元興の治 ③
こうした改革により地方行政は中央の統御の下、精緻に整備された。武宗の行なったような血縁の分封は完全に廃止され、ただ僅かな功臣が封国を得たに過ぎない。それも規模は最大で四県程度であった(劉慎の鄂国)。
高宗の確立した制度は、大興末の仁宗、宣宗代(983~90)に至るまで改められることはなかった。仁宗代には外戚や血族の分封が再開され、そのころから大興は没落していくのである。すなわち大興の栄光は安定した地方支配の確立によって頂点に達し、その崩壊によって終わりを告げる。
中央官庁においても大胆に合理化が推し進められた。形骸化して実務のない冗官を廃し、大規模な人員削減を敢行した結果、国庫における人件費の割合は三分の一以下に減ったとさえ言われている。
また杜如白の建議によって税制の改革が審議され、それに先駆けて全国の戸籍が整備された(930年)。新たに置かれた三十余州の区劃に応じて作られた戸籍は、「元興口冊」と称され、以後の中華王朝が範とした。
これによると当時の華北の戸数は約八十万戸、人口は約400万となっている。陳朝中期のものと比べると実に人口は四分の一以下である。うち続く戦乱や飢餓による人口の減少があったことは無論だが、主たる原因は大量の流民の存在である。流民の数は戸籍に反映しない。その証左に十年後に再び行なわれた調査では、人口は525万人と急増している。高宗の治績がおおいに上がって社会が安定したおかげで、多くの流民が本籍地に帰還したためである。
この元興口冊の成果をもとに税制が改められたのは、933(元興八)年である。陳朝初期には全国に「均田制」と称される土地の支給制度を実施して、民衆から「租・調・庸」と呼ばれる税を徴収していた。「租」とはすなわち支給した田地から上がる税、「調」とは布帛などの納入、「庸」とは土木工事などに労働力を提供するものである。
しかし貴族官僚の私有地所有の増加、国政衰退に伴う地方に対する統制の弱化、商業経済の発達などによって陳朝中期には均田制とそれに依拠する税制は崩壊した。陳朝は何ら有効な手段を講ずることができずに国庫は窮乏し、産業の専売化や、無計画な臨時徴収を重ねたために民衆の離叛を招いた。
陳朝崩壊後の六代諸王朝も恒常的な戦争状態にあったために税制の根元的な改革には着手しなかった。場当たり的で無軌道な徴税は民力を低下させ、結局は国庫を毀ることを知っていた高宗は、実情に合致した税制を整えるべく李聞、諸葛嬰、杜如白ら優秀な幕僚の知恵を結集してこれに当たらせた。
この税制改定の過程で頭角を現したのが、のちに宰相となる王班である。王班は時の官僚の中でも異色の存在と言ってよい。彼は遼州の商家の次男として生まれた。薊王だった竇徳のもとに出仕したのが開治の乱勃発の前年、24歳のときである。竇徳が人材登用において出自に拘らなかったことがよくわかる。
しかし彼は、同年代の馬建などが華々しい活躍を見せるのとは対照的に、常に後方で地味な任務に従事していた。ゆえに開治の乱を通してその名が顕れることはなかったが、高宗即位後、諸葛嬰に才幹を見出されて一躍中央に抜擢された。興京府から尚書省に移った王班は、諸葛嬰の懐刀としてみるみる頭角を現し、税制が定められた933年には36歳の若さで尚書左僕射となった。
この商家の次男の急な昇進を妬むものも無論あったが、諸葛嬰や杜如白などの中興の功臣の厚い庇護の下、存分に才能を発揮した。のちに諸葛嬰が病に倒れると、ついにそのあとを襲って宰相となった。高宗は常々群臣に向かって、
「朕の幸せは、創業に劉慎を、守成に王班を得たことである」
と語っていたという。また王班自身、温厚な人柄で人と争うことがなかったため、多くの人に敬慕された。後代の宰相、史家も理想の宰相として彼の名を挙げるものが少なくない。