プロローグ
……今日は、最悪な一日だ。
朝からアラームが聞こえなくて、三十分も寝過ごすし、ご飯も食べずに色々すっ飛ばして家を出ると、俺のチャリが見当たらない。……そう言えば、昨夜は友達と飲み屋に行って、そのまま徒歩で帰ってきたことを思い出した。
近くのバス停に急いで向かい、発車時刻のギリギリ一分前に到着したけど……五分待ってもやって来ない。どうやら、すでに通過したらしい。
「チッ……クショー!!」
仕方ないので、全速力で走ってバイト先のコンビニへ。。普段の運動不足がたたって、喉からヒューヒューと呼吸が漏れるし、わき腹が死ぬほど痛い。結局十分も遅刻して、夜勤明けの大学生に舌打ちされ、店長からもちろん怒鳴られてしまった。
「……もう、帰りたい」
最近は、「帰りたい」が口癖になってしまっている。この前だって、自宅のお風呂に浸かりながら、「……帰りてぇ」と呟いてしまっていた。
とにかく、こんな気持ちで接客なんて務まるわけがないと、気を取り直して、通勤・通学ラッシュのレジに立った。……と言っても、この店は駅前通りからは外れにある所なので、こんな時間でも人の入りは少なく、別に大したことはない。今店内にいるのだって、サラリーマンとおばあさん、それから、いつもこの時間に雑誌コーナーで立ち読みしている女子高生の、三人だけだった。
三人とも、この時間に入るとよくここを利用している。漫画雑誌には一切目もくれず、週刊誌ばかりを立ち読みしている女子高生に、本当は注意した方がいいんだろうが、余計なトラブルを避けたくて、声を掛けずにいた。
だけど、彼女のことで、いつも不思議に思っていることがあって、それは……。
「……おい!」
自動ドアを抜けてきた男が、千鳥足でフラフラと、直接レジの前までやってきた。五、六十代くらいの、こんな朝っぱらから酒の匂いを漂わせる、おじさんだった。
「……あっ!い、いらっしゃいま……」
「……カネェ出せよぉ、カネェ……」
「はい……?」
カネェ?……何番のたばこだっけ?
酔っぱらっているせいか、ぼそぼそと喋っていて、聞き取りずらい。
「金を出せって言ってんの!!……グズなやつだなあぁ!」
「ひいぃぃぃ!!す、すみません!!すみません!!」
急に大声を上げ、上着のポケットから取り出したナイフをカウンターに突き刺されれて、ようやく理解した。……これ、強盗だ!!
全身からドバっと冷や汗が噴き出た。
震える手で、レジを開ける。……確か、こんな時の対策マニュアルはあったはずだけど、パニックでそれどころじゃなく、ただただ、男の言われる通りに従った。
周りに助けを求めようとしたが、サラリーマンは一人だけさっさと逃げ出し、おばあさんは腰を抜かして座り込んでいた。残る女子高生は、音楽を聴いていてこちらの声が届いていないのか、まだ雑誌に目を通していた。
店長はいつもこの時間、たばこ休憩と称して近場のパチンコに足を運んでいるはずだし、この時間のバイトは、俺しか入れられていない。……ああこれ、もうダメだわ……。
「騒ぐんじゃねぇぞ、ばあさん!」
「ひ、ひぃぃぃ!勘弁してください!勘弁してください!」
「うるせえぇ!!黙れっつってんだよ!!頭にぶっ刺すぞ!」
男は、非常に荒れている様子。酒を飲んで、気が大きくなっているのだろうか?酔いが醒めたら、きれいさっぱり忘れてる、なんてことはないだろうか?それはそれで、こちらとしては、いい迷惑なのだが。
「だぁ・かぁ・らぁ!お前は早く金を寄こせって!!」
「す、すみませんすみません!!」
男は一応、マスクで顔を隠していたが、息苦しいのか喋るたびにマスクをずらすので、ほとんど顔はバレバレだ。唾をまき散らしながら大声でがなり立てるので、強烈に酒臭い。
「……なあ、聞いてくれよぉ……」
「え?……あっ、はい……」
突然、男がカウンターに寄りかかり、何やらしんみりした様子で話し掛けてきた。
