取られるだけだ。
それに、学校に行ったところで、いったい何になる?
今の世の中、探せば仕事なんて、掃いて捨てるほどある。学歴が欲しいのだって、立派な会社に行きたいがためだろう?
――だから私は、高校に進学したいと、まったく思わなかった。
蓮次は一見すると、ホストクラブのオーナーのような成金野郎だが、母親からは、「人材派遣会社の社長」だと聞かされていた……だから頭を下げて、蓮次の所で働かしてほしいと、頼んだ。
それなのに蓮次は、軽薄そうな笑みを浮かべて、
「別に、断ってもらっても構いません。当然こちらも、お嬢の話を断るだけですから……そうでしょ?ギブアンドテイク、持ちつ持たれつ……大人じゃ、それ、当たり前ですよ」
「うぅぅ……」
彼の言うことは、もっともだった。
世間知らずの私では、彼と交渉できる立場にすらない。彼の要求に従うか、諦めるか。
「さあ?どうします?」
「……」
蓮次も絶対に、折れることはなかった。私がもし、やっぱりやめると断ったところで、別に構いはしないのだろう。
子どもなら、もういいと、へそを曲げてしまうだろうが……だけど私は、そうもいかない。引き下がりたくも、ない。
「どんな人間を雇うかは、ボク次第なんですよ。なんてったって、ボクは社長だから。だからボクが気に入った奴を働かせるし、その対価として給料を払う……あと三か月で中学を卒業するばかりのお嬢を、ボクが気に入る……何か魅力や価値はありますか?」
「…………私、それなりに強いです」
そんな絞り出した答えを、鼻で笑われる。
「腕っぷしなんて、そんなのごまんといますよ。口が立つ者だっている。美貌や知性に秀でた者も……ボクの部下には、様々な分野のエキスパートがいるんですよ?……そんな彼らに、お嬢が勝っているものが一つでもあると、ボクには到底思えないんだなぁ」
「……うぅ」
何も、言い返せなかった。強い、と答えたけれど、自分の実力がどれほどなのか、実際には分かっていない。まだ、井の中の蛙、だ。
「でも、価値があるから、こうして問うてるんです……分かりませんか?」
「……分からない」
「ボクが今唯一、お嬢に見出している価値は……その若さです」
「若さ……」
「それなりに腕が立って、これからちょうど高校生になる、十五歳の人間……さすがに、ボクの部下にはお嬢と同い年の子はいませんからね。だからこれから、若い子をスカウトするか、若く見える部下を高校生役に仕立て上げるか……お嬢が引き受けてくれれば、そんな手間も省けるんですけどねぇ」
「……」
「ま、はっきりと、言っておきましょう。……お嬢がボクの出した条件を飲めないと言えば、この話はこれでお終いです。それが、ボクの提示する、ボクの会社で働くための、最低条件ですから。……これだけでいいなんて、すごい破格ですよ?このボクにしては」
「……でも私、護衛なんてしたこと……」
「なんだ、そんなことは気にする必要ありません。もちろん、適任者がきちんと指導しますから……こちらも、お遊びではなくて、ビジネスですでやってますから」
つまり、この仕事を受けなければ、必要価値はない。他に交渉の余地、なし。
「さて、そろそろ白黒、ハッキリさせてもらいましょうか。……もちろん、答えは白であることを、望みますが」
「……」
この場合の白は、要求を受けろ、か。どこまでも白にこだわるのが、いちいち癪に障るが……。
……でもこれは、チャンスだ。それ以外の価値があるかどうかも分からない、こんな小娘なんか、にべもなく断られていてもおかしくなかった。
蓮次は、厳しい言い方をしているようでも、間違いなく、私にチャンスを与えてくれていた。
だから私は、改めてよく考えた。
目的のためにも、この家をとっとと離れ、自由な時間が欲しい。たった三年とは言うが、一刻でも早く、一人前になりたい。……私は、どうすればいい?
