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開治の乱 ③

 一方、同じ草原(ミノウル)の出身ゆえ拓拓に親しみを覚える宋王ウラススは、寧京入城を請う。拓拓は制止する廷臣たちの言を容れず、それを許した。宋王は狂喜して城に入る。宋軍の多くは草原より連れてきた騎兵で、軍律を解さず、略奪こそしなかったが、城内を闊歩して横暴を極めた。人衆は昼間から門戸を閉ざして震えるばかりであった。


 廷臣たちは秦王に失望した。秦兵、宋兵の入城によって糧食はさらに欠乏した。中書大丞の任にあった陸景は、両王を退去させるために斉呉討伐を進言したが、拓拓は、


「斉呉の王だけが悪いわけではあるまい。余は先帝の子が干戈を交えていることを憂えるのだ。余の望みは彼らが話し合って平和裡に後継を定めることである」


 そう言って兵を出そうとしない。それではと今度は御史大夫周秀が、


(けい)王は天下の乱れをよいことに帝位を狙っています。願わくば秦王自らこれを討伐なさいますよう」


 拓拓は心中深く期するところがあったので、これには深く心を動かした。宋王に命じて薊に遠征させることにする。ウラススも寧京に飽きていたので喜んで出立した。廷臣たちは僅かに安堵した。


 しかし宋王を送りだしてしまうと拓拓は野心を(あらわ)にして、廷臣たちに己を皇帝に推戴するよう迫った。廷臣たちはおおいに驚いたが、十万の大軍を背に脅されては(あらが)うこともできない。


 やむなく周秀が即位を請願する書を奉った。本来中華(キタド)の慣習によればここで幾度か辞退するべきであったが、草原出身の拓拓が知るはずもなく、快く承知して即位を内外に宣言してしまった。廷臣たちはおおいに嘆き、自刎(じふん)して果てるものが一昼夜に数十人もあったという。


 拓拓が登極するや、晋王、斉王、呉王、魯王はただちに和睦して兵を併せ、一斉に寧京を攻めた。しかしこの間にも各王を支持する諸侯は争い続けていた。今や中央の政局云々よりも己の所領拡大こそが目的となっていたからである。また叛乱勢力もそれぞれ王を称し、また帝を称した。宋王ウラススは薊軍と戦っていたが、拓拓即位を知ると激怒して兵を収め、宋に帰っていった。


 さて拓拓は全軍を率いて四王の連合軍を迎え撃ったが、あっさりと撃ち破られた。先に西秦を討った際の果断な名将と同じ人とは思えぬほどの無残な敗北であった。己の武勇を過信して四王を侮ったがゆえである。


 敗れた拓拓は敗残の兵を連れて寧京に逃げ込もうと図ったが、陳右烈らは固く門を閉ざして受け容れなかった。激怒してこれを猛然と攻め立てたが破ることかなわず、関中へ向けて退却する途中、病を発して死んだ。


 代わって四王が寧京入城を果たす。御史大夫周秀は秦王に(おもね)ったとして、斬首された。また中書大丞陸景も先に斉呉二王を(おとしい)れようとしたことが知れて、やはり斬られた。廷臣たちがようやく平和になるかと喜んだのも空しく、城内で四王は再び反目、ついには市街戦となった。至るところで火の手が上がり、刀槍の交わる音が満ちた。


 さらに関中では拓拓の遺子全冉(ぜんぜん)が挙兵、望谷関を越えて進撃してきた。四王はもはや連合してこれを迎え撃つこともできず、寧京に火を放って退去した。これに陳右烈は猛然と抵抗して魯兵に殺された。全冉は炎上する寧京を望んで嘆息すると、


「とうとう永安(寧京の旧名)の代は終わった」


 とて陝陽(せんよう)府に退いた。陳朝より中原の中心であった永安(寧京)は、ここにその栄光の幕を閉じたのである。

挿絵(By みてみん)

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