「長年勤めてきた会社をよぉ……定年前にクビにされちまって、それから毎日家にいれば、家族からは煙たがれて、居場所はねぇ……四十年と働いてきたってぇーのに、みんな俺に薄情じゃねぇか?」
「え?……ええ、そう思います」
なんだか急に重い身の上話になり、他人事と思えなくなる。
「だろ?だから毎日にパチンコ屋に行って暇をつぶすけど、金は全部するし、楽しみは安酒を煽ることぐらいだ……そんでそこらのクソガキからは、ホームレスだ、なんて馬鹿にされてよぉ……俺は一体、どうしてこうなっちまったんだ……」
「そうですね……その……お辛い、ですよね……」
相手の気持ちに寄り添って相槌しておけば、強盗なんてやめて帰ってくれるんじゃないかと、男に下心を見せないように、頷いていた。……だけど、
「……お前も、俺の事、馬鹿にしてんだろ?」
「ええ、ええ…………え?ち、違います、そんなこと思って……!」
「馬鹿にすんじゃねぇ!どいつもこいつも!俺はずっと頑張ってきたんだァ!!」
結局、どうしたところで、男の怒りは止められないようだった。
「さっきから手が止まってんだよ!テメェも無能だな!!同時にやれねぇーのかよ、同時によぉ!!」
「すみません!すみませぇん……!」
ああ、泣きたくなる。
もう、どうすればいいんだよ……!
とにかく、札束でも取り出して渡そうと手にしたところで、ふと気づいた。
「……あのー、すみません」
「あぁ!?」
「お客様、その……袋は、どうしますか?」
男は手にナイフは持っていたが、袋やバックの類を出してこない。手で握りしめていくなら、お札だけ渡せばいいだろうか?
その問いに男は少し狼狽えると、
「うぅ……それなら、その……レジ袋とか、あるだろうがよぉ!気が利かねぇな!!」
「は、はい!……一枚、三円になりまーす…………はっ」
反射的にそう口にした瞬間、場の空気が凍ったのが分かった。
しまった!余計なことまで口走ってしまった!
俺のバカァ……!!
「……お前、俺のこと舐めてんのか?」
低い声で、男に問い詰められる。酒のせいなのか、目がすごく血走っていて、ナイフを持つ手が震えている。こ、怖いよぉ……。
「そんなことありません!はい!すみません、今すぐに……!」
これ以上刺激しないよう、レジ袋を取り出して、お金を突っ込もうとしたその時、
「……ふふっ……ははっ」
「……っ!」
どこからか聞こえてきたその笑い声に反応して、男は振り返った。
……笑っていたのは、あの女子高生だ!
たまたま、雑誌の記事に反応しただけだろうか。雑誌に目を落としたままだ。……何にしても、男の気持ちを逆撫でするので、今はやめてほしい!
「ちっ……!どいつもこいつも……!……あああ!!」
マスクを外して捨てると、思いっきり拳をカウンターに叩きつけた。
「ひ!」
「もういい!さっさと金を寄こし……!」
「……一枚、三円だってさ」
「……んああ!?」
「ちょ、ちょっと……!」
男は怒りに満ちた目で、再び振り返った。ああ、終わった……。
彼を煽ったのは……あの女子高生だ!
雑誌をラックに戻しながら、さらに彼女は煽る。
「払ってやんなよー。それで何十万ともらえんだからさ。……それとも、袋も持ってこないお間抜けさんは、三円ぽっちも払えないわけ?」
やめてくれー!どうして、そんな挑発するんだ!
若さゆえの、無鉄砲なの?
「てめぇ……!」
「あっ、ちょっとお客さん……!」
男が少女に歩み寄っていく。怒りの矛先が、自分から別の誰かに向かったことで、少しだけほっとしたが、今はそんな場合じゃない。
このままでは、あの子が危険な目に……!
だけど、ナイフを手にした男を相手取る手段も度胸も、あるわけがなかった。
男が少女の目の前に立つ。しかし少女は、怖気づいたり、退いたりしなかった。
頼むっ!これ以上は、何もしないでくれ……!
しかし、そんな願いも虚しく、
「うわっ、酒くさぁ……気分悪いから、ちゃんとマスクしろよ」
「……ぶっ殺す!!」
男は、ナイフを少女の胸目掛けて突き刺す。……ああ、もうおしまいだ!
