武宗の華北統一 ①
大興帝国3代目は耶律懿徳(武宗)である。武宗は太宗の嫡長子として南遷の年に生まれた。すなわち初の中華で生まれ育った皇帝である。即位時の年齢は27歳(※数え年)。心身ともに充実した青年皇帝の誕生である。充実していたのは武宗だけではない。太宗の善政のおかげで国庫には富が蓄積され、その国力において中原には比肩しうる国はなかった。
武宗は皇太子のころより太宗の専守防衛策に不満を持っていた。そこで好んで拓羅勁や孔廉、陳余穣といった武断派の将軍と交わった。太宗はこれを危ぶみ、袁白慶や王煩などの老儒を附けて、その血気を抑えようとした。
また次子の耶律竇徳(のちの高宗)を愛して、武宗を疎んじる気配すら見せたので、危機感を覚えた武宗は武断派から遠ざかり、おとなしく学問に打ち込んで見せた。また竇徳も身を慎んだので、皇太子派と竇徳派に二分されかけた朝廷も落ち着き、太宗も安堵した。
しかし武宗は即位するや、たちまち袁白慶らを退け、拓羅勁らを抜擢して要職に任じたのである。このとき、廷臣の宋湘喜なる人物が武宗の意を迎えんとして竇徳を誹謗、これを除くよう進言した。すると武宗はおおいに怒り、
「血を分けた弟を疑うようでは、どうして天下の衆庶を信ずることができようか」
そう言ってこれを追い、再び用いることはなかった。宋湘喜は後難を怖れて、後晋のあとを襲った後秦(894~908)の武帝の下へ亡命した。
耶律竇徳は幼少より常に兄を立て、謙虚な態度でこれに仕えたので信頼も厚く、除かれるどころか中書令に任命されて、兄を輔けた。
武宗は即位翌年の905年、早くも華北統一へ向けて行動を開始する。まず、太宗に敗れてより忠実な盟邦であった安土邦の死に乗じて、東斉を併合した。906年には営州に入り、その都城を拡張して名を武都と改めると、華北制圧の基地とした。興京は竇徳が預かり、前線への補給を担った。以後、武宗は死ぬまで興京に帰ることはなかった。
拓羅勁を中心に軍を強化する一方、燕王カマラにも勅使を派遣して草原の精鋭を送らせた。応じて軽騎四万を率いてきたのは、耶律光度の孫でカマラの甥にあたるトトである。武宗はこれに耶律拓拓の名を与えて重用した。
こうして外征の準備が整った907年、歩騎併せて十二万の大軍を率いて武都を進発する。目指すは後秦の都永安である。永安は武帝の崩御直後で動揺していた。ただちに皇太子が即位(荘宗)したが、逃げだすものがあとを絶たず、手をこまぬいているうちに武宗は破竹の進撃を続けて、諸州を次々と攻略していった。
急を報せる早馬が頻々と到って、荘宗はようやく手を打ちはじめる。大興から亡命してきた宋湘喜を中山に割拠する北晋に急派して援軍を請う。しかし北晋はこれを断り、武宗に恭順の使者を送った。宋湘喜の首を持参すれば武宗はおおいに喜び、北晋を侵さぬことを約した。
次いで荘宗は、やっとのことで迎撃軍を編成して大将軍楊虎に託したが、彼は一戦も交えることなく軍勢もろとも武宗に降伏し、かえって先鋒となって永安に迫った。万策尽きた荘宗は永安脱出を図る。皇后劉氏の実家がある魏へ向かったのである。魏を治める劉道斉は皇后の兄であったが、荘宗を迎えるとこれを恫喝して皇位を奪った(908年)。すなわち後魏の高祖、都は卞梁である。
陳朝以来、正統を主張する王朝(後斉・後燕・後晋・後秦)はいずれも永安に都したが、ここに初めて永安以外の地に都をおく王朝が成立した。といっても後魏の領地は、歴代の短命王朝に比しても格段に狭く、僅かに卞梁の周囲十余州に過ぎなかった。