内乱の終焉 ①
武宗が崩じて一年余、すでに寧京は灰燼に帰し、諸王はいたずらに小競り合いを繰り返して互いに消耗していた。最初に脱落したのは斉王耶律愛国である。ついに呉王愛舎に屈して、開方府に火を放って自害した。
薊王耶律竇徳は依然として興京を出なかったが、天下の人衆は漠地で水を欲するかのごとく、その出馬を願った。諸王も後援を得ようとしきりに使者を送ったが、いずれも病と称して会わなかった。しかしすべて乱を避ける方便であったことは、まもなく天下の知るところとなる。
924年二月、武都に薊からの早馬が到着した。
「薊王危篤」
の報せであった。魯王糜奉はおおいに驚いて兄の糜達とともに興京に急行したが、あわてて宮城に入った二人はあっさり拘束されてしまった。騒ぐ二人の前に敢然と姿を現した竇徳は、これを睨みつけるとひと言、燕王カマラのもとでの謹慎を命じる。また城外にあった魯王の腹心たちを招き入れると、これも残らず捕らえて罪過に応じて処断した。
それが済むと即座に兵を興し、昼夜兼行で武都に至る。突然の薊軍の来訪に武都側は驚いたが、軍師劉慎が使者として赴き、武都留守の袁朗を説いて無事に入城を果たす。魯王の家臣が右往左往しているうちに竇徳は武都を制して、あっと言う間に人事を刷新した。袁朗は武都留守司の職に留まったが、これは彼がもともと竇徳の幕僚の一人で、糜奉の暴走に批判的だったからである。
薊魯二国を掌握した竇徳は、薊王興京留守の名で中原全土に檄文を放つ。諸王の非を鳴らし、その下で争う諸州を戒めたものである。また同時に兵を発して、與州、鑚州を落とした。二州の太守が人衆を顧みず、晋王派と呉王派に分かれて干戈を交えていたからである。これを見て天下は竇徳が本気で乱の収拾に乗りだしたことを知った。先の秦王拓拓との違いを感じたのである。たちまち多くの諸侯、太守が恭順の使者を送った。
次いで許州の叛乱鎮圧に着手する。叛乱の首魁は後秦の遺臣で楊仙明という人物だった。許州を本拠に十万の兵衆を集めている。竇徳は周辺の諸侯を動員して、ともにこれを伐った。楊仙明はほどなく敗れて斬首された。その後も近辺の叛徒を、あるいは討伐し、あるいは降伏させた。
この「皇宗を後にし、賊党を先にす」る基本戦略は、劉慎の発案である。大義名分を明らかにし、民心を得ようとするものである。竇徳は決して皇族を討とうとはせず、もっぱら大興に対する叛乱に兵を向けた。その際には近隣の諸侯や太守に呼びかけて、必ずともに兵を動かした。天下は竇徳に靡くようになり、晋王、呉王らは孤立した。
これでは両王も争っている場合ではない。924年十一月、晋呉の同盟が成立したが、それは自らの首を絞めただけであった。配下の州県の離叛が相次ぎ、対応に追われるようになった。今や晋も呉も倒れる寸前であった。それでも竇徳は彼らを討とうとはしなかった。それどころか幾度も書簡を送って、和平を試みた。これを蹴り続けたのは晋呉両王である。
また燕王カマラに、宋王ウラススの召還を求めた。宋王は中華の風俗を理解せず、時に兵を率いて自領で略奪すら行なっていた。無論、カマラにはその暴政については知らせない。カマラは要請を快諾すると、代官オルトクを派遣した。周囲は宋王が抵抗するのではないかと危惧したが、驚くほどあっさり承知する。帰途には僅かな供を連れて、武都にて竇徳に挨拶さえした。
劉慎らは彼が去ってからも警戒を解かなかったが、何ごともなく一行は長城を越えた。幕僚たちは胸を撫で下ろしたが、しばらく宋王の話題が絶えなかった。彼らにとって宋王ほど謎が多く、理解に苦しむものはなかったのである。