目を逸らそうとした。だが、
「おっと危ない」
「うげぇっ……!」
少女は上体を軽く逸らして、ナイフを避けた。そしてなんと、ナイフを手にした方の袖口を引っ張って体勢を崩し、さらに足を引っかけて転ばした。そのまま流れるように、腕をひねり上げると、ナイフまで取り上げてしまった。
一連の流れが、あまりにも綺麗で見惚れてしまった。
「な、なにしやがるガキィ!離しやが……!」
「んー……よっと」
「……んがあああああぁぁぁ!!」
男の悲痛な叫び声を上げる。彼女が、男の腕の関節を無理やり外したのだ。男が痛みにのたうち回る間に、少女はすぐそばの棚にあったストッキングを手に取って封を開ける。男の顎を蹴り上げて大人しくさせると、ストッキングを後ろ手にしてぐるぐる巻いた。
「や、やめ……!」
「お!これもいいね……」
「も、もごっ!……むごぉ……!」
近くにあった男物の靴下も適当につかみ、男の口の中に無理やり詰め込んだのだ。
「店員さーん。ガムテープとかないですか?」
「え?…………あっ、はいっ!」
少女の手際のよい一連の行動を、ただ茫然と眺めていたが、声を掛けられてようやく我に返った。急いでバックヤードに取りに行った。
「こ、これを……」
「ありがとございまーす……あっ、さっきのジョーク、面白かったですよー」
「え?あっ……ありがとう、ございます……へへ」
ガムテープを少女に手渡すと、男の頭に巻き付けていく。目、耳、口は重点的に塞ぎ、鼻だけは呼吸ができるようにしていた。そんな行為をしながらも、気を回してさっきの『一枚三円事件』のことまで褒めてくれた。……少し嬉しい。
「……ん!……んんんーーー!!」
男はまだ、そんな状態になってもなお、拘束から逃れようと藻掻いていた。
「うーん……そうだなぁ」
少女はわずかに逡巡したのち、男から離れて別の棚に移動し、何かを物色して帰ってきた。
「じゃーん」
手にしていたのは、ワサビとからしのチューブ。……まさか。
「えいっ」
「!!んー!!んー!!」
男の鼻に突っ込み、ワサビとからしを同時に押し出した。男の悶える姿を見て、こっちまで鼻がツーンとしてくる。ガムテープの隙間から涙や涎が漏れ出てきて、ぐっしょりとしていた。
彼女は、完全に憔悴しきった男の耳元に顔を近づけると、塞がれている耳でも聞こえるよう、叫んだ。
「おい、お前!!……今度またこんなふざけたことしたら、ただじゃ済まさねぇからな!炭酸水をケツから流し込んでやるからな!」」
「……」
「返事!」
「は、はひ……!」
首を縦にブンブンと振り、男は返答した。さすがに今ので、酔いも醒めてきたのだろう。
そのやりとりや男の今の姿を見ていると、拘束というより、拷問されているように見えて、なんだか気の毒さえに思えてきた。
「それから、朝早くから私たちのために働いてくれるお兄さんに、迷惑かけたことも謝んな!」
「お客さん……!」
いいんです、いいんです。その言葉で、今日一日の嫌なこと、すべて吹き飛びましたから。
「ふひはへんへひは……」
「あっ、はい。もう、大丈夫ですから……」
もうこの男に対する恐怖心は、一ミリもなかった。……それよりも、もっと逆らってはいけない人間が、すぐ横にいるからだ。
「二度と調子ん乗んなよ!おっさん!!」
「ぐうぅっ……!!」
「……ひっ!」
最後に思いっきり男性の急所を蹴り上げると、男は意識を失った。同性として、その悪魔的な行為に体が縮みあがってしまった。
「念のため、ロープとかで縛っといた方がいいですよ。……ま、もう振りほどく力もないだろうけど……後、警察呼んどいてくださいね」
「あっ!そうか、警察……」
ぐったりした男の横で、少女に事細かくやることの指示を受けていた。久しぶりに、百均で買ったメモ帳を取り出して、聞いたことを書きなぐる。
……なんだかもう、大人として最初から最後まで、恥ずかしい。頼りなくて、本当にごめんなさい。
「それと、成り行きとはいえ使っちゃった商品は……弁償した方が、いいですか?」
「あっ!もう!そんなのは気にしなくていいですから!!なんなら、この人にツケときますから!」
拘束されている男を指さしてそう言った。
「ほんとですか?ラッキー」
彼女と会話していても、今どきの若者、といった風だ。――だけど、今までずっと気になっていたことが、ある。
腰元まで届きそうな、長い黒髪の普通の少女……のように見えるのだが、問題は――その右足だ。
見かけるようになってから一か月くらい経つが、ずっと右足に包帯を巻いている。それがイマドキのファッションなのか、大きな怪我によるものなのかは分からない。……あんなに身軽に動けるようなら、怪我ではない、のか?
