武宗の華北統一 ②
関中で後魏の成立を知った荘宗の弟李建は、すぐに帝位に登って秦朝の存続を宣言したが(高宗)、この陝陽を都とする国は後世区別されて西秦と称される。
その間にも武宗の進撃は続き、909年、念願の永安入城を果たした。永安はほとんど抵抗もなく、熟れた果実が落ちるように武宗の手に入った。ときに武宗は32歳、得意の絶頂であった。永安を「寧京」と改めて大興の首都とした。百官はこの偉業を称えて万歳を唱え、気を好くした武宗は功臣諸将をおおいに嘉賞した。
興京を預かる弟竇徳も薊王に封じられたが、返礼の使者がもたらした彼の上書は、その慢心を戒めるものであった。武宗の侍臣たちはにわかに色めき立ち、竇徳の無礼を言い募ったが、武宗は、
「竇徳の言うとおりだ。これこそまことの忠臣である」
とて使者に莫大な恩賞を与えて興京に返した。また文武の官を集めて、大業いまだ成らざることを告げ、気を引き締めた。たしかに後秦の旧領制圧も完了していない上に、南には劉道斉の後魏が、北には北晋が、西には西秦がいまだ割拠していた。
910年、武宗は降将楊虎に命じて北晋を攻めさせた。先に宋湘喜を斬って安心していた北晋は、あわてふためいて違約を責める使者を送ったが、その間にも兵鋒は迫り、防戦半年で首都代原府は陥落した。武宗はそのまま楊虎を留めて代原太守とした。
同時に拓羅勁、孔廉、陳余穣の三将に後魏討伐を命じて、二十万と号する大軍を与えた。実数はおそらく三分の一程度だったと思われるが、それでも後魏を圧するには十分であった。窮した高祖劉道斉は四隣の国に援軍を求めた。楚州に都する南楚、漢中に都する後蜀、臨業に都する東呉などであったが、いずれも断られた。大興の大軍は卞梁をひしひしと囲む。これより長い籠城戦が始まった。
征魏戦を指揮する拓羅勁は、焦ることなくじっくりと敵の衰弱を待った。陳余穣は一軍を率いて周辺の州城を攻略、卞梁を孤立させた。卞梁の糧食はたちまち尽きた。軍馬を殺し、鳥を撃ち、鼠まで捕り尽くしたがなお足りず、草の根を掘り、木の皮を剥ぎ、ついには互いの子を取り替えて食べた。
劉道斉の眷属すら瘦せ衰えて宮城内を彷徨し、少しでも食べられそうなものを見れば激しく奪い合った。高祖劉道斉も次第に狂気が生じて、近臣、女官をわけなく斬るようになった。そしてその死体はすぐに運び去られて食卓に並んだ。
籠城三年、ある夜高祖は突如乱心して白刃を振り回し、併せて二十余人を斬ると、喀血して倒れた。あとを継いだ劉遷諸は即座に降伏した(913年)。そのとき卞梁には疫病が蔓延して、まともに立っているものすらなかった。
拓羅勁は入城して人衆を宣撫すると、劉遷諸らを寧京に送った。武宗は劉遷諸から皇帝の印である玉璽を奉られた。劉遷諸は後魏の後主と称されて、宛州に食邑を与えられた。その家は大興ののち、張の世を経て、梁に至るまで続いた。
さて、後魏滅亡の前年、代原太守楊虎が叛乱を起こすという事件があった。主な将軍が卞梁に集まっている間隙を衝いたのである。これは武宗自らの手でほどなく鎮圧されたが、以降武宗は降将を信じなくなった。後秦、北晋などの降将が次々と粛清された。かつて弘毅寛容と称えられた武宗は、このころから猜疑心が強くなっていく。
ただ弟の竇徳への信頼だけは揺るがなかった。疑心の虜となった武宗が頼れるものは血縁だけだったのだろう。そのことは多くの血族を分封することに繋がり、のちの開治の乱の要因となるのだが、それについては後述する。