そして頭の中に、大事な人の顔が浮かんだ。
お兄ちゃん……。
「……おじさん。その前に一つ、いいですか?」
「なんです?お嬢」
「私をその……お嬢と呼ぶのはやめてください。馬鹿にされているようで、不愉快なので」
「ふむ、それなら……」
「名字も口にしないでください!『あの家』と私は、何も関係ありませんから!」
今の蓮次にとって、私は『あの家』の娘、だろう。――それは、死んでも嫌だ。
「ふぅ……分かりましたよ。それならそちらも、私をおじさん呼ばわりするの、やめてもらえます?これでもまだ、若者のつもりですから」
蓮次の年齢は不詳だが、見た目的にはまだ二、三十代だろうか。
――腹をくくった。『あの家』を出られるなら、後はどうとでもなる……はずだ。
「分かりました……それならその、かしこまった口調もやめてください……社長」
それを聞いて、蓮次はニヤリとした。備え付けのワインセラーから白ワインとグラスを取り出して、注いだ。
「詳細は、後で伝えよう。……それよりも、今は祝おうじゃないか。我が社――《イクイプメント》と、新しい社員――そうだなぁ……それじゃあ『宿木』なんて、どう?――『宿木幹』くんの、これからの明るい未来に、乾杯」
こうして私は、『あの家』の名を捨て、蓮次の元、会社の犬として生きる道を、選んだ。
『宿木幹』として、歩み始めた。
※
私がこの学校に入学したのも、皓太郎が転入してきたのも、すべてが蓮次の手配通り。だって私は、高校受験すら受けていない。蓮次が校長と取引でもして、一人分の入学の確保――つまり、裏口入学をしたのだろう。まあ、私にはどうでもいいことだ。
皓太郎がこの高校にやって来るのは、入学式から一か月後。理由は聞かされていない。蓮次が指定したこの、市立螢陵高校に編入させ、私に護衛させる――すべて計画通りだ。
皓太郎は、私が護衛だということを知らない。必要以上に仲良くするつもりはない。ほどよく、ただの一クラスメイトでいればいい。隣の席になったのは、一般人の通う高校がどんなものか分からないだろうから、私にフォローしろという、蓮次の気遣いだろうか。
「……それで、今日の予定は以上だ。先週渡したプリント、忘れずに放課後までに集めてくれよー……あっ、彪のことも、みんな優しく頼むなー」
朝のホームルームがさくっと終わり、長倉は教室を出て行く。
一時間目が始まるまでの休憩時間、さっそく皓太郎に声をかけてみることにした。友好的な関係をキ築いていた方が、何かあった時にやりとりもしやすいだろう。
「ねえ、彪君」
「…………ん?なんだ」
少し間が開いてから、皓太郎はこちらに顔を向けた。
おお……。改めて近くで見て、そのあまりの顔の良さに、少々たじろぐ……何に気を取られているんだ、私。
「ごほん……隣のよしみってことでさ、何か困ったことがあれば、いつでも私に……」
「おい、幹!」
背後からの大声に、話を遮られた。振り返らなくても、教室の入り口で仁王立ちしている姿が、目に浮かぶ。
このうるさい声の主は……。
「……面倒くさい奴が来たよ」
高校一年生にして、とても体格のいい大男が、私の席までつかつかと近づいてくる。
「今朝はいったい、どうしたんだ!?遅刻だったじゃないか……!」
彼の名前は、廿六木操。この学校で唯一、私の小学校からの幼馴染……もとい、腐れ縁だ。
操は柔道をしていて、もうすぐ二メートルその恵まれた体格を遺憾なく発揮している。
なんでも彼は柔道界の期待の星で、中学生の時には無敗で大会連覇を果たすほどの実力者、だとか。この学校にも柔道部はあるにはあるが、万年県大会予選落ちの、弱小校だ。……それにもかかわらず、なぜ操が偶然にも私と同じ、この螢陵高校にいるのか?