それからさっき、男を相手していた時の拍子にちらりと見えてしまったのだが……本当にたまたま、未成年に変な視線を向けていたわけではなく……普段はスカートで隠されていて分からなかったが、膝の少し上、包帯を巻いている右の太ももに、大きな金色のリングをつけていた。……一体、なんなのだろう?
それらを除けば、どこにでもいる、普通の女子高生だ。
……だけど、強盗犯を華麗に撃退してみせたあの姿を見た今なら、普通なんて言葉では片づけられないほど、彼女から強烈な光が放たれているように見えてくる。……ありがたや、ありがたや。
「じゃあ、もう学校の時間なんで……私は、これで」
「ちょ、ちょっと待ってください!確か、こういう時は……」
警察が来るまで、待機してもらう……だったっけ?
そう思って呼び止めるも、彼女は床に置いていたかばんを手に取ると、自動ドアまで駆けていった。
「ごめんなさーい……それから、警察には私の事、ナイショで!……お願いしまーすっ!」
「ああ!そんなっ……!」
待ってくださいと言葉を続けようとしたが、別の所から声が聞こえてくる。
「店員さーん!……どうなったのかしらー!」
「え?……あっ、そうだ……はーい!ちょっと待ってくださいね!」
そう言えばまだ、腰を抜かしたおばあさんがいたんだった。
おばあさんに気を取られている間に、少女は行ってしまった。残念だけど、諦めよう。
最後まで、謎の尽きない少女だったな……。
とにもかくにも、今からやることを、改めて確認する。
今から警察を呼んで、おばあさんの介抱をして、ロープを取りに行って、パチンコ屋から店長を呼びに行って、と……たぶん今日は、夜までやることが尽きないだろう。そう思うとすでに、憂鬱だった。嫌なことは一度にやってくるとも言うけれど、何もここまでなくったってと、思う。
本当に、最悪な一日……だけど、それでも、理不尽が横暴する世の中でも、救いの手を差し伸べてくれる存在がいることを知って、触発されて、よぉしやってやろうと、なんだが元気が湧いてきた。飲料コーナーからエナジードリンクを取り出して、一気飲み。……店長だろうが、警察だろうが、どんとこい。あの少女に恥じないよう、今日一日ぐらい、乗り切ってみせる!
……また、彼女はコンビニに来てくれるかな?
息を吸って、深呼吸をする――そして、腹に力を入れた。
「……すみません!警察ですか!?事件です!……コンビニ強盗なんですぅ……!!…………」
※
「あー、もー、最悪……ごはん買い損ねた……」
いつも立ち読みをした後に、朝と昼用のおにぎりや菓子パンを買っていたので、何も買えずに出てきてしまった。あの、アル中野郎のせいで。最悪の一日の始まり、だ。カバンから、いつも忍ばせてるビーフジャーキーを取り出して、やけ食いする。
あのコンビニは、いつも店員が一人で忙しく、新聞や雑誌を立ち読みしていても注意されなかったので、贔屓にしていたが、これでもう完全に顔を出せなくなった。ほんと、踏んだり蹴ったり。……まあ今回の件については、いつもお世話になってるお礼だと思えば、留飲が下がるというもの。
仕方ないけど、新しいコンビニ、見つけなきゃ。
「……だっるいなー……」
私――宿木幹は、早足で学校へと向かった。……遅刻までは、さすがにしてらんないからな。