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大興帝国の興隆 ②

 明けて878年、アルバクは部族の人衆十万を率いて遷都を敢行した。遼州の興京がそれである。在地の華人官僚を登用して、百官を定めた。さらに879年には「改姓の詔」を発して自ら名を「耶律妟抜(やりつ・あんばつ)」と改めると、部族の積極的な中華(キタド)化を推進した。南遷当初は頻発した華人の叛乱は次第に鎮静に向かったが、これもアルバクの華化政策によるところが大きいと云えよう。


 アルバクはその後は興京を動かず、乱世の推移を見守った。その傍ら志学館などの大学を建てて、部族の子弟に華語や華籍を学ばせた。彼自身は華語をまったく解さなかったが、華人幕僚を招いて中華の歴史や経書を講義させることを好んだ。特に蔡朝を開いた太祖武帝の事績に感銘すること深く、読めもしない武帝の詩書を常に携帯するほどであった。


 この中華への傾倒に顔を(しか)める老臣もあったが、アルバクが意に介することはなかった。華化に不満を持つものは、草原(ミノウル)に返して旧来の生活を続けさせた。アルバクも、草原まで中華式に統治することの無理は承知していた。そこで草原には草原の法を、中華には中華の法を適用して、いわゆる「二元統治」を行った。


 草原には嫡長男たるカンドゥを()って治めさせた。彼も耶律光度という華名を持ち、かつ燕王に封ぜられた。以後、草原は代々カンドゥの子孫が支配することになる。このあと、4代高宗のころまでは中華と草原の紐帯は強かったが、時を経るにつれて両者の結びつきは次第に希薄にならざるを得なかった。


 中華に憧れ、ついにその一角に地歩を築いたアルバクは888年、興京にてその生涯を終える。在位19年、廟号は太祖である。




 太祖のあとを襲って即位したのは、次子耶律簫如(やりつ・しょうじょ)、すなわち大興の2代太宗である。太宗は兄のカンドゥとは異なり、やはり華化に積極的であった。と言うよりも、仮に太宗がそれを望まなかったとしても、今さら草原の風に戻すことは困難であった。大興の貴族の多くは完全に華化していたのである。


 しかし太宗は、草原の重要性については充分認識していた。その証左に、即位するや否や草原を治める燕王カマラに勅使を送っている。ちなみに先の燕王カンドゥは、太祖崩御の前年にすでに鬼籍に入っていた。


 太宗は晩年の太祖に(なら)って外征を控え、内政に力を注いだ。その治世の間に税収は倍増し、国庫には蓄えが満ちたと云う。噂を聞いた他国の民は、争って大興に流入した。


 後晋(こうしん)の文人、荊若(けいじゃく)はこれを憂えて、時の皇帝穆宗(ぼくそう)(胡峰の子)に諫疏(かんそ)を呈している。本来華人が行うべき徳治を夷狄(いてき)の皇帝が実践し、また民衆もそれに(なび)いていることに憂憤を覚えたのである。ちなみに穆宗はこれを容れるどころか、おおいに怒って荊若を捕縛しようとしたので、荊若は絶望して縊死(いし)してしまった。


 一般に太宗は内治の人と認識されているが、実は軍事にも()けていた。そもそも南遷以前には太祖の輔翼として一軍を任され、数えきれないほどの軍功を挙げている。内政家に転じたのは、興京に入ってからである。太宗はここでも抜群の能力を発揮して、父太祖を喜ばせた。あるいは父よりも資質において勝っていたかもしれない。


 帝位に登ったあと、太宗が軍事の才を示したのは僅かに一度だけである。900年、朱家没落後の山東を制して東斉を建てていた安土邦が、十万の軍勢をもって境を侵した。うろたえる幕僚たちを一喝した太宗は、周囲の反対を押しきり、自ら三万の兵を率いて興京を発つ。昼夜兼行して南下した大興軍は、東斉軍を散々に撃ち破って安土邦を捕らえるという莫大な戦果を得た。この報は天下を震駭させ、諸侯は先を争って入朝した。


 実はこの勝利の直後、幕僚の一人が、


「余勢を駆って開方(東斉の都)に進撃し、山東を併呑せん」


 と提案したが、太宗は莞爾と笑って、


「それは名案だ。興京を発つ前のお前に聞かせてやりたかった」


 幕僚はおおいに恥じて、その場を逃げ出した。結局、安土邦は無条件で釈放された。安土邦は恐縮して、以降はその忠実な盟友となった。華籍に「怨みに報いるに徳をもってす」と謂うが、太宗はそれを何の(てら)いもなく実践してみせたのである。


 その後は大興を侵そうとするものもなく、904年、在位16年で治世を終えた。『六朝史』を編纂した隆朝の陸脩(りくしゅう)は、太宗をして「六朝代随一の明君」と(たた)えている。

挿絵(By みてみん)

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