どこで情報を得たのか知らないが、私がこの高校に入学する情報を手に入れ、スポーツ特待生として自ら直談判まで行ったという話を、中学の教師たちが話しているのを偶然聞いた。全国の柔道強豪校から熱烈なアプローチをされていたにも関わらず、無名校への進学だ。「あの有名高校へ輩出した中学校」の名誉を得られたはずの学校側からしたら、実に頭の痛い話だ。
一方で、当の本人は、
「柔道を続けるのは、別にどこでも構わない。たとえ部活が無くとも、俺のやることは変わらん……ただ、お前に会えなくなるのは、俺は死んでも嫌だ」
……などと、恥ずかしげもなく言っていた。正直、こちらとしては大迷惑だ。
そんな操だが、学校での男女人気がえげつない。高校生とは思えない鍛え上げられた肉体と、馬鹿真面目でキリっとした顔つきは、女子からの受けが良かった。その上、中学大会覇者なのに誰に対しても分け隔てなく、それでいて抜けているところもあるから、男子たちからも親しみを持たれていた。
……そんな操の唯一の欠点と言われているのが、女の趣味の悪さ、だそうだ。それには私も、同意する。
きっと、高校生になっても大会で結果を残すだろう。すでに、警察から将来はうちへぜひにと、声を掛けられているんだとか。
私みたいな女のどこがいいのか知らないけれど、操が思うほど、私は大した人間じゃない。仕事上、悪目立ちしたくないという思いはあるが、操の将来を想えばこそ、私に付きまとってる場合じゃないと、思わずにはいられなくなる。
「おい、聞いているのか?」
「……」
……そんな私の気も知らず、こいつが毎日毎日、私のクラスに足繫くやってくるから、男子たちからは冷やかしの目で見られ、女子たちからは鋭い視線を向けられた。私は目立たずに、「そう言えばこいついたな」ぐらいの、生徒でいたかった。それなのにこいつがいつも、いつも、いつも……!こうして絡んでくるので、たった一か月で、私はクラスからほぼ孤立した状態となった。一人でいるのと、孤立しているのでは、天と地ほど違う。
ただ、完全に孤立していないのには、一つ訳があって、
「クンクン……これは、たばこと酒と……加齢臭の匂いが、しますねぇ」
「ひっ……!」
耳元で突然、そうつぶやかれて、身の毛がよだつ。
こいつは……!
「何か、登校中に良くないことでもしてきましたかぁ?……宿木さん」
「お前は毎度毎度……!気配を消して近づくな!」
「おっと、こわーい……ふふふ」
背後に向かって拳を放つが、すぐに距離を取って避けられた。
彼女の名前は、猿渡さつき。コイツは、四月に会ったばかりの、変わった女だ。
まず、いつも両目を閉じていて、それでもこうして、見えているように動く。彼女曰く、「一度見た空間や場所、物の配置なんかは、大体記憶できるんですよぉ。……それに、無駄な視覚情報をだらだらと脳に入れていたくはないので」、だとか。今も目を閉じたまま、人を子馬鹿にしているような薄ら笑いをしている。……そしてなぜか私にこうして、よくちょっかいをかけてくる。
コイツについては、あまり触れたくない。なぜなら、ただの変わり者ではなく――ヤバい女だからだ。
さつきは、この学校のほとんどの生徒の弱みを握っている。それは教員、校長や教頭にまで及ぶらしい。どこでそんな情報を掴んでいるのかは知らないが、学校中に盗聴器や隠しカメラでも仕込んで、常に監視している、としか思えない。それだけ、この学校で彼女の知らないことはなかった。
この前も、教頭がさつきに体育館裏で土下座していたという目撃情報があり、本人にそれとなく聞いたが、
「ああ、それはですねぇ……この前、教頭先生を駅前で見かけまして。こことは別の学校の制服を着た少女と、夜中に歩いておられたものですから……私はてっきり娘さんかと思って、可愛らしいお嬢さんですねって、声を掛けたら……このことは、奥方には内密にしてくれと頼みこまれまして……困りましたよぉ」
……と、実に頭が痛くなる話だった。学校の外だろうと、彼女から逃れることはできないようだ。
そんなことをしているから、入学からまだたったの一か月だというのに、全校生徒に『猿渡さつき』の悪名が轟いていた。……恐ろしい女。
コイツのせい……いや、おかげなのか、操が毎回来ても、男子たちは私に極力関わらないように目を逸らし、女子たちも嫉妬心で嫌がらせをしてこなかった。ある意味で、抑止力になっていた。
唯一このクラスでまともに話せるさつきがいるから、私は完全には……でもこれ、すごい悪目立ちしてない?
……とにかく、この二人のせいで、私はクラスどころか学校全体から、たった一か月で要注意人物の一人として目を付けられる羽目になった。……これは私のせいではないので、蓮次には申し訳ないが、当初の予定を少し……いや、かなり狂わせてしまっただろう。知らないけど。
今朝だって、クラスメイトたちは転入生の皓太郎に話しかけたいだろうに、隣に学校の危険物が集合しているので、遠くからこちらの様子を窺っていた。君子危うきに近寄らず、だ。
そんなのお構いなしに、さつきが続ける。
「女子高生がそんな、朝からはしたないことしちゃいけませんよぉ?」
「……さつき、今は黙っててくれないかな?」
「幹がそんな、あばずれと同じようなことをするはずがないだろ!」
「ちょっと……!さっきからアンタら、言葉を選んで喋りなさいよ!」
はしたないだとか、あばずれだとかを、教室中に聞こえる声で言うので、クラスメイトから不審な目で見られる。
「ちょっと今朝は、変なのに出くわしただけだから……アンタらには、関係ないから」
「ふんふん……それから微かに、ワサビとからしの匂いも……うーん、鼻腔がつんとしちゃいましたぁ」
「……お前は一体、何をしてきたんだ?」
もうダメだ。コイツらと話していても、埒が明かない。
「宿木、幹……」
うるさい二人を相手していると、隣で皓太郎が私の名前をつぶやいた。……コイツらのせいで、彼のことを放置してしまっていたことを思い出す。
「ああ、ごめん、彪くん。……私の自己紹介、まだしてなかったね。そうそう、私が宿木……」
「お前が私の護衛、だな」
「……」
「む?違ったか?」
その時、空気が凍った。近くにいた操とさつきは、「護衛?」と頭を傾げている。
え?なんで?
「……そう言えばお前、見ない顔だな……今のは発言は一体、どういうことだ?」
「彪さぁん……その面白そうな話、詳しく聞かせてもらってもいいですかぁ?」
二人が皓太郎を問いただそうとして……我に返った。
「ま・だ・ら・くん!!…………ちょっと、いいかな!!」
「?ああ、どうした?」
ひとまずこの場を離れよう。彼の肩を掴んで立たせると、背中を押して教室を出た。
「あっ!おい、幹!もうすぐ一時間目が始まるぞ!どこに行く!!」
「ふふ。初対面の殿方と朝から二人きりになろうなんて……宿木さんも、お盛んですねぇ」
「おい、幹を侮辱するな!お前のような女と同じに語るなよ!このサル女……!」
「あら、私は確かに猿ですが……あなたに言われたくはないですねぇ。……初恋未練タラタラの柔道バカゴリラさぁん」
「……!」
あの二人は、究極的に、馬が合わない。遠ざかる教室から、いつものように二人が言い争う声が、聞こえていた。
「……ここなら、いいでしょう」
誰もいない空き教室に、一緒に入る。他に誰も入れないよう、内カギはしっかりとかける。
「この教室は、誰も使っていないのだな……おお、ここは街の様子も見えるな」
皓太郎は物珍しいのか、窓に近づいて校庭や近隣の様子を眺めていた。
……なんで?どういうこと?
私は、ひどく混乱していた。
確か蓮次との打ち合わせでは、「キミの情報は、先方に伝えておくか?」と確認されて、どうしてか聞き返すと、
「これは個人の好みだけど、護衛対象に知られていないほうが動きやすい人間もいるから、ね」
それならと、先方には秘密にしておくよう頼んでいた……はずだったのだが、
「……彪君……様、は……どうして、その……私のことを、知っているの……ですか?」
クラスメイトとして接するべきか、依頼者として敬語を使うべきか、口調が定まらなかった。皓太郎はそんなこと、全く気にならないようで、あっさりと答える。
「教えてほしいと蓮次に頼んだのだ。少し渋っていたが、料金はその分支払うと言ったら、教えてくれたのだが……何か問題だったか?」
「あー……あはは、す、すみません。なにかの手違いで、そのことを知らされていなかったものですから……」
「そうだったのか。蓮次も困った奴だな」
ほんとだよ。
あの、銭ゲバ社長め……。
……まあ、いいさ。別にバレたところで、私のやることに、変わりはないし。……ただ、一か月前に出張だと言って、ハワイ支部に行ったきりの蓮次に、後で文句の一つでも連絡しておこう。
ちなみに、我が社の海外支部は、ハワイ、モルディブ、ニューカレドニア、イタリア、マレーシア、メキシコ、ギリシャなどなど……「どれも有名リゾート地のある場所じゃないですか!」と指摘できるほど、誰もが知るような場所にある。そもそも、アメリカ支部じゃなくて、ハワイ支部って……!
仕事と称して、海外で遊び惚けているんじゃないかと、疑いたくもなる。
とにかくここは、依頼人である彼――彪皓太郎に、頭を下げた。
「……取り乱してしまい、失礼いたしました。改めて、彪様の護衛につかせていただきます、宿木幹、と申します。気分を害されることもあるかもしれませんが、今後も彪様の一クラスメイトとして振る舞わさせていただくこと、どうかお許しください。……しっかりと護衛の任は、果たさせていただきますので……」
……と、頑張って振る舞ったのだが、皓太郎はずっと窓の外を凝視したまま、無反応。……もしかして、無視?
「あの……彪様?」
「…………ん?……ああ、そうだったな」
皓太郎はようやくこちらの呼びかけに応じ、振り返った。
「その、なんだ……彪と呼ぶのは、やめてくれないだろうか?蓮次がつけてくれた偽の名だから、まだ馴染んでいなくて、すぐには応答できないのだ」
「ああ、そうでしたか」
さっきも教室で呼びかけた時も、反応が遅れていたのはそのせいだったかと思い当たる。
私も、同じく偽名を使っているので、その気持ちは分からなくもない。
「では、皓太郎様、と……」
「様もいらない。私のことはコウと呼べ」
「は、はぁ……」
いやいや、そういうわけにはいかないでしょ。依頼人を馴れ馴れしく呼ぶなんて。
他の生徒がいる前では下の名前で呼ぶことにして、二人きりの時は……適当にごまかそう。
「ところでなんだが……」
「はい。……なんでしょうか?」
皓太郎はなにか触れにくい話題があるようで、ためらいがちに聞いてくる。
私も、何を聞いて来るのかと、少し身構えたが、
「気分を害さないでほしいのだが……お前のその足で、護衛の仕事などして、大丈夫なのか?」
私の包帯が巻かれている右足に視線を注ぎ、そう言った。
ああ、そうか。知らない人からすれば、大怪我に見えてしまうような、大げさな包帯に、触れずにはいられないだろう。
そんなことかと、少しホッとする。
「ええ、まったく問題ありません。これは、ケガではないのでご安心を……ほら、ご覧の通り」
「そ、そうなのか……」
屈伸などをして、問題ないことを示したが……まだ不安そうな顔をするので、蹴りの素振りなどを軽くして見せると、「おおー」と、拍手していた。
そこでハッと、思い出したことがあって、慌てて姿勢を正した。
「コホン……あの、少し、お時間いただけますか?」
「ん?なんだ?」
「今回の護衛について、少し気になる点があったのですが……聞いてもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない。私に答えられることなら」
「ありがとうございます」
この際だから、疑問に思っていた依頼内容について、聞いておこうと思ったのだ。
――まず、私が特に、謎に思っていたのが、
「その……必要に以上に異性を近づけるな……というのは、いったいどういう……」
「む?これは……始業のベル、か?」
「あー……はい、そうです」
魔の悪いことに、一時間目の授業のチャイムが鳴ってしまった。……残念だけど、ここまでだ。別に大したことではないので、今すぐ聞く必要もない。
「それでは、教室に戻りましょうか?」
「……いや、別にいい」
「え?」
戻ろうとしたが、まさかの返事に、驚いた。すぐに皓太郎は、その発言の意図を答える。
「私は、勉学をするためにここに来たわけではないからな。高校程度の教育課程はすべて終えている。ここに来たのは……そうだな……いわゆる、社会勉強、というやつだ」
「社会勉強、ですか?」
「ああ。それが、お前のさっきの疑問に対する答えと受け取ってもらって構わない」
「は、はあ……」
いまいち、何のことかは分からないが、依頼人が答えにくいことを、根掘り葉掘り聞き出すわけにもいかない。ひとまず、納得したことにしよう。
皓太郎が目の前まで歩いてくるので、また身構えていると、
「これから三年、苦労を掛けるな……」
「い、いえ、そんな……それが私の、仕事ですから」
「フ……それでもだよ、幹……よろしく、頼むな」
皓太郎のそのさわやかな微笑みに、不覚にも少しドキリとしてしまった。……ああ、そう言うことか。
皓太郎はすごく美男子だし、それだけで女子が引き寄せられる。それに加え、実家が良家の御子息なわけで、それが知られれば……学校中の女子たちから猛烈なアプローチを受けるだろう……それで将来、変なゴシップをすっぱ抜かれたり、女性問題で厄介事を起こさないために、不用意な異性との接触を避けている、狙いがあるのかもしれない、な。
「こ、こちらこそ……よろしく、お願いします」
頭を下げると、皓太郎が目の前に手を差し出してきた。……それは握手だと、見れば分かる……分かるけれど、
「そ、その……」
「どうかしたか?」
「……すみません。私……いわゆる、潔癖症、でして……他人との接触は、その……難しくて……」
「おお、そうだったのか、それはすまない」
「いえ……」
手を引っ込めて、あっさり引き下がってくれたので、安堵する。……まったくの嘘ではないけど、罪悪感が少し、胸を苦しめた。
器が大きいのか、皓太郎はそのことも別に気にしていないようで、今度は手を口に当てて何か考えている様子だった。……この人は、ころころと、変わる人だ。
「あの……どうされました?」
「なあ、幹……頼みごとがあるのだが……いいだろうか?」
「え?それは今から、ですか?」
「ああ、そうだ」
遅れているとはいえ、今はどこも授業中だというのに、何をしたいというのだ?何かこれからの学校生活で、重要なことなのかもしれない。
「……それは、なんでしょうか?」
「教室に戻る前に、少し学校の中を案内してくれないか?まだ、誰からも教わっていないのだ……」
「……え?」
それを聞いた瞬間、ズッコケるかと思った。
……そんなの、後からでもいいでしょうが!
「どうせもう、授業の開始には間に合わないのだ……もう何分遅れようが、変りはしないだろう?」
「いやいや!……今から戻れば、怒られないで済みますから……」
「そ、そうか……幹がそう言うなら、仕方がないが……」
途方に暮れる子犬のように落ち込んでしまっていた。本当になんなんだ、この人は……。
お金持ちの坊ちゃんだと聞かされていたから、もっとわがままでいけ好かない奴だろうと、多少決めつけていた。もちろん、一般人とは雰囲気からして違うものの、ここまで護衛の私を一切見下さない、紳士的な人間に思えた。
……だからかな、少しだけ、申し訳なくなって、
「……本当に、少しだけなら、いいですよ?」
内カギを開けた瞬間、
「おお!いいのか!よし、ではさっそく行こう!……実は色々と、気になっていた所があるのだ!」
急に元気を取り戻した皓太郎が、廊下に飛び出る勢いで扉を開けた。
「え!ちょ、ちょっと……!」
「まずはこっちからだ、幹!」
飛び出した皓太郎は、先へと行ってしまった……どうやら彼は、とても好奇心が旺盛な人らしい。
……三年間の護衛、ただ面倒なだけだと思っていたけど、少しはやりがいがあるの……かも。
一つため息をついてから、待ってくださいと、皓太郎の後を追った。